第百章 隗囂
1
祭遵は病床にあって、ぼんやりと天井を眺めていた。身体の感覚が曖昧模糊としていて、浮遊感がある。
「まさか、布団のおかげでこんなフワフワしているわけではないよな」
目を閉じると先月に観た武楽がありありと思い出された。頴川に帰る途中、劉秀は祭遵のもとに立ち寄り、自分の車に乗せて武楽を観に連れて行ってくれたのだ。病が伝染るかもしれないからと固辞したのだが、聞かなかった。演目は項羽と虞美人の別れを主題に描いたものだった。
――力は山を抜き、気は世を覆う
時に利あらず、騅ゆかず
騅ゆかざるを如何とすべき
虞や虞や汝を如何せんーー
ーー陛下は高祖のご子孫であられるのに、項羽のために涙を流されるのですねーー
ーーそれが誰と誰の別れであっても、別れを見るのはつらいものだ。別れとは辛いものだーー
ーー永遠ともなれば、なおさら、かーー
ーーここにも人の世に注ぐ涙があり、人間の苦しみは人の心を打つーー
ーー何の詩ですか、それはーー
ーー忘れてしまった。次に会うまでに思い出しておこうーー
祭遵の頬の傷跡を一筋の涙が伝った。茶色い傷跡は涙の道筋だけ、紅く染まった。
棺で帰還した祭遵を、劉秀は名臣霍光に倣った葬礼で葬った。劉秀はその死を折にふれて悼み、嘆いた。ついには銚期から“他の者の士気に関わるので控えてほしい”と言われる程であった。
失意の劉秀のもとに更なる訃報がもたらされたのは、同じ月の末のことだった。それは、意外な人物の訃報であった。
2
「隗王よ、水だけでも飲めますか」
床の上で痩せ衰えた隗囂がもがき苦しんでいる。酷い腹痛と下痢、そして高熱。ここ三日間、隗囂は何も口にしていない。王元は水の入った杯を持って、蓬髪垢面で近侍していた。
「水、そうだ。楊廣と同じ症状だ」
隗囂の次子、隗純が呟いた。母親似の細い顔が真っ青になっている。呉漢の水攻めの後、王元が助けに来るまでの間に、老臣の楊廣は奇病で亡くなっていた。楊廣だけでなく、水浸しになった城中では同様の病に倒れる者が多くあった。
「悪い水を飲むとかかる病だ。書物で読んだことがある」
「王子は部屋から出てください。伝染ったら隗家が絶えてしまうかもしれない」
「しかし孝というものはだな…王元」
「はやく!」
隗純は王元の気迫に負けて出て行った。
「そこに……そこにいるのは誰か」
「王元にございます」
「違う……恂……恂がなぜそこにいるのだ」
王元の背に悪寒が走った。
隗囂の目には隗恂の姿がはっきりと映っていた。
ーーお久しぶりでございます、父上ーー
「ここは生者の世界だ……死者のいるべきところではない……泉下に帰れ」
ーーそれは違いますよ、父上――
「なんだと」
ーーあなたが、この世界にいるべきではないんです。死者はともに死者の国へ参りましょう、おっとーー
隗恂の首が落ち、転がってきて、ぴたりと隗囂の顔前に止まった。
「うわぁあぁ嫌だ嫌だ嫌だ認めん認めん認めん私は死なない死なない絶対に死なんぞおぉぉうわぁあぁぁ」
隗囂は突然立ち上がると、王元を押しのけて跳ぶように走りだした。悪いはずの脚をまったく引きずっていない。
「私は死なない、まだ生きている。ほら、こんなに食える、なぁ、王元、王元どこだ王元」
王元が隗囂を発見したのは、市場の一画であった。
隗囂は大豆を口一杯に頬張ったまま、豆袋に埋もれて死んでいた。
建武九年一月の事であった。
王元らは隗囂の遺児隗純を立てて抵抗を続けることとなる。しかし、隗囂という強烈な個性によって保持されていたその勢力は、その死後に同じ輝きを放つことは決してないのである。




