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第034話 イーサ先生の個人授業

 一ヶ月後、俺はクラ語の講義に向かった。


 クラ語の単位はもうとっくに習得しているのだが、いかんせん、覚えたことでも使わないと忘れてしまう。

 そのため、さすがに毎週行くことはしないが、月に一度くらいは講義に参加することにしていた。


 その日、講義室に入ってみると、イーサ先生がまだ来ていない教室には、ハロルがいた。


「よっ! 久しぶりだな」

 陽気(ようき)に挨拶をしてくる。


「……久しぶりだな、じゃないですよ。心配しました」


 こちとら言い出しっぺなもんだから、大分気に病んだというのに。

 ここ一ヶ月は、さすがに半年も過ぎて帰ってこないってことは、死んでんだろーなー。と思っていた。


 二度ほど夢に出てきて、薄ら寒い思いをし、成仏してくれ、と拝んだものだが、生きていたのか。


「そうか? 悪かったな」

「まあ、生きていて何よりです。半年も帰ってこないもんだから、お亡くなりになったものかと思っていましたよ」


 今日は用事があってこないが、ミャロあたりは生存を完全に絶望視していた。


「行く先々で言われるぜ。耳にタコができるよ」


 ハロルは小指で耳をほじくる仕草をした。

 そらそうだろ。


「後で、みやげ話でも聴かせてくださいよ」

「いいぜ。先にイーサ先生に挨拶してからな」

「そうですね。それがいいと思います」


 イーサ先生は取引相手先に関して、ハロルに助言を(おこな)っていたらしい。

 助言が的外れだったら、場合によってはハロルはここに居なかったのかもしれない。


 と、イーサ先生が教室に入ってきた。

 イーサ先生は軽く教室を見回し、ハロルを見つけると一瞬驚いたようだが、すぐに喜色満面の笑顔になった。

 かわいいな。


「それでは、講義を始めます」



 ***



 講義が終わったあと、俺たちは学院内にあるイーサ先生の私室に向かった。

 私室というか、正確には講義準備室のような形だが、物置ではなく研究室のようになっている。

 クラ語の講義は週に一度しかないが、イーサ先生は毎日ここに通勤しているらしく、課外で聞きたいことがあったときは、ここに来れば講義がない日でも大抵暇そうにしているので、クラ語を教えてくれる。


 イーサ先生と一緒に部屋に入り、各々椅子に座って一息つく。


「よく帰りましたね。喜ばしいことです」


 ここ数年でシャン語も達者になったイーサ先生が言った。

 もうほとんど違和感がない。


「おかげ様で、なんとか帰ってこれました」

 座ったまま、ハロルは大げさに体ごと、がばっと頭を下げる。


「はい、良かったです。毎日祈っていた甲斐がありました」

「えっ、毎日祈ってくれてたんですかい?」

 

 毎日とは結構なことである。

 隣で聞いていた俺も、スゲーと思った。

 御百度参りかよ。

 助言をしたとはいえ、どんだけ気にかけてたんだ。


「あ、いえ、なにもなくても毎日祈りはするので」


 ああ、そういうこと。

 毎日の祈りの間に、脳裏に掠めるような形で無事を祈っていましたよ、みたいなニュアンスなのだろう。


 考えてみれば、先生は元修道女だったんだ。

 今でも信仰は捨てていないらしい。

 毎日神に祈りを捧げているとは思わなかったけど。


 イーサ先生は修道女というより研究者然とした雰囲気があるから、ともすると、宗教者ということを忘れてしまいそうになる。


「ああ、なるほど。そういう」

 ハロルはガッカリしたような、安心したような顔をしていた。


「それで、旅はどうでしたか?」

「危ないことはたくさんありやしたが、なんとかなりそうで」


 どうにか商談は纏まったのだろうか。


「そうですか。実は私も行ったことのない国だったので、無責任であったのではないかと、不安に思っていた所だったのです」


「イーサ先生も知らない国だったんですか?」

 と、俺は聞いた。

「ええ、アルビオ共和国という国なのです。粗暴な人が多いという印象だったので、迷ったのですが」

「なんでそんなところをわざわざ」


 粗暴ものが多いということは、治安が悪いということだから、司法の隙も多かろうという読みだったんだろうか。


「イイスス教にも教派があるのです。アルビオ共和国という国は、カルルギ派という教派を信仰していて、主流のカソリカ派からは異端視されています。カルルギ派にはシャン人を差別するという風習はありませんので」

「えっ」


 イイスス教というのは、クラ人の社会にある大宗教である。

 テロル語圏で一般に信仰されている宗教で、教義によりシャン人を悪魔と呼んで蔑視し、シャンティラ大皇国を滅ぼす直接的な原因になった。


 一神教だったはず。

 イイスス教にもシャン人を悪魔呼ばわりしない教派なんてものがあったのか。


「そんなのが成り立つのですか? 別の聖典を使っているとか?」


 多神教ならともかく、一神教でそんなことが成り立つのだろうか。


「いいえ。そもそも、イイスス様の作った聖典には、シャン人を悪く言う文句はないのですよ」


 えっ。


「イイスス様が生きていらした時代では、そもそもシャン人とクラ人は別の人種とは考えられていなかったのです。聖典には、シャン人は『北方の耳に毛が生えた人』という名前で登場しますが、さして重要な役割を演じるわけではありません。寒い土地に住んでいる人だから、耳に毛が生えているのだろう。と思われていたのでしょうね」


 んな馬鹿な。


 クラ人がシャン人を討伐するために、毎度結成している連合軍を、連中は十字軍と自称している。

 十年ほど前、十字軍が隣国キルヒナ王国に送ってきた宣戦布告状には、


「我々は、神聖なる大地を穢し続ける悪魔どもに、非情なる鉄槌を下すべく結成された、神の子の軍団である。悪魔どもよ、もし己の行いを恥じ、穢れた地の浄化を望み、己の(こうべ)を差し出すならば、慈悲深き神はその寵愛の一端を分け与えて下さるであろう。悔い改めよ」


 というような文句が書かれている。


 明らかに、連中はこちらを討伐すべき人外としてみなしていることが分かる。

 本気でそう信じているのかはともかく、そういう建前を作ることで、掠奪や奴隷狩りを正当化しているのは確かだろう。


 彼らがイーサ先生の言うような解釈でいるのであれば、これは認識が矛盾していることになる。

 聖書とまるで記述が食い違うのでは、建前も作りようがないだろう。


「でも、イーサ先生。それは主流のカソリカ派の認識とは食い違うのでは?」


「はい。悲しいことに、その通りなのです」

 やっぱりそういうことであるらしい。


「イイスス教の原典というのは、今から二千年も前に書かれたものですから、トット語という、とても古い言語で書かれているのです。今、カソリカ派で使われている聖典は、それをテロル語に翻訳したものになります。これを欽定訳聖典(きんていやくせいてん)というのですが、これの翻訳には意図的な誤訳がありまして、現在の欽定訳聖典には、やはり『耳に毛が生えた北の悪魔』と書かれているのですね。これは、許されざる神への侮辱なのです」


 神への侮辱なのです。と言った時の、イーサ先生の顔には、したたかな怒りが浮かんでいた。

 侵掠を正当化するために、翻訳を利用して教義を歪めているということか。


「トット語は非常に複雑な言語でして、例えば『人』というものを表す言葉だけでも、ニャー、サチャート、クラガ、ヘレナス、ハフシュレカ、フェルナス、エルヘトニカ、など個別のものが十二種類あります」


 …………。

 どこでもアホな言語を考えるやつはいるものだな。


 真の古文エキスパートにして狂人として知られている当学院の古代シャン語講師に言わせると、書き言葉言語は複雑なほど表現の幅が広がるので、古代シャン語と比べれば今のシャン語は猿の言語に近しいということらしいが。


「原典のその箇所で使われている単語は、『ハフシュレカ』なのですが、これは『異邦人』といった意味合いの語句なのです。つまり、より正確に訳すと『耳に毛が生えた北方にある遠い外国の人』というような意味の一文なのですね。実際に、現行の欽定訳聖典の前の翻訳聖典では、ここはそのように訳されています。今の欽定訳聖典は、トット語の話者が聖職者以外にはいないのをいいことに、恣意的に語句の意味を歪めて伝えているのです」


 イーサ先生としては、それについては大いに不満があるんだろうな。

 というか、口ぶりから察すると、その調子で総本山でも同じ主張をして、それで異端者になったのでは。と思えてくる。


「それで、アルビオ共和国では、また別の解釈があるのですか?」

「はい。アルビオ共和国で教えられているカルルギ派というのは、シャンティラ大皇国がまだあった時代に分派した教派なのです。つまり、教義が歪められる前に分派したので、影響を受けていないのです」


 大皇国がまだあった時代とは。

 そりゃずいぶんと昔の話だ。

 九百年も前の話である。


「カルルギ派というのは、そもそもはクスルクセス神衛帝国が崩壊した時にできた、カルルギニョン帝国という国で信仰されていたのですが、この国はカソリカ派との戦争で破れ、滅びました。ですが、故地の一部では未だに信仰が生き残っている。というわけです。アルビオ共和国は島国で、今もカソリカ派の諸国とは戦争状態にあります」


 ほほう。

 カルルギニョン帝国というおかしな名前の国は滅ぼされたけど、残党が辺境に篭ってまだ戦っているという感じなのか?


「アルビオ共和国のある島というのは、どのあたりにあるんですか?」

「フリューシャ王国の大海側の海岸から、少し沖に出たところです」


 言葉で聞いても解らない。


「えーっと、ちょっとインクとペンを貸してもらってもいいですか?」

「はい、どうぞ?」


 俺はかばんから紙を取り出して、机の上に置いた。


「あら、それは植物紙ですね。こちらでは初めてみました」

 あら?

「僕が思いついたんですが、やっぱりクラ人の国にもいるんですね。同じようなことを考える人は」


 俺はしらを切った。

 それにしてもクラ人の国には、既に植物紙があるのか。

 文化的に先に行かれているっぽい。


「なんだ、見せてみろ」

 難しい話につまらなそうにしていたハロルが食いついてきた。

「はい、どうぞ。いくらでも見ててください」

 俺はかばんから紙をもう一枚取り出して、ハロルにやった。


 最近はなかなか書けるようになってきた紙の上に、簡単な地図を書く。

「あら、とても良くできた地図ですね」

 褒めてもらった。


「これに載ってますか?」

「もちろんですよ。ここです」

 イーサ先生が指で示したのは、アイルランドだった。


「隣の島は?」


 俺はグレートブリテン島を指した。

 俺の記憶では、イギリスが占めていた島だ。


「こちらは、上半分はアルビオ共和国の領土ですが、下半分はユーフォス連邦という国が支配しています。この二つの島をアルビオ二島と呼ぶのですが、アルビオ共和国は、二島全土を支配下に収めるために、ずっと戦争をしています。海賊で有名です」


 この世界ではイギリスみたいな国は興らず、グレートブリテン島は南北に分断され、戦争を続けているらしい。

 この国が海側から攻められないのは、こいつらが頑張ってるおかげなのかな。


「それで、カソリカ派というのは、どういう教義なのでしょうか」


「カソリカ派は、教派を名乗ってはいますが、教派とはいえません。教皇の意見がカソリカ派なのであって、現在のカソリカ派は初期カソリカ派とは別物です。日和見的に教義の解釈が変化していくので、派閥ではあるかもしれませんが、教派とは言えません。シャン人が悪魔という解釈も、初期カソリカ派の教義にはありません」


 やはり、時代時代で適時教義を歪めている教派であるらしい。

 利権や私利私欲の都合で泥だらけになってしまっている感じなのかな。


「では、カルルギ派というのは?」

「元は武僧が興した教派ですから、朴訥な教義ですね。当時のカソリカ派への反動から生まれたものですから、秘儀への解釈なども、カソリカ派からしてみると異端に見えます」


「聞いていいものか分かりませんが……イーサ先生は何派なのですか?」


 まあ、話の流れ的にカソリカ派なんだろうけど。


「私はわたし派です」

 ニッコリと微笑んで答えてくれた。


「???」


 ワタシ派? 新しい教派がでてきたな。


「わたし派というのは、わたしが考えた教派です。初期カソリカ派の教えを踏襲していますが、研究により更に進化しています」


 聞き間違いかと思ったが、『私派』だったらしい。

 急に『最強のオレ流』みたいな話になってきた。


「へ、へぇ。わたし派の信徒はひとりきりなのですか?」

「はい。布教をしようと思ったら死にかけたので、たぶん信徒はわたしきりで終わるでしょう」


 それが原因で、こんな辺境くんだりまで逃げることになったのか。

 人生賭けてんな。


「……そうですか。残念ですね」


「残念とは思いません。信仰とは本来、一人きりの内面に生じるものであって、それで十分なのです。大勢の他人と考えを共有しなくては居ても立ってもいられないという状態は、人間的弱さからくる本来無用の強迫観念にほかなりません。ここに来てそれが解りました」


 なにやらイーサ先生も成長しているらしい。

 ワタシ派は日々改良されているということか。

 未来に生きてんな。


「……小難しい話は解りませんが」

 と、ここにきてハロルが口を挟んできた。

「良かったら、そのワタシ派、オレにも教えてくれやせんか。イイスス教には興味がありやして」


 おっとぉ。

 マジかよ。


「もちろん、お望みであれば、構いませんよ」

「そうですかい! そりゃあよかった」


 なんだこいつ。

 短い付き合いだが、宗教に関心がある男とは思わなかったが。


 いや、考えてみれば、こいつは実際にアルビオ共和国の土を踏んだのだ。

 現地の宗教について考えを深めておく必要を痛感する出来事でもあったのかもしれない。

 そう考えると、イイスス教を教えてくれという申し出は、ちっとも不思議ではない。


「課外で学生を教えなければいけない時は、そちらを優先しなければなりませんが、それ以外の時間でしたら」

「もちろんです」


 ハロルは嬉しそうに笑っていた。  

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