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第242話 アンジェの帰還 後編*

 戴冠式を終えて一ヶ月。


 身代金支払いが終わり、解放された捕虜三千名弱が、唐突に港湾都市リュービリに到着した。


 予想されていた通り、帰還した捕虜はアンジェが戴冠していたことに驚き嘆き、悪し様に罵った。

 曰く、帝を見捨てて戦場から真っ先に逃げた売国奴だと。


 しかし、彼らは国事として出征し、そして帰ってきた捕虜であり、殺してしまうわけにはいかなかった。


 アンジェは、自分は迫りくる騎兵に対して迂回を阻止する行動を取って戦ったという嘘を表明しつつ、公然と帝王を批判した者に対しては不敬罪で罰した。

 その頃には、当然アルフレッドの生存の報は流布してしまっていた。


 そして、一ヶ月後。


 アルフレッドは帰還した。



 *****



 先に解放され、暗にアルフレッド支持を表明していた高位貴族の港町に、アルフレッドはひっそりと上陸した。

 すると、捕虜になっていた者たちを始め支持者たちが、続々とその町に向かい、アルフレッドの下に参集する。


 大慌てで事態を沈静化しようとする選帝侯たちの説得を無視し、アンジェは公然と軍を集めた。


 選帝侯たちが暗躍する政治の季節は終わった。


 武断の者が剣を振るう、戦争の季節がやってきた。


 更に二週間後、アルフレッドとアンジェリカの軍は、ネッテルフィラという田舎町で対峙していた。


 表向きは、二帝が話し合いをする座を設けるというだけの話だった。

 だが、話し合いをするだけでも、軍の背景が必要であった。


 アルフレッドが帰還すると、味方についたと思っていた諸侯の多くは日和見に転じ、国庫がカラの状態で集められる兵は六千にすぎなかった。

 対してアルフレッドの下には、迅速に招集に応じた元捕虜二千二百に、彼らが地元に残していた兵が足され、七千三百の兵が参集していた。


 笑いがでてくるような兄妹仲だ、とアンジェは思う。

 だが、仕方がない。


 アンジェとアルフレッドは、両軍の前線から等距離のところで会合を試みた。


 それぞれ十名の近習を護衛として当て、両軍から動きがよく見えるように、露天での会合であった。

 三月八日、肌寒い、風のない、雲の淀んだ日の出来事であった。


 アンジェは、農村を横に見る農道の上で、椅子を向かい合わせに並べ、粗末な机を間に挟んでアルフレッドらしき者と向かい合っていた。


「………」


 アルフレッドらしき者は、なにも話さなかった。


「………」


 アンジェもまた、なにも話さない。


 というか、アルフレッドは奇妙な仮面を付けていた。

 にぶい金色をした、歌劇で使うような奇妙な仮面であった。


 なので、アンジェは目の前にいるのが真に自分の兄なのか、信じかねていた。

 ただ、仮面に空いた双眸の穴から、こちらを激しく憎んでいる思いが滲み出てきているような気がした。


「………ッ」


 アンジェは一瞬、仮面の穴から憎悪が噴き出したような錯覚を覚えた。

 その瞬間、身構えていた体が動き、右腕を振った。


 アルフレッドが抜き打ちに斬りつけた細身のサーベルを、右腕で受けた。

 このようなことに備えて、アンジェは右の前腕に鉄の板を通していたのだった。


 アンジェは剣を防御すると同時に、左腰に差していた刺剣を左手で抜いていた。

 輪になったナックルガードに指を通してくるりと半回転し、羽根を持つように握ると、間髪入れずに急所に突き込む。


 だが、アルフレッドは左の裸拳でそれを阻止した。

 拳が貫き通され、ぐっさりと貫通し、そこで刺剣は止まってしまった。


「やめいッ!!」


 アンジェはそこで初めて、兄の声を聞いた。


 周囲を見ると、双方十人の護衛は剣を抜き、今まさに戦いを始めんとしていた。


「少々、気が逸っただけのこと。大げさにするな」

「何がっ!」


 ここで終わらせてやる。

 そう思い、アンジェは刺剣を引き抜こうとした。


 だが、拳に刺さった刺剣が抜けない。

 貫き通されてなお、アルフレッドは拳を強く握っているようで、肉が締まっているのだった。


 副武器として胸に忍ばせているダガーで刺そうと思ったが、刺剣を握っている手が邪魔であった。

 距離が刺剣の間合いになっており、ダガーの間合いには遠い。


 アルフレッドは近間でサーベルを一閃すると、アンジェの刺剣を事もなげに折った。


「アンジェ様ッ! お隠れをッ!」


 近習の騎士がマントを翻し、アンジェの両肩を掴んで、後ろに引っ張りながら自らの身で庇った。


「逃げるなッ! まだ話は始まってもいない」


 アルフレッドは堂々と椅子に座り直している。

 アンジェは違和感を覚えていた。


 アルフレッドは、このような剛の振る舞いをする者だったか?

 拳を貫通されているというのに、たじろいでもいない。


 だが、その声は疑いようもなくアルフレッドのものであった。


「座れよ。逃げるな」


 堂々としている。


「構わん。助かった。放してくれ」


 アンジェがそう言うと、近習の騎士は掴んだ両肩を放した。


「お気をつけください。あの男、気が狂っております」

「気をつけよう」


 アルフレッドは、シルクのタイを首から外すと、折れた刺剣の切っ先を手のひらから抜き、傷を縛った。


 痛みを感じていないのだろうか。

 かなり乱暴に締め上げている。


「どうした、座れよ。怖いのか」


 挑発され、アンジェは椅子に座った。

 ここで退いては、気持ちで負けてしまう。


 ただし、今度は間違っても剣の届かない位置に椅子を直した。


「一体どういうつもりだ? 話し合いの場で剣を抜くとは。我が兄は礼儀も忘れたか」

「怒りを抑えられなかったのだ。それに、これは話し合いではなく前哨戦だ。貴様も……もはや、話し合いで終わるとは思ってはいまい」


 底冷えするような声であった。

 アンジェは怒りを買う心当たりだけは売るほどあったので、不思議にも思わなかった。


 だが、マスクが不気味だ。


「それにしても、戦場から遁走した身で、よくも女帝などと名乗れたものだ」

「私は防御のために動いたに過ぎない」


 そういうことになっている。


「なにをッ――! 俺は貴様が逃げたのを見たぞ! 教皇軍の背を抜けて!」


 アルフレッドの後ろから、あちら側の騎士が叫んだ。


「教皇軍を旋回し、敵の背後を衝いたのだッ! 我らの戦いを見てもいない者が、賢しらに大口を叩くなッ!」


 アンジェは努めて怒りを装った。

 どのように嘘を吐いたところで、あの乱戦の中確信をもって自分は正しいと言える者がどれだけいるだろうか。

 証明のしようなどないし、アンジェの麾下の者は絶対に喋らない。


「落ち着け」


 アルフレッドは、片腕を上げて騎士を制した。


「しかし――ッ」

「黙れ。今は俺が話をしている」


 アルフレッドがそう言うと、騎士は冷や水を浴びせられたように口をつぐんだ。


 今のアルフレッドには、抜き身の刃のような危うさがあった。

 触れれば切れる刃を向けられれば、人間は恐怖を覚える。


 騎士は、味方でありながらそれを感じたのだろう。


「……まあいい。あまり長くなるのもなんだ。殺意を抑えきれなくなる」


 アルフレッドは、椅子に浅く腰掛け、背もたれにぐったりと背中を預けている。

 ともすればだらしなく感じられてしまう姿勢であったが、表情を読めぬマスクと相まって、今は妙な圧力を感じた。


「なぜそんなマスクを? 痘瘡でも患って痘痕(あばた)ができたのか、兄上」


 最初から気になっていた疑問を述べた瞬間、またしてもアルフレッドから殺気が噴き出し、机が蹴り上げられた。

 だが、遠いので狙いが逸れ、アンジェには当たらなかった。


 ガンッ、と、近習の騎士が盾で机を弾く音が聞こえた。


 騎士たちが抜き身の剣を揃え、アンジェを庇う。


「一体なんなのだ。本当に頭がおかしくなったのか?」


 最初から頭がおかしいのは知っていながら、アンジェは言った。


 痘瘡か象皮病か知らないが、なぜこちらが八つ当たりを受けねばならないのか。

 意味がわからない。


「――見てみろ」


 アルフレッドは仮面を外した。


 アンジェは思わず、息を呑んでしまった。


 そこには、アルフレッドの顔があった。


 だが、違うのは、字が書いてある点であった。


「読め」


 顔面の肌に文字が書いてある。


 まさか、ただ字が書いてあるだけとは思えない。

 入れ墨なのだろう。

 入れ墨特有の、薄い膜を一つ通したようなぼやけ方がある。


『我は兄を謀殺せし悪辣の帝王。

 その心の弱きが故に幼き弟の杯に毒塗りこむ臆病なる子』


 そう額に書いてあり、


『うら若き乙女が帝座を継ぐは、父の意志を継ぎし者であるがゆえ。

 我が帝座を追われしは、父の教えに背きし卑怯者であるがゆえ。』


 細い二行が、鼻梁を挟んで顔を横断していた。


『新しき帝王に、イイススの恩寵あれ。』


 鼻の頭を挟んで、太い一行がある。


「よくもやってくれた……お前がネリーヒンを邪魔したおかげで、このザマだ」


 アルフレッドは怒りに震えていた。

 ネリーヒンはアルフレッドの妻、つまり王妃のことである。


「なっ、なんのことだ?」


 意味がわからなかった。


「貴様が身代金の調達を邪魔し、満額を支払うのを拒否した。その結果がこれだ」

「……馬鹿な。私はそんなことはしていない」


 事実であった。

 妨害する前に身代金はある程度払われてしまっていたし、アンジェのところには請求はきていない。


 そもそも、満額支払われていないのなら、解放しなければいいだけの話ではないか。


 そこまで考え、アンジェはこれもユーリ・ホウの奸計の一部であることに思い至った。

 そうか、嘘を吹き込んだのか。


「嘘つき女め。見ていろ。同じように入れ墨を刻んで、兵士全員に犯させた上で、生きたまま鼠に食わせてやる……必ずだ。必ずそうしてやるッ……」


 元より病的にアンジェに執着しているアルフレッドだ。

 その嘘はさぞやよく馴染み、心に染み込んだことだろう。


 アンジェリカが支払いを拒んだ。もはや満額支払われる見込みはない。これを刻まれるのはアンジェリカのせいだ。

 そんなことを吹き込まれながら墨を彫られたに違いない。


 今更アンジェがどのように弁明したところで、どうにもならない。

 その洗脳が解けようはずもない。


 全てはユーリ・ホウの奸計なのだと誰が助言したところで、この狂王は殺すだけだろう。

 それが、今や世に放たれてしまった。


 ユーリ・ホウは、アルフレッドを、アンジェを殺すことだけに執着する凶獣に仕立て上げたのだ。


「ハハハッ」


 アンジェは、思わず笑ってしまった。

 アルフレッドは、その笑いを聞いて顔面に青筋を浮かべ、激高した。


「――ッ!!! そんなに面白いかッ! この兄の顔がァアア――ッ!!」


 サーベルを握り、アンジェを切り刻まんと歩を進める。

 アンジェが庇われ、アルフレッドが剣の林に突っ込まんとすると、


「アルフレッド様! お止めください!」


 近習の騎士たちが慌ててマントを掴み、止めた。


「ハハッ、ハッハッハ」

「アンジェリカア゛アアッ!!! 何がおかしいッ!!」

「違う違うっ、違うって」


 アンジェは入れ墨がおかしくて笑っていたわけではなかった。

 池で溺れた犬を更に竿で沈めるような徹底したやり口に、思わず笑みがこぼれたのだ。


 どこまでも容赦がない。


「まあ、お前は一生誤解していろ。ハハハッ、まったく、よくもやってくれる――」


 アンジェリカは、アルフレッドに背を向け、自陣に向かって歩きはじめた。

 もはや獣と話す意味はなかった。


「あの顔を見て笑い飛ばすとは、豪胆ですねぇ……」


 後ろで見ていたレオナールが、感心したように言った。


「そんなんじゃない。さ、陣に行くぞ」


 左右を見ると、雄々しくも狂った兄王を笑い飛ばしたアンジェを、騎士たちは頼もしく思っているようだった。

 あれほど狂った様を見せられたのに、腰が引けている様子はない。


 おかしな話だが、アンジェは、ユーリ・ホウの徹底したやり口に驚くと同時に、期待されているように感じていたのだった。


 ユーリ・ホウは、アンジェの才、能力であれば、この狂った王と良い覇権争いをするだろうと思っている。

 もっと低く評価しているのであれば、アンジェにもっと時間を与え、十分に地盤を固めさせてから凶獣を解き放っていただろう。


 だが、ユーリ・ホウはそうしなかった。


 ならば、期待に背いてみせよう。

 期待の上をいき、アルフレッドを斃してみせよう。


 そう思いながら、どこか爽やかな気分でアンジェリカは自陣に戻っていった。


 兄と戦争をするために。

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