第百三章 馮異 其の一
1
気がつくと空を舞っていた。馮異は自身の腕や身体を見回して、その羽毛に覆われた焦げ茶色の姿を認めた。鷹の類いだ。
どうやら、夢を見ているらしい。
気づいたのに覚めないとは奇妙な夢だな、と思う。
空から地上を眺めると、そこには美しい街が広がっていた。
すり鉢状の土地に建物が密集し、上空から見るだけでもかなりの規模の都市であるとわかる。建築物には奇妙な形のものがいくつかあって、異国の都であるらしいと馮異は結論づけた。
これ程の都がある国がもし現実に存在するのであれば、漢にとって大きな脅威となるだろう。
近寄ってもっと詳しく見よう、そう思って高度を下げようとした馮異を、背後から突風が襲った。
もがきながら態勢を立て直そうとする。その横を巨大な何かが轟音とともに通り過ぎていった。
銀色に輝く鳥のようなそれは、妖しく、そして美しくさえあった。
馮異はしかしそれが鳥などではないことをひりひりと感じていた。
あれは器械だ。
銀色の器械は鳥が糞をするように何かを地に向けて落とした。
落ちていくそれを眺めていると、眩い光が雲上に放たれた。続いて地上から灰色の雲が立ち昇り、それが不気味な茸のような形になった。
地上に何かとてつもないことが起きた、そう思った馮異は羽毛が焼けるのも構わず、地上すれすれまで降りていった。
何かが落ちたと思しき場所は盤古が巨大な爪で抉ったかのように何もなくなっていた。その周囲の建物もあるものは吹き飛び、あるものは外枠だけを残して消失していた。少し離れると家の形が残っている、今度目につくのはその壁面に刻まれた人影のような模様だった。恐ろしい想像が浮かんだが、流石にそんなわけはあるまい、と頭から打ち消した。
土塊のようなものを見つけた馮異は近づいてみることにした。鼻腔に広がる肉の焼ける臭いが、起きた惨劇を馮異に伝えていた。
それは子供とそれを庇うように覆いかぶさった母の成れの果てであった。
周囲には何かが動く気配を感じる。振り向くと赤黒い人型のそれが近づいてきた。一歩動く度に形が崩れ、右腕が溶け落ち、左脚がもげ、そして最後には頭らしき部分がずるりと溶け落ちて地に転がった。
空を見上げると茸状の雲に黒い靄が混じり、さながら髑髏の様に映っていた。
唐突に目の覚めた馮異は汗でじっとりと湿った寝間着を触り、ため息をついた。明日には戦地につくというのに、何という夢だ。
2
天水郡に到着した馮異は、天水・朧西攻略戦の総大将である来歙の歓迎を受けた。来歙の下に集められた将軍は、馮異の他に耿弇、蓋延、馬成といった面々である。
「私が軍政両面の最高責任者ということにはなるが、陛下からは個々の戦闘に関しては馮異殿の判断を最大限反映させよとの命を受けている。貴殿が到着したらこれを渡せと仰せつかった」
来歙が紫の布包から取り出したのは、古参の将軍なら必ず目にした事のある七尺の宝剣であった。
「これは、陛下の使われていた天禄の剣ではありませんか」
「いかにも。更に詔によって、貴殿は天水郡の太守に任命された」
馮異は既に安定郡と北地郡の太守に任命されている。この上さらに天水郡の太守にもなると、その領域は諸侯王にも匹敵するものとなる。
「貴殿がもし反旗を翻したらとんでもないことになるわけだ。しかし、貴殿がそれをする事は絶対にない、という信頼の証としてその大剣が下賜されたのであろう」
「……慎んで拝領いたします」
馮異はその後、耿弇から敵である隗純軍の状況について一通りの説明を受けた。隗純は王元や周宗といった父王の代からの重臣や公孫述の援軍に護られて、冀県に立て籠もっている。明日、明後日にも侵攻を開始する構えであった。
馮異は公孫述の援軍についての詳細を尋ねたが、不明であった。
3
馮異が到着した明朝に隗純軍は行動を開始した。しかし、程なくして、偵察部隊からの報告を受けた馬成は怪訝な顔つきにさせられた。
隗純軍は壺のような物を陣前に並べると後退を開始した、というのである。
なんであるかはわからないがともかく罠であろうという判断により、馬成は様子を見るよう全軍に通達した。
隗純軍の陣では、大将の隗純が一向に進んでこない漢軍を見て落ち着きをなくしていた。
薄い唇、細い眉、母親似のその顔は蒼白になっている。
「ち、趙匡、敵がアレに近づいて来ないぞ。どうするんだ」
「ご心配めされるな。ただ、陛下の兵を今しばらくお借りしたいですな。よろしいか」
公孫述の援軍として派遣されたのは趙匡であった。
趙匡は隗純軍を壺が並ぶ列の線の近くまで前進させた。
隗純軍が前進してきたのを見て、馬成は敵が罠の作動を諦めたのだと判断した。
馬成が前衛となり、漢軍は徐々に近づいていく。
「ふん、仕掛けは上手く行かなかったようだな」
大斧を構えた王元を見て、趙匡は梟のような大きな目を瞬かせた。
「なぁに、これからですよ」
趙匡が杖を高く掲げると、成軍の白装束に身を包んだ兵士が弓を構えて進みでた。その弓は通常の弓ではなく、投石に使う弾弓だった。
「ま、まさか貴様!」
「ここで勝たねば、どうせ皆死ぬのだ。やれ!」
杖を振ると弾弓から一斉に石が放たれた。
石は設置された壺を打ち砕き、その中から薄ら白い煙が拡がった。
煙に巻かれた両軍の兵士は目や口を押さえてその場に崩れ落ちた。
成蜀の白装束の兵士達は崩れ落ちた漢軍に対し、一斉に矢を放つ。隗純配下の兵士も多く巻き込まれているが、矢の雨は執拗に降り続いた。しかし、馮異は周囲に厳命する。
「まだ危険だ!煙が晴れるまで近づくな!」
「閣下、蓋延将軍が馬成将軍を助け出すと言って突入しました!」
蓋延は服の袖を引きちぎると口の周りに巻きつけ、単騎で突入したのであった。
落馬して痙攣している馬成を担ぎあげると馬に鞭を打って駆け戻る。矢の雨の中を抜けた蓋延を見て、諸将からは感嘆の声が上がった。
「出鼻を挫かれた。敵の兵器について対策が済むまで、全面的な対決は取りやめる。撤退する」
撤退した馮異は、倒れた馬成の症状が落ち着くのを待って何が起きたのか聴き取る事にした。
手当てをしたのは医学の心得がある耿弇である。
「馬成殿、馮異将軍から尋ねたいことが二三あるそうだ。答えられるか」
寝台から身を起こした馬成は力なく頷いた。
「あの壺が割れてから倒れるまでの経過を、答えられる範囲で教えて貰いたい」
「…….壺が割れると妙な臭いがしました。壺から出てきた煙が周囲に満ちると、目や鼻、喉がひりひりと痛み出しました。その内、喉に熱い吸い物を無理に飲んだような感じがして、立っているのも困難になり、ついに倒れたのです」
「どんな臭いだったか覚えていますか」
「卵が腐ったような、嫌な臭いでした」
「ありがとう。ゆっくり休まれるがよろしい」
馮異が部屋を出ると続いて耿弇も出てきた。
「さっきの証言は……温泉で倒れる者の言い分に似ていますな」
「ほう。毒の種類に心当たりがありますか」
「そこまではっきりとは言えませんが。薬効のある温泉の黄色い石は、時に毒を発する事もあると言います」
「敵はもしかするとその石の毒を自在に操る知識がある、という事ですな」
「厄介ですね。あと、蓋延殿は強がっていますが、軽いながらも同様の症状があったようです。ただ布で抑えただけでは、あの毒煙は防げないということです」
馮異はその足でそのまま来歙へ報告に上がった。
「敵の術への対策法はないのか。困ったことになったな」
「……閣下、南方の攻略について進捗はわかりますか?」
「おお、岑彭は南方の諸県と交誼を結んで、水軍を強化しているそうです。漕ぎ手だけでなく造船の技術者も手に入れたとか。田戎の首が挙がるのも時間の問題かもしれませんな」
「と、言う事は南方の品々も手に入るという事ですね」
「おお、いま正に洛陽に贈られた南方の品々がこちらにも来たところよ。何に使うのかよくわからぬ物もあるのだが……博識の馮異殿はこれが何かわかりますかな」
来歙は手箱の中から、小さな黄色の塊を取り出した。それは来歙が握ると少し遅れて元の形に戻った。
「そ、それです!私が欲しているのは!それが大量にいるのです!」
来歙は普段は穏やかな馮異が叫んだ事に驚き、その塊、海綿を取り落とした。




