第311話 二人の逢瀬*
ミャロとの対策会議が終わり、言葉が尽きた頃には、午後の四時になっていた。
「そろそろ、飯でも行こうか」
リャオはソファから腰を上げ、さり気なさを装って言った。
「ご飯……ですか」ミャロはしばし考えるそぶりをしたあと、黒檀の机の椅子から立った。「まあ、いいでしょう。奢られるくらいの仕事はしたはずですしね」
リャオは内心で一安心した。どうやら、嫌ではないようだ。
まったく、女関係でこんなに気を揉むとは。十八のころの自分に言ったら、信じられないという顔をするだろう。
「それで、どこに連れて行ってくれるんですか?」
「テル・モスという店だ」
「ああ、知っています。行ったことはありませんが」
それはそうだろう。女が一人でいくような店ではない。
「客の服装に厳しい店じゃない。案内する」
「なに言ってるんですか。着替えるに決まってるでしょう。ボクが着の身着のまま、そういう店に行くとでも思っているんですか?」
ミャロは咎めるような一睨みを送ったあと、仮眠室のほうに向かった。
なんだ。ドレスを着てくれるなら、もう少し雰囲気のある店があったのに。
飯に行こうと言って「ではドレスで着飾りますね。エスコートしてください」とはならないのがミャロだと思っていた。だから、そのままの格好でも不自然でない店を選んだのだ。
だが、少しして出てきたミャロは、スラックスを脱いでスカートに穿き替えただけの、飾り気のない格好だった。
あとは、シャツの上に高級そうな仕立てのジャケットを羽織っている。首飾りもなければ髪飾りもない。
好いた男と食事にしにいくというよりは、仕事相手と会食をしにいく、といった格好に見えた。
「さ、行きましょうか」
そっけない態度だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リャオは、偽名を使って予約を取ったレストランに入ると、案内された個室で席に着いた。透明度の高い窓ガラスの向こうには、夜景が見えている。
「なんでも注文してくれ」
「ええ。では……季節のおすすめコースの、本日のデザートってなんですか?」
ミャロが待っているウェイターに訊いた。
「桃のチーズケーキでございます」
「いいですね。では、そちらのコースでお願いします。お酒は白ワインをおまかせで」
「こちらも同じコースを。赤ワインをおまかせで」
「食前酒に泡の入ったお酒はいかがでしょう。林檎のさっぱりとした味わいを楽しめます」
ミャロの顔色をちらと伺うと、軽く頷いた。
「ああ、頼む」
「承りました」
軽く頭を下げ、ウェイターは個室から出ていった。事前に、金額に関しては気にしなくていいと伝えておいたので、余計な手間がなくていい。
ミャロとの共通の話題といえば、やはり観戦隊の頃の話だった。ミャロと初めて出会ったのも観戦隊だし、ユーリが別行動を取っている間は、参謀としてリャオの下で部隊を支えていた。
「そういえば、知ってるか。俺が喧嘩の仲裁をしたガゼリ、今は料理人になっているらしい」
「肉の焼き具合に文句を言って喧嘩になった?」
「ああ。コツラハで大衆料理屋をやってるってよ。そこそこ流行っていると聞いた」
「そうなんですか。なら、舌は確かだったんですね。まったく、あの時の騒動といったら」
「フッ」
思わず笑いが漏れた。
「ふふっ、まあ、みんなが初めてだらけでしたからね」
あのときは、他人の料理にケチをつけたのだから、もちろん「じゃあお前がやってみろ」という話になった。しかし、ガゼリが焼いた肉は外は黒焦げ、中は生焼けの酷いものだった。ケチをつけたくせに、料理をしたことがなかったのだ。
しかし、それは、隊員の誰もがそうだったのだから仕方がない。人が集まっている以上は誰かがやる必要があったが、ほとんど誰も家事をしたことなどなかった。
「ああ。まったく、懐かしい」
リャオは赤ワインを口に含んだ。独特な渋みが口に広がる。
雉肉との相性はよかったが、さきほど空になった桃のチーズケーキとは相性が悪かった。
ミャロは最後の一切れを口に含み、味わったあと白ワインで洗い流すと、
「――ふう」
と、紅潮した頬で一息ついた。
「堪能しました。美味しかったです」
そう言ってナプキンで口を拭く。
「そうか。ならよかった」
「こういった食事は最後になるかもしれないと考えると、味わいもひとしおですね」
にこりと微笑んで皮肉を言ってくる。
「最後にはならん。安心しろ」
「そうでしょうか。まあ、せっかくなので食後酒もいただきましょう。アルティマの貴腐ワインがいいですね。キルヒナのチーズとの相性はどうでしょうか」
ミャロは白ワインを片手間に飲みながら、ワイン表を見た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食後酒を飲み終わると、ミャロは表情が柔らかくなっていた。
「――ふう、飲みすぎてしまいました」
そう言うと、空になったグラスを置く。
「じゃあ、そろそろ出るか」
デザートが終わってから随分経っている。
「ええ、そうですね」
ミャロも席を立った。
個室のドアを開けると、それに気づいたウェイターが近くに寄ってきた。
「お済みでございますか」
「ええ、ご馳走様でした。美味しかったです」
「ありがとう。会計は、伝えておいたところへ」
「かしこまりましてございます。本日はご利用ありがとうございました」
そのまま店を出た。店はホテルの最上階にあって、主には宿泊客が利用する。リャオはもちろん、部屋も取っていた。
階段を降りず、持っていた鍵で同じ階の一室を開ける。
意思を確認するのが恐ろしく、なにも言わなかったが、ミャロは抵抗する様子もなくあっさりと部屋に入った。
酔ったミャロというのは初めてだが、判断能力がなくなるのだろうか。しかし、それは自分のような男にとっては好都合だ。と、リャオは思った。
ミャロは、羽織っていた上着を脱いでソファにかけた。リャオは肩を抱くようにして寝室に誘導し、ベッドの上に小さな体を横たえた。
薄い明かりをつけ、ジャケットを開き、真っ白いシャツのボタンを上から一つ一つ外してゆく。すると、ゆで卵の殻が剥かれてゆくように、肩口の白い肌があらわになった。
ボタンを外し終えると、シャツの下に着ていたシルクのキャミソールが、半透明の薄皮のように残った。
肌触りのいい柔らかな質感に指を這わせると、リャオは身を乗り出して顔同士を近づけた。口づけをするつもりだった。
しかし、ミャロの顔は、行為を拒むように横を向いている。
「……どうした。怖いのか」
頬を撫でると、指先が濡れた。一筋の涙が顔を伝っている。
「なにを泣いている」
「……これから死ぬのが悲しいのです。ユーリくんに逢えずに死ぬことが」
ミャロは純潔と己の死を天秤にかけているようだ。そして、これから死ぬということは、死を選ぶということであり、それはリャオを拒むことを意味している。
「自分の命を守るためだと思って、ここまで来ましたが、やっぱり無理でした……ごめんなさい。リャオさんのエスコートが悪かったわけではないのです」
「そんなに嫌なのか。俺に抱かれるのが」
死ぬよりも。という言葉を、リャオは飲み込んだ。
「ユーリくんに、手垢のついた女と思われたくありません」
「あいつは、そんな狭量な男じゃないだろう」
「私が嫌なんです。この女はリャオ・ルベに抱かれたんだな、という目で、彼に見られたくない。そんな存在として、彼の視界に少しでも入りたくないんです」
「わかった」
リャオは、薄衣に包まれた肢体を残したまま、体を引いた。この女を手に入れるのに、無理強いしても意味がない。認めさせなければならないのだ。
「なら、形だけでいい。形だけ、俺のものになれ。明日公示して、明後日、結婚式をしよう」
「……駄目です。協力できません」
リャオの頭を疑問符が満たし、まさか、と呆気にとられる思いがした。ミャロは、今の状況を正確に認識しているはずだ。それが通ると思っているはずがない。酔いで判断能力がなくなっているわけでもないだろう。
「なぜだ? なんの不利益もないはずだ。あいつだって、名目だけの結婚式だったのだ、と理解するだろう」
「駄目です。それは、自分が生き残るためだけの行為です」
意味がわからない。
「生き残ることの、どこが悪い。ユーリだってそれを望んでいるはずだ」
今ユーリがここにいれば、生き残るためになんでもしてくれ、と這いつくばって懇願するに違いない。
ユーリが、式を挙げるくらいなら死ね、などと言うところを、リャオには想像すらできなかった。あの男が最もしそうにないことだ。ミャロの行動は、明らかにユーリの意に沿っていない。
「私は、私のために生きています。私の在りたい形で、ユーリくんの側に在りたい。そのためには、私の忠誠と献身を、少しも曲げたくないのです。一度曲がった刃として、これから何十年も彼の側に在り続けるなんて、私には無理です。ですから、ここで殺してください。それで彼が嘆き悲しんでも構いません。その慟哭が、私に向けたものなら」
そう言い放ったミャロの顔を見て、リャオは絶望的な悟りを得た。
この女は、宰相は、自らを刃に見立てる王佐の才は、ユーリのものなのだ。
決して、他の誰かのものにはならない。
そして、その忠心の在りようを少しでも曇らせるくらいなら、刃を折ってくれと言っている。
「俺のものにならないというのか。もしユーリを敗北させ、この手で殺したとしても」
そうではないと思っていた。
ミャロが自分になびかないのは、つまるところ、王佐の才に認められていないからだと。そしてそれは、ユーリを打ち倒すことで解決される。いわばその格付けが済めば、ミャロはより優れた王の下に跪くことになる。リャオはそう考えていた。
「……すみません。リャオさんの気持ちは嬉しいです。でも、どうしてもだめなんです」
申し訳無さそうに言うミャロの頬を、思わず手のひらで張っていた。バチン、と音がして、ミャロの顔が跳ねる。
「俺の気持ちはどうなる。本当に、お前のことを愛しているんだ」
「……ごめんなさい」
「分かっているのか? お前が形式だけの式すら拒むなら、俺はお前を殺さなきゃならなくなる」
当然だが、ミャロが拒むのであれば、殺さなければ教皇領軍が手綱から離れて暴れ出してしまう。すべてが台無しになり、リャオは破滅するしかない。
「俺に、お前を殺させるつもりなのか」
リャオは、ミャロの喉に手をかけた。
頼むから、命惜しさに言うことを聞いてくれ。そう願いながら。
「――どうぞ」
ミャロは、自らの首を捧げるように、肩の力を抜いて脱力した。
襟のあるシャツは開け、しみ一つない細い首が露わになっている。それは、手折られるのを待っている花の茎のようだった。
「最後にもう一度聞く」
意味がないことを知りながら、リャオは言った。
「死ぬんだぞ。本当にいいのか」
なんて無粋な問いだ。
俺は、こういうところがだめなのだ。
「はい。辛いことをお願いして、すみません」
そして、リャオは手に力を込めた。
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