表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
328/336

第319話 口づけ

「印刷所に回す原稿はこれでいいですね。すみやかに印刷させて、シャンティニオン近辺にばら撒きましょう。責任者は……テロル語が話せて、鷲に乗れて……ちょっとした政治的判断もできる人がいいですね」

 それが難しいんだよな。今までの騎士院が脳筋すぎたせいで、そういったエリート気質の軍人が少なすぎる。

「ルウェン・フェルーは……」あーっと、あいつは今なにやってんだったか。「駄目だ。アンジェリカのところに預けちまってる」

「では、印刷が終わり次第、命令書を添えてキルヒナに飛ばしてしまいましょう。ジーノさんの手勢にはテロル語の話者が何人か残っていますから。適切な人材を選んでくれるはずです」

「ああ、そうだな。そうしよう」

 キルヒナ軍を使ってしまう格好になるが、軍本体を動かすわけではないので、そこは構わないだろう。

「では命令書をお願いします。ボクは残った仕事を片付けますから」


 俺は応接用の低い机に向かって筆を走らせた。普段はティーカップなどを置いて会談するための机なので、書き仕事には使いにくいことこの上ない。


「終わった」

「こちらも終わりました。これで、優先度の高い仕事は片付きましたね」


 ミャロは外に待機している部下を部屋に呼び込み、指示の手紙や軍の命令書を適切な部署に配る手配をした。

 指示を与えられた部下は、預けられた書類を抱えて足早に部屋を出ていく。


「よし、と。これで急ぎの仕事は終わりました。皆さん、昼食を取ってください」


 残ったミャロの部下たちは、ぺこりと一礼して部屋の外に出ていった。


「なんとかなりそうですね。それにしても、どれだけ仕事を溜めてたんですか」

「言ったろ。お前がいないと、どうにもやる気が出なかったんだよ」


 それにしても、印刷の手配くらいは先にしておくべきだったと思うが。戦勝の報を迅速に東側にバラまくなんていうのは、今考えればやらないほうがおかしい常套手段なのに、今の今まで思い付きもしなかった。


「お前がもし本当に死んでたら、さっき言った通り、この国も空中分解して終わりだったかもな」

「嫌なことを言わないでくださいよ……」


 ミャロは黒檀の机の向こうで嫌そうな顔をした。手の中で象牙のペンを回している。


「……そろそろ話してくれてもいいだろ。一体、どういうことなんだ。俺が見た死体は、誰だったんだ?」

「王城で仕事をしていた、ボクの従姉(いとこ)です。似たような栗毛をしていたので、リャオさんが……その、激昂して殴り殺したことにして、身代わりにしたようですね。彼女には、申し訳ないことをしました」


 殴った顔が腫れるのは生体の炎症反応なので、死んだ後の死体を殴っても腫れたりはしない。おそらく、彼女は実際にそうやって殴り殺されたのだろう。


「よく、そんなことでガートルートを欺けたな」

「あくまで結婚を拒む女を、激昂して殴り殺したというのは、そこまで不自然な流れではありません。なにより、リャオさんの演技が良かったのでしょう。手ひどく振ったあとでしたから」


 リャオがあの時言っていたことは、本当だったのだろうか?

 形式だけの結婚式であっても、文字通り死んでも嫌だと、そんなことを言われたあとなら……確かに、奴を欺けるほど真に迫った表情はしていたのかもしれない。

 リャオの中では、ミャロは真実、死んだようなものだったのだろう。


「なんにせよ、生きていてくれてよかった。身代わりになった女には悪いが……本当に、自分の半身が引き裂かれたような気分だったよ」


 俺がそう言うと、ミャロは椅子から立ち上がり、ソファに座る俺のところまでトコトコと歩いてきた。

 どうしたのかと思うと、ミャロは一瞬ためらいを見せた後、ソファに膝をかけて、足を広げて俺の膝に跨った。


「そんなに、私のことを大事に思ってくれていたんですか? 仕事が手につかなくなるほどに?」

 至近距離まで顔を近づけて、ミャロは密やかな小声で言った。

「当たり前だろ」

「……ずいぶん、ヒゲが伸びてますね」


 ミャロはおずおずと、触れるようにして俺の唇を奪った。


「ふぁーすときす、です。次は剃っておいてくださいね」

「……ああ、そうするよ」


 俺の記憶が確かなら、ミャロは昨日、キャロルのように積極的になれなかった自分も悪いとかなんとか言っていた気がする。これはその反省からの行動なのだろうか。


「なんだか勘違いさせていたみたいですけど、ボクは今の仕事も大好きです。ユーリくんに利用されただなんて思ってませんし、国が壊れたりしたらすごく悲しいです」

「……そうか」

「だから、この続きは……後始末が落ち着いてからにしましょう。いいですね?」

「ああ……でも、それだけでいいのか?」


 そう言うと、ミャロはきょとんとした顔になった。


「なんですか?」

「もっとわがままを言ってくれてもいいんだぞ。一ヶ月休みをとって旅行に行きましょう、とか、国宝の宝石をプレゼントしてください、とか」

「うーん」


 ミャロは困ったような顔をした。あまり気にいるような提案ではなかったらしい。


「……ユーリくんは、ボクを便利使いすることが怖くなったんですね。もっと面倒な女になってほしいんだ」

「そうかもしれない」

「でも、仕事をするなら、有能な部下が便利なのって、当たり前のことですよ? ボクは、わがままばっかり言って摂政を困らせる宰相なんて、おかしな存在にはなりたくありません」


 そりゃそうか。本末転倒だ。


「丸々一日予定を空けてくださるだけで、十分です。好きな男が自分だけを見てくれる一日なんて、それ以上の贅沢はありませんから」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 飛び立った鷲たちが、徹甲爆弾を投下して船を沈めてゆく。かつての戦場から、新たな戦場へと運ばれてきた大砲が火を吹き、城壁を崩す。

 何箇所か空けられた城壁の穴からは兵がなだれ込み、すでに市街戦が始まっている。教皇領軍が立てこもっていた港町は、今ようやく攻略されていた。

 無条件降伏を申し出たルベ領から急遽接収した徹甲投下爆弾を持ってくるのと、大砲を運搬してくるので、あまりに多くの時間を取られた。そのせいで、教皇領軍は大部分取り逃がすことになってしまった。

 袋の鼠となったあの都市の中に、ガートルート・エヴァンスはいるのだろうか。

 おそらくはいないだろう。あの男は、こういう状況で最後まで残り、最後の船に乗って去ることを誇らしく思うタイプの人間ではない。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「そんなことになっていたのですか……」


 イーサ先生は、軟禁されていた部屋で、外で起こっていたことを一通り聞き終えると、嘆息するように言った。


「ええまあ、こちらの不徳のいたすところで……先生にはとんだご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、そんなことは……閉じ込められていただけで、それほどの不自由もありませんでしたから」


 部屋には、運び込まれた本の小山がたくさんできていた。おそらくは、城の図書館から運ばせたのだろう。リャオの野郎も、古い歴史書や物語の類を読むことも拒むほど、狭量ではなかったということか。


「申し訳ありませんが、教皇領が刺客かなにかを置いていった可能性があります。王都の掃除が終わるまで、あと一週間ほど、この部屋にいてもらえればと思うのですが」

「ええ、それはもちろん。大丈夫です」


 それより、とイーサ先生は言葉を繋げた。


「ルベ家の方々が解放した、戦後に労役に就いていた方々は、船に乗って……いってみれば、脱走したという形になるのでしょうか?」

「そうなりますね。まあ、彼らはシビャクの北でやった会戦で捕虜になった連中ですから、さんざ働いて刑期も短くなっていましたが」

「なら、こういう形で向こうに戻ったというのは、よいことかもしれませんね」


 はて?


「どういうことですか?」

「私は、彼らのところに何度も出向いて、説法をしましたよね」


 そうだった。イーサ先生は、彼らが労役をする収容所まで通って、ワタシ派の説法をしていた。王国の版図が広がって忙しくなってからは稀になっていたが、シャンティニオンを奪う東方遠征を始める前までは、本当に足繁く通っていた記憶がある。

 その関係で、イーサ先生から捕虜の待遇改善の陳情書も何度か届き、確かに酷いと思った部分には手を回した覚えがある。


「刑期満了で釈放され、祖国に帰った場合、彼らは取り調べを受ける可能性が高かったので……間諜のような扱いを受けても不思議ではありませんし、祖国が教皇領だった場合は異端審問にかけられる恐れすらありました。それを考えると、解放されて軍に混じって戻れたというのは、彼らにとっては幸いだったのかもしれません」


 まあ、それはそうかもな。

 彼らが労役についていた間の宿舎には、解説つきのワタシ派の印刷聖典を置いていたし、中にはイーサ先生に感化されて、ワタシ派に転向した者もいたはずだ。

 釈放された元捕虜として帰るのと、まがりなりにも戦ったあと帰還兵として帰るのとでは、扱いに雲泥の差がでる。後者はまがりなりにも凱旋の扱いを受けるだろう。

 そして、彼らは祖国に戻って散り散りになる。布教という意味では、連中を逃がしてしまったのも悪い影響ばかりとはいえないのかもしれない。


「そうですね。ところで、王城が混乱に陥った折に、天測航法をはじめとする文書も持っていかれてしまいまして、向こう側に技術が流出してしまったようなんですよ」


 俺は努めてさりげなく、今日の本題について喋った。結局、ゴラ・ハニャムは見つからなかったので、向こう側に連れて行かれてしまった可能性が高い。

 天測航法や新大陸に関わる機密書類は、ルベ家の侵攻がはじまってから王城が陥落するまでのタイムラグの間に、ミャロが全て焼却処分している。もともと、有事の際は迅速に処分できるよう、一つの棚にまとめられてもいた。

 なので、これはハロル・ハレルに罪が及ばないための嘘である。なんであんな野郎のために、俺が恩師に嘘までつかなきゃならんのか不思議なところではあるが、そういうことになってしまっているのだから仕方がない。


「そうなのですか? 私の認識では、この王城は騒動の間、ルベ家の支配下にあったように思われます。教皇領の方々に、機密文書を勝手に持っていけるような自由は許されていなかったような……? そもそも、そんな自由があったなら、私は無事ではいられなかったはずですし」


 ううっ……「ああ、そうなんですか」とあっさり納得してくれてもよさそうなものだが、やっぱり咎めてくるか。

 秘跡をやったこと自体を忘れていてくれたら……と淡い期待を抱いていたのだが、これはしっかり覚えてるな。


「え、ええ。それは、はい。ですが、リャオ・ルベに渡ってしまったからには、取引で向こう側が知ってしまった可能性もあるわけで……」

「つまり、ユーリさんは自分の過失によって技術が流出したと主張なさりたいわけですね」


 イーサ先生は、じっとこちらを見ている。その鋭い視線は、なにもかもを見透かしているようだ。

 もちろん、俺の過失で流出したのであれば、ハロルの責任ではない。連帯責任義務も生じないはずだ。


「……まあ、そうですね。その通りです」

「困りましたね。私には、それが事実かどうか確かめるすべがありません」

「確かめる必要などないのでは……」


 こちらはイーサ先生の不利益がなくなるようにしているわけで、わざわざ不利益を被ろうとするのはよくわからない。


「そうはまいりません。私は聖なる秩序に身を預けているのですから、誓いの形を虚偽によって歪められることは望みません」

「虚偽ではありませんし、聖典でもサフィア書で嘘つく場面があったじゃないですか。虚偽による利益だったとしても、それを受け取るのは必ずしも神の意志に背いたとは言えないのでは?」


 サフィア書では、ヨハプルトキ破壊後の高弟漂流期の出来事が語られる。その中に、弾圧の強い古代ニグロスの都市で、高弟サフィアをかくまった信徒が、彼を守るために虚偽を述べるシーンがある。

 それによって、高弟サフィアはイイスス教徒狩りから逃れることができた。これは、虚偽によって得た利益を享受したと明確に言えるだろう。信徒もサフィアもこの件で神罰を受けていないので、イイススの教えにも合致していると見做していいはずだ。


「ユーリさんは、よく勉強していますね。ですが、その場面は虚偽によらなくては明らかに死が待っている状況でした。そこで敢えて死を選ぶのは、自死に近似した行為です。このケースとは事情が異なります」

「えっ、どう違うんですか」

「誓いの秘跡の犠牲責任者は、主に対して伺いを立てるのです。死を選ぶのとは違います。主の(おぼ)し召しに身を任せるだけです」


 ワタシ派では、誓いの秘跡の犠牲責任者は、誓いが破られた場合は一ヶ月絶食の上で瞑想をし続ける。

 要するに、生死の間際まで自らを追い詰めて、運命に身を任せるということだ。悪い言い方をすれば、運否天賦に身を任せて生死の賭博をするのと変わらない。


「ユーリさんは、私から聖なる義務を履行する機会を奪おうとしているのです。心遣いは嬉しいですが、それは必要のない配慮なのです。理解してはいただけませんか?」

「わかりました。イーサ先生の信仰は尊重します。でも、本当に嘘ではないんですよ。天測航法の資料を王城に置いていたのは事実ですし、それが紛失したのも事実です」


 こんな嘘八百を並べて、(ばち)が当たらなければいいが。


「もし技術が流出してしまったとしても、それはハロルの失態で流出したのか、あるいは王城から流出したのか、神の視座を持たぬ我々には、もはや事実は見通せないのです。極論を言ってしまえば、向こうが使い始めたからといって、独自に開発した可能性だってあるわけですから」


 さすがにこれはイーサ先生にも否定できかねる論理だろう。イーサ先生は知の巨人ではあるが、独自の諜報機関を持っているわけではない。この国の国家機密にアクセスする権限もない。検証能力がなければ確かめようがない。


「ふう……」少し考えたイーサ先生は、諦めたように息を吐いた。「ユーリさんも、口が達者になりましたね。降参です」

 えっ、降参?

 白旗を上げたって意味か。

「安心しました。先生が早まったことをしでかさないかと、戦々恐々としていたので」

「私も、ユーリさんが心配してくださっていることは理解していますよ。それが、善心からくる心遣いであることも」


 なんだか、違和感があった。

 ……イーサ先生にしては、物わかりがよすぎるんじゃないか。


 イーサ先生は、舌鋒鋭い論客であり、並ぶ者なき学者であり、信仰心では誰に劣る事のない神学者だ。性格は穏やかで、優しく、誰かを悪くいうこともない。

 そして、岩のように強情な人だ。基本的には従順だし、お願いをすれば聞いてくれる。だが、根っこのところで意に沿わぬことに関しては、絶対に曲がることはない。


 しかし、イーサ先生が白旗を上げた以上は、これ以上は追求のしようがない。

 ……一応、ハロルに口裏を合わせるよう手紙を出しておくか。

PIXIV FANBOXにて四話分の先行連載を行っております。

もしお金に余裕がある人は、ご支援いただけると幸いです。作者の活動資金になります!!

(一ヶ月読めて350円です)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
従姉妹可哀想過ぎるんだがまぁミャロも親戚関係とあんまり仲良い描写なかったというか悪かった?し態度自体はこんなもんなんかな
ミャロの従姉妹さん……。 二次創作転生ものだと、わりと転生先になりそうな位置ですね…。 本人は単行本のほうしか読んでいないので、自らが「替え玉」として消される運命に気づいておらず「高位貴族ぽい家柄で衣…
従姉妹かわいそすぎる。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ