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第302話 悦楽


「何が狙いだったのか、分析してスパイを特定しましょう。少し待ってください。仮説を幾つか出しますから」


 メリッサの発言に嘘は感じられない。事実、ミャロはシビャクに囚われになっているという認識なのだろう。

 メリッサは実際にシビャクから逃げ、カラクモを経てここにやってきた。まさか勘違いしているとは思えない。


 だが、ミャロが囚われただと? シビャクで?

 最初に、俺に反乱を知らせてきた手紙から偽物だったのか? それはないはずだ。

 なら、どうして居残った。シュリカを鷲に乗せて脱出させるタイミングがあったなら、ミャロだけ居残ったというのは理屈に合わない。

 メリッサがそう認識しているなら、それは事実なのかもしれない。

 じゃあ、ミャロは今シビャクにいるってのか? リャオの野郎が支配している、シビャクに?


 胸が苦しい。悪寒がする。焦燥感が湧き上がってくる。

 だが、なぜ?

 なんで、そんなことが起こった?


 リャオにとって最優先の確保対象であるはずの、女王であるシュリカでも脱出できたくらいだ。ミャロに脱出のチャンスがなかったはずがない。なのに、なぜ居残った?

 いや、あれこれ考えるより、メリッサに訊いたほうが早い。


「メリッサ、ミャロは」


 と口にしたとき、こちらを見ているエンリケと目が合った。薄く笑みを浮かべて、陶然とした目で、じっと俺を見ている。

 その目は、この世で最も愛している、何者かではない何かを、じっと見つめていた。

 エンリケが、その目を細めた瞬間、


 わたしだよ。


 と、音なき声が耳を打った。本当に耳で聞こえたのかと錯覚するほど鮮明な意思表示だった。エンリケは、少しも唇を動かすことなく、目でそう言った。


「てめえッ――!」


 薄い木の板で作られたテーブルを、力任せに蹴って跳ねのけた。その向こうにあるエンリケの襟を掴む。


「てめえがやったのか」

「そーだよ♪ サインを偽造してぇ~、報告書も送ったことにして燃やして~。隠蔽工作、大変だったんだから。人生で一番頑張ったかも~♪」

 エンリケは、顔に満面の笑みを貼り付けていた。そこには一片の恐怖も、悔恨もない。愉悦と歓喜だけがあった。


「てめえ、なぜ、そんなことをしやがった」


 俺は、分かりきったことを言った。こいつがそんなことをする理由は、一つしかない。


「今、この場で、直接、その顔を見たかったから」


 エンリケは、この上なく幸せそうに言った。


「私の知らないところで報告を受けて、その顔を見逃したら、つまんないでしょ? あー、満足満足。ねぇ、どんな気分?」

 ギリリ、と、無意識に奥歯を噛み締める。

「どんな気分? ミャロちゃんは十歳の頃から親友で、向こうはユーリくんのこと愛していて、あなたの失敗で虜囚になった。今頃、どんなに酷いことされてるのかな? リャオ・ルベに無理やり犯されたかな? それとも、ベッドで彼を拒んだせいで王城の尖塔から吊るされたかな? 今頃は死体がぶらさがってるかもね?」


 こいつの狙いを知っていながら、口から紡がれる悪意が耳に届くたび、最悪の想像が次々と頭をよぎった。

 胸の中にくろぐろとした怒りが溜まってゆく。殺す。ミャロをそんな目に遭わせた奴は、誰であろうと殺す。地の果てまで追いかけて殺す。全てを奪って殺す。惨めに這いつくばらせて殺す。


「どうしたの? もっと言って欲しい? そうだなぁ~、クラ人の十字軍に引き渡されるって線もあるか~。そしたらヴァチカヌスまで連れてかれて、エピタフ・パラッツォに直接拷問されるかもね。人の形じゃなくなるまで」

「黙れ」

「やだよ~だ。黙らないもーん♪」


 エンリケはこちらを煽るように、媚びるような目線で言った。本当に人の煽り方を心得てやがる。


「わかった。黙らせてやる」


 俺は襟から手を離し、五指を伸ばして手刀を作ると、エンリケの喉目掛けて振り抜いた。

「う゛ッ――」

 喉仏のない柔らかい喉を潰した感触が伝わる。


「ゲホッ、ゲホッ――そ゛うそ゛う、これが欲しか゛ったの」

「チッ」

 まだ力が弱かったか。やればやるだけ喜ばせるだけなのが鬱陶しい。

「あ゛ー、あ゛ー」まだ喋りやがるつもりだ。どう黙らせるか。「あ゛たしのせいじゃないとでも、思ってる?」

 はあ?

「どういう意味だ」


 一度唾を飲み、スーハーと息を整えると、

「私がやったの」

 と、エンリケは嬉しげな笑みを浮かべながら言った。


「私が逃げられなくしたんだよ。ミャロさんを。簡単だった。一羽残して、鷲を故障させればいいだけだったから」


 胸の中に溜まりきって溢れそうな怒りが、決壊するように溢れ出した。

 エンリケを刺し殺そうと、懐に手をいれる。

 しかし、そこに短刀はなかった。


 なぜないのか考える前に、体が動いていた。刺す代わりに、エンリケの腹を思いっきり殴った。


「う゛っ」


 前かがみになったエンリケの髪を掴み、力任せに引きずり倒す。

 喉に両手を当てて、体重をかけた。

 激情のあまり視界が赤くなり、目の前にいるエンリケの輪郭が歪んで見えた。


「てめえがやったのか」


 喉を潰されるエンリケは、苦痛など感じていなそうな幸福な顔で、うん、と目で語った。

 それはまるで、愛しい人に結婚を望まれた女性が、幸せに頷くような仕草だった。


 手の下で、エンリケの柔らかい喉が生理的な嗚咽にのたうっている。

 体重を乗せた手は緩めない。


「安心しろ。今度は生き返らせたりしない。きちんと最後まで殺してやる」


 視界の中のエンリケは、呼吸ができなくなり、次第に青くなっていった。

 死にゆく表情は、どこまでも幸せそうで、欠片の悔いも見当たらない。

 それが苛つく。俺は怒りをぶつけることしかできない。なのに、この女は、それが望みなのだ。望みを叶えるために俺を怒らせ、怒らせるためにミャロを陥れ、そして俺はその望みを叶えてやっている。

 猛烈な怒りの渦の中に、エンリケの思い通りになっているという苛つきの感情が一滴混ざり、二つの色彩の違いが意識をわずかに戻した。


「――がいます、やってません」


 耳に、まだ聞き慣れない女性の声が聞こえる。貧弱な力が、エンリケから引き剥がそうと、両肩を引っ張っている。


「ちがいます。エンリケさんはやってません! ――ロさんは、自分の意志で残ったんです! 直接、私が聞きました!」

「なんだと?」

「エンリケさんは嘘をついてます! やめてください!」


 耳がその声を聞こえると、俺はエンリケの喉を潰す手を緩めていた。

 変態につきあわされた哀れな体が、大きく咳き込み粗く呼吸をしている。エンリケの望みに反して、顔には血色が戻っていった。


「……あ゛ーあ゛」


 エンリケは、苦々しげにつぶやいた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「ケホッ、ケホッ……」


 エンリケはまだ咳き込んでいる。生きてるなら、さっさと消えてくれねぇかな。


「大丈夫ですか、エンリケさん。ほら、お水飲んでください」

 コップに注がれた水を、エンリケは一口飲むと、

「あ゛りがと」

 と感謝の意を述べた。

「死なせときゃよかったんだ、そんな変態」

「酷いですよ、ユーリ閣下」

「どこがだよ。重大な連絡文書に偽装工作した時点で死罪が当然だろ」

「うっ……」


 まったくの正論に、メリッサは黙った。


「まっ、いいけどねー、邪魔は入ったけど、八割方は楽しめたし」

「死ね」


 短刀を投げて刃が刺さるか柄が当たるか運試しをしてやろうと懐に手をいれたが、再び短刀がないことに気づいた。

 ああ、そういえばアンジェリカのところの侍従にくれてやったんだった。

 我ながら粗忽なことに、あれから忙しくて補充するのを忘れていた。

 短刀があったら間違いなく刺していたから、今頃エンリケは死んでいただろう。そっちのほうがよかったのだろうが。


「エンリケさん、一体何であんなことをしたんですか? 自白した上に冤罪を主張するって、意味不明ですよ」

 冤罪を主張するの意味が少し違う気がするが……。

「最初からイカれてんだよ。今までは便利だったから使ってやってたが、これでおしまいだな」

「え゛っ……」


 エンリケはびっくりした顔で俺を見た。

 もしかしてあれでセーフだと思ってたのか。逆にこええわ。


「当たり前だろ。あとは勝手に暴力亭主の嫁にでもなって、一生殴られて暮らしてろ」

「だからー、私が欲しいのはそういうのじゃないんだってば」

「とにかく、お前はもうクビだ。どこへなりと消えろ」


 もーさすがに相手してられん。

 近い内になにかするだろうとは思っていたが、まさか妨害工作までしやがるとは。俺が知るタイミングがズレただけで、実質被害はなかったから良かったようなものの、下手したら大惨事になっていた。


「……そんなこと、いうんだ」

 エンリケは淋しげにうつむいた。

 まーだクソみたいな演技をやってやがる。

 こいつの本性を知らないメリッサは、なんだか釣られて悲しげな顔をしている。

「言うに決まってんだろ、ボケカスが」

「じゃ、殺してよ」


 はあ?


「なんでお前が好むことをわざわざしてやらにゃならんのだ。俺は被害者だぞ」

「あ、駄目なんだ」


 と、エンリケはまるでその答えが分かっていたかのように、あっけらかんと言った。


「じゃ、クビにされて暇になったら、殺されるのを妨害したメリッサちゃんに復讐しよーっと♪」


 ――はあ?


「……あーっと、聞き間違いか? メリッサに復讐すると聞こえたが」

「合ってるよ。メリッサちゃんにとって嫌なことたくさん、いっぱいいっぱいするの。手始めに、メリッサちゃんの故郷をめちゃくちゃにするから。アルビオ共和国に渡航して~、あっちのエリート層を片っ端から(たぶら)かして、内乱状態にしちゃおっかな。傾国の美女(ファム・ファタル)って、私興味あったんだ~」


 メリッサはそう言われて初めて、理解が及ばない怪物を見るような目で、エンリケを見た。

 エンリケは、その将来が本当に愉しみそうにニコニコしている。


「途中で殺されちゃうとしても、かなりのところまでやれる自信あるよ? あっちも、シャン人には気兼ねする情勢だろうし」

「やれるかよ。どんな状況になろうが、お前など運ばん」


 船に乗れなければアルビオ共和国になど行けん。


「いいよー。私だったら、クラ人の国通っていけるもん。もし途中でなにかあって、教皇領まで連れていかれても、私だったらアルビオ共和国までいけるよ」


 行けるわけないだろが、と思っていると、エンリケはそれを見透かしたように、


「あのね、男ってみーんな愛に飢えてて、そこを埋めてあげればなんでもしてくれるんだよ。それはクラ人も一緒。だから、もしあっちで奴隷にされたって、絶対に切り抜けられる自信あるよ」


 ……鬱陶しいことを言い出した。

 こいつならやりかねない。普通の女なら死を選ぶような暴行を受けようが、なんとも思わない奴だ。四肢切断なんかをされたら物理的に移動は不可能になるが、男性社会の向こうで、わざわざこの美貌を毀損しようとする異常者はごくわずかだろう。その上、狡猾な手管に熟知していて、手段を選ぶという感覚も最初からない。なにかをやると決心したら、本当にやりかねない。


「面倒だし、殺すか……」

 ぼそりと言うと、

「できないよぉ」

 とエンリケが言った。


 あぁ?

 殺せって言ったのはお前だろうが。


「できるわ。てめぇに何度煮え湯を飲まされたと思っている」

 俺がそうやって睨むと、エンリケは嬉しげに微笑みながら口を開いた。

「ユーリくんは本質的には優しい人なんだよ。だから、煽って煽って殺意が振り切れないと、一度心が通じ合った私のことは殺せない。もう大分話して、殺意薄れちゃってるでしょ。殺すかぁ、なんて悩んでる時点で、もう駄目なんだなぁ~」

「てめぇの分析が正しいかどうか、証明してやろうか」

「いいよ~。やってみな~」


 ガタッ、と椅子を蹴って立ち上がり、構想を実行に移そうとするが、どうも気が進まなかった。

 胸糞悪いことに、心理的な抵抗がある。

 十秒ほどして、俺は椅子を直して座った。


「ね? 今回のことは不問にしよ? もうこんなことやらないからさ~」

 エンリケは可愛こぶって媚びを売るような仕草をしている。

 絶対やるわ。

「ユーリ閣下……とりあえず次の機会に、王剣部隊の長と処罰を決めては……?」

 メリッサが口を挟んできた。

「彼女にも任務がありますしぃ……ここで放逐するのもちょっとぉ……いかがなものかとぉ……」


 おずおずと口出ししてくる。チラチラとエンリケを見ているところを見ると、恩を売りたい……というより、アルビオ共和国には来てほしくないという思いが伝わってくる。メリッサはこいつのやってきた事をほとんど知らないはずだが、国を傾かせる厄介事の匂いを独自の外交観で感じ取ったのかもしれない。


「まあいい。元々、次にやらかしたら俺と無関係なところで死んでもらう約束だったしな。ティレトに殺すよう伝えておく」

「あーよかった。これで無罪放免かー」


 無罪放免だと……?

 あの堅物のティレトがこいつに籠絡されているとは思えないが……どうも、無根拠に言っている感じがしない。なにかしら秘策があるのか。

 駄目だ。何を考えてやがるのか見当もつかねぇ。


「チッ」


 大きく舌打ちをした。本当にこいつにはイライラさせられる。

 エンリケは嬉しそうに俺の不機嫌そうな顔を見ていた。


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― 新着の感想 ―
ユーリって娘が女王になると思ってるから、唯一の為政者とは振る舞わないのかもな?将軍として優秀だし、遠い将来まで考えられはするけど、身内に甘過ぎて処断するという判断全然ないもんなぁ。王剣にタメ口きかれて…
エンリケちゃんが一番かわいい。 絶対幸せになってね
これ、もしかしてリャオの裏切りで熱くなってるユーリの頭を冷やす為にやった? 一度怒りエネルギーを使い果たすと@もう一度怒るのにはちょっとインターバル必要だし もちろんエンリケ自身の実利がメインだろうけ…
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