第百二章 賈覧
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北方の劉文伯は代郡に侵攻するなど、勢力を盛り返した。これに対し、漢の大司馬呉漢は王常、王覇、朱祜、侯進の四将軍を率いて五万の軍勢で北伐に乗り出した。
「大司馬、敵は并州まで出張って迎え撃つつもりらしい。どうされるか」
朱祜が問うと、呉漢は硬質な声で返す。
「敵が防御に徹しても、我が烏桓突騎の鋒を持って切り崩すのみである」
呉漢らは烏桓突騎を前衛に、歩兵と弓兵を後衛として進軍を開始した。
北方の空は切れ目なくどこまでも広がり、大地は茫漠として寒々しい。
吹き荒ぶ風の中に現れたのは防御の陣地ではなく、胡騎の一群だった。湾刀と弓、胸当てと胡服だけの軽装だ。呉漢は訝しげに言う。
「まさか、騎兵だけで事を決するつもりか」
指揮官と思しき男が剣を天にかざすと、胡騎は砂塵を巻きあげて猛烈な勢いで突進してきた。走りながら高速で矢を放ってくる。
「我らの方が重装備だ!臆するな!」
しかし、匈奴の脅威的な弓術は烏桓突騎の首や顔などを正確に射抜き、次々と倒していく。
高午は自身の首を掠めた矢を掴んだ。
「鉄の矢ダ!匈奴が鉄の武器を使うダト!」
胡騎達は通常の匈奴が用いる青銅の矢ではなく、鋼鉄の矢を放ったのだ。王覇がぼやくように返す。
「こっちは烏桓に鉄の鎧着せてるわけだし。同じようなことは考えつくわなぁ、敵さんも」
鉄になったのは鏃だけではない。胸当ても、そして湾刀も鉄製だ。
動揺する烏桓突騎の列に飛び込んだ胡騎は、巧みに戟の鋒をかわし、鎧の隙間を湾刀で斬りつけていく。夥しい数の突騎が地に沈んだ。
賈覧はこの光景を眺めながら呟いた。
「騎兵をガチガチに鎧うとは面白い発想だ。しかし、本来の持ち味である機動性。ちょっと損なわれてるんじゃないか」
無敵のはずの烏桓突騎を突破してきた胡騎に、後衛の兵士達は恐怖した。
後衛の三将はなんとか踏みとどまろうとしたが、兵士達は隊列を乱して逃亡を図る。背を向けた兵士から餌食になっていった。
胡騎の正確な数はわからないが明らかに官軍よりも寡兵である。にも関わらず戦いは一方的なものとなった。
「これが、賈覧か」
敗軍をなんとかまとめて逃走した呉漢は、くぐもった声で呟いた。
撤退した呉漢のもとに帰還命令が届いた。
2
呉漢は洛陽に戻ると自宅にも寄らず、劉秀の前で敗戦を謝した。劉秀の態度は鷹揚なものだった。
「卿ほどの者を完膚なきまでに破るとは。劉文伯やその宿将は侮りがたいということだ。方策を変えてみよう」
呉漢には、叱責がないことが返って辛く思われた。呉漢が処分を乞うても、劉秀は取り合わなかった。
「責任を感じているならば、次は勝てばよい。それが亡くなった将士への一番の手向けとなろう。今日は早く帰って、細君のつくった温かい食事でも食べるといい。お疲れ様」
呉漢は家に帰って劉秀の言った通りにした。しかし、妻が留守中に土地を買って事業を始めようとしていたと知り、大喧嘩になった。険悪な雰囲気の中で食べる飯は、まるで砂のようだった。
「遠征先の兵士が物資不足で苦しんでいるというのに蓄財など!大体、お前も何故止めない!」
呉漢の怒りは母を止めなかった息子の呉成にも向けられた。しかし、息子は憮然とした態度で呉漢の叱責を聞き流した。
翌日、最悪の気分で家を出た呉漢は、宮殿に向かう途中で驃騎大将軍の杜茂と出くわした。
「いつにも増して眉間の皺が深まっているご様子。どうなされましたか」
呉漢は昨日の出来事を手短に話した。
「いいじゃありませんか。うちの妻など金を減らすばっかりですよ。財産を増やそうとしてくれるなんて、うちのと交換したいくらいだ。どうです?」
「断わる」
「ははは、冗談ですよ。交換と言えば、そうそう。私が閣下に替わって北方へ遠征を申し付けられました。佐将に郭涼がつきます」
訝しげな顔をする呉漢に、杜茂は笑う。
「もちろん、閣下と四将で駄目だったものを、私と郭涼だけでは無理に決まってます。陛下は、雁門郡だけを奪い返せとお命じになられた。雁門郡は手薄で、守将も賈覧ではありません。手堅く落として見せますよ」
杜茂を見送った呉漢だったが、どこか不安が拭えなかった。
妻の買った土地はさっさと売り払い、代金はみな親戚にあげてしまった。親戚中から感謝されたが、家の中は針のむしろのようだ。
程なくして、杜茂の敗報が届いた。雁門郡に攻め入った杜茂の軍は、驚異的な速度で救援に現れた賈覧に粉砕された。遠征軍は散り散りになり、杜茂と郭涼は身ひとつで逃げたという。
その報に接した時、呉漢は兵営で武器の手入れをしていた。ここが一番落ち着くのだ。
傍らに座って弓の弦を張り直していた高午が呟く。
「やはり、主が仕留めねばならなイ」
呉漢は答えずに、戟に塗った脂をこそげ落とした。




