番外編 リュカの憂鬱 その1
早朝、目を覚ますと目の前に女神がいる。
オデットの形の良い額だとか、影が出来るくらい長い睫毛とか、端整な鼻筋とか、艶やかで柔らかそうな唇が目に飛び込んでくると、それだけで男としての情熱が覚醒する。
オデットは三人の子供を産んだとは思えないくらい、若々しい。体型にも全く変化が見られない。幼い頃からの戦闘訓練の賜物なのだろう。引き締まった体つきと真っ白で滑らかな肌に欲望を抑えきれなくなる。
どうにもこうにも触れずにいられない・・・と彼女の頬に手を伸ばす。そっと頬を撫でながら、額や顎に軽くつまむような口付けを落とす。
「・・・ん」
と身じろぎをするオデット。
我慢できなくなった俺は彼女のほっそりとした首の後ろに手をかけて、彼女の唇にキスをした。甘くて柔らかい感触に我を忘れそうになる。夢中になって、彼女の柔らかい舌と唇と味わっていると、オデットの瞳が開いた。
「・・・んもう!もう少し寝かせて・・・疲れているの。ごめん」
と言われて、大人しく手を引いた。
分かっているんだ。三人の乳幼児を抱えて仕事も続けているオデットが、毎日頑張り過ぎるくらい頑張っていることを。
もちろん、俺も出来るだけ育児を手伝う努力はしているし、長女のスズは幼いなりに自立していてそれほど手がかからない。
それでも、離乳食も自分で手作りしようとするオデットは常に時間に追われて、余裕のない生活を送っている。
・・・俺のことをどう思っているんだろうか?
まだ・・・好きでいてくれているとは思う。・・・そう思いたい。
でも、きっと俺のことを考える時間は少ないだろうな、と思っただけで、心臓がきゅっと締め付けられる気持ちがした。
俺は、今でも一日の大半を、オデットを思うことに費やしている。
もちろん、仕事は真面目にしているし、領地経営はそれなりに忙しい。それでも、時間が空くとすぐに思い浮かぶのはオデットのことだし、仕事が終わるとすぐに家に帰ってオデットの顔が見たいと思う。
オデットが少しでも帰宅するのが遅れると心配で堪らなくなり、王宮まで迎えに行ったことが何度もある。
その度に
「ねぇ、恥ずかしいから止めて。同僚にも揶揄われるのよ」
と言われるが、止める気は一切ない。
オデットの職場でも夫としての俺をアピールするのは大切なことだ。
要は「俺の妻に手を出すな!」という牽制である。
でも・・・しつこくて嫌がられるということはあるだろうか?
昨日よりも今日の方がオデットに対する愛情が増している。幼い頃からそれを繰り返してきた。俺の愛情は今では計り知れないほど大きい自信がある。
俺ばっかり好きで狡いな・・・。
オデットはどれくらい俺のことを好きでいてくれるんだろう?
もうそんなに好きじゃないけど惰性で一緒に居る、とか思われていたら死にたくなる。
再び穏やかな寝息を立て始めたオデットの横顔を見つめながら、俺は『オデットがいない世界では生きていけない』と考えていた。
マルタン伯爵領は恵まれた領地だと思う。人々の暮らしも他の領地に比べると余裕があり、俺が視察する度に幸せそうな笑顔で手を振ってくれる領民が多い。
それでも、貧困や格差の問題が依然として存在しているので、俺が今力を入れているのは物価の調整だ。
当然、物価が安すぎると売り手側にとって不利になってしまうが、やはり買い手である一般庶民の方が圧倒的に立場が弱い。特に食料品や医薬品などの必需品は出来るだけ安く抑えないと、苦しむ家庭が増えてしまうだろう。
だから、領内で物を売る商会は人々のために役に立ちたいという良心的な商人を選んでいるつもりだ。例えば、付き合いの長いシモン商会は、質の良い商品を庶民にも手が届く価格で販売してくれる有難い取引相手だ。
だが、裕福なマルタン領で物を売りたいという商会は非常に多く、そういった商会が次々に俺に近づいて来る。
オデットから
「長い間、同じ相手としか取引しない、というのは腐敗の温床になる可能性があるのよ。ある程度競争があった方が良いわ。もちろん、良心的な商会だという選別は必要だけど」
と言われて、一応会って商品を確かめてから判断するようにしている。
しかし、面倒臭いことも多い。
商会の令嬢が目をキラキラさせながら、俺にしなだれかかってきたり、最悪の場合は
「娘は伯爵に恋しておりまして・・・。第二夫人でも・・・何なら愛人でも構いませんので・・」
などという親にあるまじき発言をする者もいる。
俺はオデット以外の女には全く、これっぽっちも興味がない。
それを伝えても、諦めきれないのか何なのか何度も手紙を寄こしたりする。
最初はそういった手紙をオデットから必死に隠していたが、一度オデットに見つかってしまったことがあった。
「あら、恋文かしら?」
とオデットに拾って手渡された手紙を受け取りながら
「だったらどうする?」
と尋ねてみた。
やきもちでも焼いてくれるかな、などという淡い期待があったことは確かだ。
でも、オデットは興味なさそうに
「別に・・・」
と立ち去ってしまった。
俺はガーーーーンと衝撃を受けた。
もし誰かがオデットに恋文を送ったら、俺は絶対に相手をぶん殴りに行く。
俺と彼女の温度差をまざまざと見せつけられたようで、正直しばらく凹んでしまった。
はぁ、と溜息をつく。
いつも好きなのは俺ばかりだ。
でも、この想いが止められる訳ではない。
惚れた弱みってこういうことなんだよなぁ、と心の中でぼやいた。




