第321話 逃避行
アーディルはその日、裁判を待つ容疑者の留置所として使われている建物に向かった。むろんのこと、シェールに面会するためだ。
シェール・マルマセットとの面会を希望する、と述べて滞在許可証を提出し、申請用紙に友人、と関係を記入すると、拍子抜けするほどあっさりと面会が実現した。
係員から「こちらにどうぞ」と案内された部屋には机と椅子と、そして大きな窓があった。
「それでは、連れてまいりますので、しばらくお待ちください」
係員が出ていくと、アーディルは窓を確かめた。ガラスの入っていない窓は、今は開け放たれ外からの光が入っている。一階の部屋なので、外には樹木の幹が見えた。
しばらく外の様子を窺っていると、部屋のドアが開かれた。
「面会時間は一時間だ。部屋から出る際は、ドアをノックするように」
「わーってるわよ」
シェールを連れてきた看守らしい男は、気分を害したように顔をしかめると、部屋を出ていった。
「シェール。生きていてよかった」
アーディルがアーン語でそう言うと、シェールは無言で歩いてきて椅子に座った。なにを言おうか、言葉を選んでいるようだ。
「……ま、そういうわけだから。さ」
「どういうわけ?」
「これでお別れね、ってこと。あとは流れ作業で裁判をして、判決が下ったら執行されて終わりでしょ」
「一緒に逃げよう」
シェールは、アーン語の意味を聞き取り損ねたように、唖然とした表情で眉をひそめた。
「正気? ユーリ・ホウに恩赦を頼みに行くならまだしも……逃げる?」
「ああ。そこの窓から、二人で脱走して逃げよう」
「……あー、そういうこと」
奇妙に納得したように、シェールはつぶやいた。
「逃げるったって、どこに逃げるのよ。逃げてもすぐに手配されるんだから、この国じゃ暮らせないわ。あんたの国に逃げるの?」
「いや、国には帰れない」
別の犯罪ならまだしも、シェールには大逆罪が適用されている。皇太子が内乱の首謀者を連れ帰り、庇い、匿っているとなったら、当然引き渡せという話になるだろう。そうなれば、クルルアーン龍帝国との外交問題に繋がるのは確実だ。外交的に大きく譲歩することになるか、最悪の場合は戦争に繋がりかねない。
「アルビオ共和国に密航できるルートがあるんだ。それでとりあえず小アルビオ島に渡って、そこで暮らすのが無理そうなら、南の大陸まで逃げよう」
「……なに言ってんのよ。ルワッカ語なんて喋れないし、あんたもそうでしょ」
「また勉強すればいい」
「そもそも、私が死のうが生きようが、あんたに関係ないじゃない。なんでそんなこと言い出すのよ」
「きみが、私にとっては恩人で、友人で、そして惚れた女だからだ。我が身大事に見捨てたら、自分を恥じて一生後悔することになる。それは、皇子の立場なんかよりずっと大事なことだよ」
そう言うと、頑なだったシェールの表情が、少し揺らいだ気がした。
「……馬鹿じゃないの。私なんて、下手うってこんな罪を背負っちゃうような女だし、口は悪いし、ろくなもんじゃないわよ。女なんて、この世にはいっぱいいるでしょ」
「きみのような人はいない。私は他の誰かじゃない、きみに惚れているんだ」
はっきりとそう告げると、シェールはわずかに喜色を浮かべ、次の瞬間にはそれをかき消すように暗い表情を作った。
「……やっぱり駄目。上手くいくわけないわ。私のことなんて、忘れなさい」
シェールは椅子から立ち上がると、ドアに向かって歩く。
ドアをノックして、面会は終わったと告げられれば、アーディルにはどうすることもできない。シェールが嫌だというなら、嫌がる彼女を無理やり連れて行くのは不可能だ。
だが、本当にそれでいいのか。
シェールがノックをしようとしたとき、アーディルの心を、湧き上がるような思慕の念が満たした。
「死なないでくれ。私のために」
そう言うと、シェールはドアを叩こうと上げた手を止めて、横顔でこちらを見た。
「……本気なのね。あんたって、大馬鹿者だわ」
「馬鹿は嫌いか?」
「………」
シェールはしばらく俯いたまま、強くなにかを考えていた。一体、なにを迷っているのだろう。アーディルには理解ができなかった。
「たしかに、牢に戻されて処刑をただ待つよりは、いいかもしれないわね。あんたが本当にそれを望むなら……付き合ってあげるわ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓から外に出、入り口の門番が交代したタイミングを縫って敷地外へと出ると、アーディルはあらかじめ調達して隠しておいたシェールの着替えを拾い、彼女に着替えさせた。
予定していた通り、夕方に次第に暗くなる市街地を、南に抜けてゆく。やはり面会時間ギリギリを狙って行ったのが功を奏した。夜陰に乗じることができるのとできないのとでは、大きな違いがある。
警らをする兵を避けながら小道を選び、ようやくシビャクの外縁部へとたどり着いた。
このあたりは貧困街になっていて、かなり治安が悪い。
「シェール、こっちだ」
アーディルはシェールの手を引いて、近づけながら歩いた。周りと比べると、少し衣服が上等すぎるかもしれない。
「待てよ」
路端に立っていた、フードを目深に被った男が道を塞ぎ、声をかけてきた。案の定だ。
「悪いが、急いでいる」
「有り金を置いていくか、女を置いていくか、どっちかにしな」
「………」
アーディルはどうするか一瞬考えた。有り金を置いていくというのは論外だが、いくらか金を渡して解決するという手もある。
しかし、こんなことでいちいち金を失っていたら、早々に路銀が尽きてしまう。アーディルには、自分の裁量で使っていいと渡されている金は、そう多くなかった。
男はアーディルと同じくらいの背丈。その隣には、女性と思しき一回り小さな人が寄り添っている。こちらも同じようにフードを被っていたが、おそらくは脅威ではないだろう。
「わかった」
アーディルは懐に手を入れながら近づくと、間合いを計り、ふいに体重を乗せた前蹴りを放った。
士官学校で習った様々な武技の中でも自信がある技だ。特にこういった狭い通路のような場所では有用だった。敵に大怪我を負わせるリスクが少ないという利点もある。
蹴りがみぞおちに吸い込まれ、男が崩折れる。そしてシェールの手を取り、女を突き飛ばして走り去る――ところまでイメージしたところで、体重の乗った蹴り足が空を切った。
男は半歩後ろに下がることで前蹴りを外すと、伸び切った足を掌底で叩いたのだ。
伸び切った体の末端に、あらぬ方向からの力が加わり、態勢が崩れて前のめりになる。そのとき、既に男は背を丸め、軽く折った足に力をためていた。
駄目だ。
肩口からのぶちかましが胸板に刺さり、アーディルは成すすべもなく吹っとんだ。
「キャッ!」
斜め後ろにいたシェールに体の端でぶつかり、小さな悲鳴が上がる。
「くっ……」
アーディルはすぐに立ち上がった。単なる体当たりなので体に機能的なダメージはない。
「……まあ、荒事は及第点か」
男は不満げに言いながら、フードを脱いだ。そこにあったのは、つい昨日見た顔だ。
信じられない。
「……なぜ、貴方がここに」
「南に来ることは分かっていたからな。あとは衛兵を考えて配置すれば、きみをこの道に誘導するのは、それほど難しいことではない」
誘導されていたのか。すべてはこの男、ユーリ・ホウの手のひらの上だったということだ。
「考えられませんね。一国の皇子たるものが、愛の逃避行ですか……向こう見ずにも程がありますよ」
隣りにいた小柄な女もフードを取った。ミャロ・ギュダンヴィエルの姿が、そこにある。
「まあ、やっぱり、そういうことよね」
シェールが落胆したように口を開く。
「シェール、気づいていたのか」
「確信があったわけじゃないけどね。何日か前、教え子が面会に来た時は、ちゃんと三階の鉄格子越しの部屋を使ってたから。一階の応接室に通された時は、皇太子だから配慮したのかと思ったけど……いくらなんでも、誰にも咎められずあっさり脱出できたのはおかしいもの。こんなことだろうと思ったわ」
窓から脱出できたのも、あっさりと敷地外に抜けられたのも、ユーリ・ホウが手を回したということか。
「まかり間違って、君が衛兵を殺しでもしたら庇いきれなくなるからな。しかし、一体全体、留置所で衛兵と戦う羽目になったらどうするつもりだったんだ。きみは、シャン人の正規兵を殺して逃げるつもりだったのか」
「……いいえ、戦って気絶させようと」
「あそこの管理は近衛軍の管轄だぞ。実戦経験のある、武装した近衛兵を素手で制圧するつもりだったのか? そんなこと、俺でも難しい」
冷静に言われると、顔が赤くなる思いがした。無知、無謀をたしなめられているようだ。いや、実際たしなめられているのだが。
「それにしても、やっぱりあんたの差し金だったのね」
シェールは、怨嗟の籠もった目でミャロ・ギュダンヴィエルを睨んでいる。
「昔から、奪わんとするなら、まずは与えよって言うものね。一旦は脱獄させて、希望をもたせてからドン底に突き落とそうってわけ。本当、いい性格してるわ」
「いいえ、今回のことはユーリ閣下の計画ですよ。私は、アーディルさんが貴女を救おうと立場まで捨てようとするなんて、信じていませんでしたから」
二人には深い確執があるようだ。シェールを見るミャロ・ギュダンヴィエルの視線は、昨日とはうってかわって、凍てついた氷のように冷淡だった。
「それと、アーディルさん。どこで知ったのか存じませんが、アルビオ共和国への密航船があるというのは、我々が流している偽情報です」
それも嘘だったのか。
「シャン人は、この国で犯罪者として手配されれば、逃亡先が限られます。定住者のいない北の果てで人目を忍んで暮らすか、あるいは他国に逃れるか。多くの犯罪者にとって、アルビオ共和国は魅力的な選択肢の一つです。ですから、密航船があるという情報を流し、寄ってきた犯罪者を一旦は船に乗せた上で船室に閉じ込め、出港後に洋上で臨検して、全員逮捕するんですよ。そして、出港を見届けた人々は安心して船の噂を流し、次の犯罪者が集まる――どちらにせよ、実際に海を渡れる可能性は万に一つもありません」
ユーリ・ホウはこちらに歩み寄り、手を差し出してきた。
「こちらが発行した滞在許可証を出せ」
没収するつもりだ。
これがなければ、アーディルはどこにも行けない。立場としては、教皇領の人間がふらりと敵国を旅行しているのと変わらなくなる。宿に泊まれないのは当然として、衛兵や門番に一度でも誰何されればそこで終わりだ。
だが、ここでユーリ・ホウを倒す? 王ともいえる権力をもった摂政を。そもそも戦闘技能に大きな差があるし、彼を傷つけることは一国に刃を向けることと同義だ。
アーディルは、わずかに悩んだ末に、愛用のカバンの定位置に入れている滞在許可証を差し出した。
ユーリ・ホウはそれを受け取り、中身を確認すると、
「……期限が近いな。三週間か。まあ、黒海は無理だろうが、急げばティレルメ地方の国境までは行けるだろう。戦闘は海側でやってるはずだから、できるだけ大陸側を通っていけよ」
なぜか、あっさりと返してきた。
「待ってください。私に、祖国に帰れと言っているのですか?」
「まあな。ただ、その女を連れて行くなら、送りはしない。自分のわがままを通したのなら、自分の足で帰るのが筋というものだ」
「それは構いませんが……外交関係は、どうなるのですか? シェールは……その、この国では犯罪者です」
「シェール・マルマセットは、獄中で自殺したことにしておきます」
ミャロ・ギュダンヴィエルが言った。
「あなたは今後、別の名を名乗りなさい」
わずかの慈悲もない冷徹な宰相の目が、シェールを見据えた。
「……なんですって? 私に、マルマセットの名を捨てろというの」
シェールは、強い不服が滲んだ声で言った。
「シェール・マルマセットの名をクルルアーン龍帝国で名乗るなら、龍帝国は我が国で内乱を起こした叛逆者を匿っていることになります。我々は引き渡しを要求せざるをえませんし、匿い続けるなら友好国としての扱いは望めません。それがなにを意味するか、理解できないほど幼稚ではないでしょう」
「嫌よ。生まれた時から死ぬときまで、私はマルマセット。それはあんたにだって変えられない」
シェールがそう言った瞬間、ミャロ・ギュダンヴィエルの表情が変わった。それは眉をわずかに寄せた程度の変化だったはずだが、アーディルには形相がまるで変わり、発する気配が一変したように感じられた。
「――なら、この場で自害なさい」
ミャロ・ギュダンヴィエルは、懐から短刀を鞘ごと抜くと、シェールに向かって放り投げた。仕立ての良い場違いな短刀が、薄汚れた石畳の上をカラカラと転がる。
男二人が口を出せない凍りついた空気の中、ミャロ・ギュダンヴィエルは口を開いた。
「マルマセットを名乗りたいなら、今ここで喉を突いて、魔女として死ね。一族の墓所に弔ってやる。だが、この男と共に生きたいのなら、魔女としての名は捨てていけ。家に殉じるか、男と生きるか、今ここで決めなさい」
瞬きもしないその顔は、政治の世界に生きる動物が、殺意を顕わに本性を曝け出したかのようだった。
アーディルは、眼の前にいる小さな宰相に気圧され、初めて畏怖に近い感情を抱いた。それは、宰相という一国の内政を牛耳る者のみが持つ威圧感だったのかもしれないし、魔女という動物種が同胞にのみ向ける殺意だったのかもしれない。
形をもった暴力ではない、権力という無形の力を振るう者の迫力に圧倒されるのは、アーディルにとって初めての経験だった。
「………っ」
シェールは、射竦められたように沈黙していた。
マルマセットの家名を守って自害し、一族の墓に弔われることは、シェールにとって生き続けるより魅力的な選択肢なのだろうか。
いつもの、努力家で気丈で、孤独をものともしない彼女からは、一族への執着はそれほど感じられない。だが今、シェールの表情は苦渋に満ち、家名を捨てることに強い抵抗を感じているようだった。
しばらくして、
「……分かったわ。他の名を名乗る」
シェールが絞り出すように言うと、
「それがいいでしょう」
と、あっさりと言い、ミャロ・ギュダンヴィエルは数歩あるいて短刀を拾った。土埃を払うと、懐に再び収める。
そして、短刀の代わりに革袋を置いた。
「シェール・マルマセットという、留置所で自殺した女が持っていた財産を整理した金です。あなたがたには本来関係のないお金ですが、落としてしまったので、勝手に拾ってください」
「宿を取るにしても賄賂を渡すにしても、金は必要だからな」
ユーリ・ホウはそう言うと、話は終わりとばかりに、フードを被った。
「きみは惚れた女の手を取って、我が国を自力で脱出し、祖国に凱旋することになる。上手くいくかは、きみの能力次第だが……まあ、成功すれば龍帝陛下との密約は果たしたことになるだろう」
本来なら、ユーリ・ホウにそんなことをする義理はない。密約のことを考えれば、そんな危ない橋を渡らせるのは、彼にとってリスクでしかないはずだ。
だが、それをやろうとしている。
初めて出会った頃から感じてきた、彼からしか受けたことのない突き放したような親切心を、アーディルは今感じていた。
「じゃあな。君にとって、この国での滞在が有意義であったことを祈るよ」
――有意義?
そんなもの、有意義であったに決まっている。
この国での経験は、それまで生きてきた後宮での微睡みのような人生を、かき消すような衝撃に満ちていた。
何度も受けた屈辱、それを覆す克己、世界の広さ、違う人種とそれぞれの思想……後宮にいたころと比べれば、自分の世界は何倍にも、何十倍にも広がった。
もしあの快適な、そして閉じた世界で、母親の庇護に包まれたまま大人になっていたら――想像するだけで、ぞっとする思いがする。
この国での体験は、自分を人間にしてくれた。その思い出も、体験も、心遣いも、受けた恩も、自分はきっと一生忘れないだろう。
「お世話に、なりました」
アーディルは、心の底から湧いてきた思いを一言で表すと、自然と溢れ出た涙を目に滲ませながら、深く頭を下げた。
「では、いつかまた」
「アーディルさん、お元気で」
軽い挨拶のようにそう言うと、この国の摂政と宰相は、路地に消えていった。
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