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「修羅場だね、ヴァン」
「誰のせいだ、誰の」
煽った相手をヴァンは鋭く睨むと、溜め息をついて項垂れる。
睨まれたネストの方は、小さく笑って首をすくめた。
「関係をひっかきまわすのが、アンドラス一族の性分だからねぇ」
「だから、お前を連れて来たくなかったんだよ」
「酷いなぁ。君が感情を左右されるのが面白くてつい、からかっているだけなのに」
「ついってなんだ。オイ」
「だってねぇ。君がそんな風に慌てたり落ち込むなんて、愉快じゃないか」
懐かしそうにネストは自分の顎を撫でながら目を細める。
「何と言うか君は、悪魔らしからぬ真面目な男だからねぇ。オセの邸にいた頃は人形みたいに淡々と務めを果たしているだけで、どこか生き辛そうに見えたものだよ」
ネストや多くの仲間のように、人を翻弄し誑かす行為に愉悦や享楽を得る訳でも見出そうとする訳でもなく、ヴァンはオセの家名を戴くものとして人を惑わし魂を狩ってきた。
仲間のように楽しむ感覚が分からなかったヴァンの魂狩りは、魂を美味くするために用いる遊興と無駄が必要最低限で、人の目には非情な存在に見え、悪魔仲間には面白みに欠けたものに映った。
それをヴァン自身が苦にした事はない。だが、周囲からは浮いていた。
親同士の縁で出会った二人は、ネストが悪魔らしからぬヴァンに興味を抱いたことがきっかけで、僅かに年上のネストがヴァンを構い倒して、気付けば友人同士となった。
長い付き合いだが、この三年の間に見違えるほど穏やかな顔をするようになったヴァンの変化は、さらにネストの興味を引いた。
それが、シズという名の小さく脆い人間の存在に寄る所が大きいと気付いたネストは、何かと理由を付けては、シズに会いに来る。友を変えた稀有な生き物に、興味津々なのだ。
「なのに、無駄を嫌う君が人間を従僕にするなんて、どうしてしまったのかと思ったよ。しかも死にかけでボロボロの子供」
「だから、それは前にも言っただろ」
面倒くさそうに鼻を鳴らして、グラスの酒を煽ったヴァンは、新緑色の双眸で梟顔の友人を睨んでいたが、その視線をシズの部屋の方へと向けた。
「やせ過ぎた贄じゃ、食い応えがないから?とか、言っていたよね」
この世界に送られてきた時のシズは、骨と皮だけで、体中に鞭で打たれような傷や痣があった。
普通、贄というのはそれなりに身体に栄養の行き渡った、傷の少ないものが多い。己の欲を叶えるために、相応に良質の贄を捧げるのはセオリーだ。
だが、シズは違った。瞳に生気すらない死にかけだったのだ。放置すれば、半刻と生きられない程に衰弱しきっていた。
今も傍目から見ればまだまだ痩せた小さな子供だが、当時を思えば、シズは背も伸び多少なりとも頬もふっくらして、身体には上質な筋肉が薄いながらもついて健康的だ。
「そもそもさ、僕たち一応は肉食だけど、人間の肉はほぼ食べないでしょ?あまり美味しくないし。人間は肉より魂の方が美味しいんだから」
「あいつは、魂も腐りかけていた。腹壊しそうな程度には」
「そんな食糧にもならない者をわざわざ育むなんて、無駄以外のなにものでもないよ?それこそ、君の幻惑の能力で夢を見せるか、さっさと活きの良い魂を誑かして狩った方が断然早いし、効率が良いのに」
「……悪かったな。非効率で」
「別に、嫌味で言ってる訳じゃないよ。ただ、君にも無駄と遊興を楽しむ悪魔らしい一面があったんだなぁって思って、ちょっと嬉しかっただけだよ」
感慨深げなネストは蒸留酒のボトルを手にとり、中の酒をグラスに注ぐ。
「君、シズちゃんを大事に大事に育てているよね。三年前とは比べ物にならない程、シズちゃんの魂は満たされて輝いている。すごく豊潤で甘い香りがして、今が食べ頃だと誘惑してる」
当初、見捨てようと思ったが、怪我の手当てをして食事を与えたのは本当に気まぐれだった。
そうすれば、死ねないと絶望して魂が多少、腹の足しになる喰えるものに変わるかもと思ったのだ。その思惑は、良い意味で、思わぬ産物を作りあげることになってしまった。
悪魔が好む、極上の魂の香り。絶望と至福を知り、喜びと不安の入り混じった混沌の輝きは、堕落しきった漆黒の魂よりも上質で美味なのだ。
シズの魂は、ヴァンの気まぐれで、廃棄物から至高の一品へと変貌を遂げた。
「あんな風に黄金比で熟成された魂は、悪魔垂涎ものだよ。君の印が付いているのに、思わず欲しくなっちゃうよ」
「ネス」
ヴァンのもっていた分厚いグラスが、ビシッと音を立てて大きな亀裂が生じ、獰猛な声が友人を呼ぶ。
「アレは、俺のだ」
「分かっているよ。でも、あれでは脳筋悪魔に狙われる。だから、極度の寒がりの君が、わざわざこんな辺境の雪まみれの不便な土地に居を構えたんだろ」
人口もすくない、排他的で閉塞的なこの土地は、夏季に僅かな交易で商人が行き交うだけ。加えて、村の外れの険しい崖の上に家を作った。
無論、シズ一人では下の村に移動できない。それどころか、容易に村の者さえ来ることが出来ないから、シズを隠すにはちょうど良い。
お蔭でネストも猛吹雪の中で、苦労する羽目になったが、その苦労に見合った良いものを、毎回目にする事が出来た。
「立地もなかなかエグイのに、この屋敷には幾重も結界を施してあるし、彼女自身にも過剰に守護を施して。それでも気が気じゃなくて、今回も早く帰ろうとして風呂どころか寝る間も惜しんで、この雪の中を戻ったんだろ?まるで宝物だね」
本当に、君が健気すぎて可愛いよ。と、ネストは言葉を続けて梟の声で嗤う。
からかわれていると分かって、ヴァンは渋い顔だ。
家の中、いや、シズに悟られない場所なら、ヴァンは目の前の友人の顔をぶん殴っていただろう。
シズの事となると、冷静ではいられない。
彼女の魂も、髪一本に至る身体の全ても、ヴァンのものだ。時間をかけて育て上げたもの。
例え、目の前の男が自分をからかっているだけであろうと、関係ない。
シズに手を伸ばすのならば、容赦なく暴力で相手を屈服させたくなるのだ。
「上級悪魔のこの僕が香りだけで酔いそうな極上品だよ?同じ上位の君だって、たまらないはずだ。ひょっとして、今日、食べちゃうつもりだった?」
グラスを傾けながら、酒の香りを楽しむ様に呟いたネストに、いよいよ、ヴァンの握っていたグラスが粉々に砕けた。
「そっか、邪魔しちゃったねー」
「煩い。黙れ。このまま外に放りだすぞ、ネス」
「おぉ、怖っ」
怯えもせずに放言して笑う梟面が、ヴァンはひどく不愉快だった。
「ふふっ。いいじゃないか。僕など気にせず、心の赴くままに彼女の魂を食い尽くせば」
「煩い!」
甘い誘惑を断ち切るように、ヴァンはその場から立ち上がり、右手でテーブルクロスを掴んで勢い良く引く。
卓上の食事皿は、クロスの動きに合わせて宙を舞い、食事ごと、全ての皿が床に叩きつけられる。
一度に多くの食器の割れる音が部屋に響き渡り、ヴァンの豹面が威嚇するように歪む。
「本当は君もそれを望んでいるくせに。我慢なんて体に毒だよ?」
「黙れと言っているだろっ!」
「でないと僕が、彼女を頂いてしまうよ?」
「ネスっ!」
音もなく机の上に飛び乗ったヴァンは、そのまま鋭利な爪を伸ばしてネストを引き裂こうとする。
「し、師匠!?」
その声に、ヴァンの動きが瞬時に止まる。鉤爪の切っ先が、ネストに触れる直前で。
喧騒を耳にし、部屋から飛び出してきたシズは、食事席の酷い惨状とネストに襲いかかるヴァンの殺気立った後ろ姿に思わず息を飲む。
「ど、どうしたんですか」
「あぁ、ごめんねー。ちょっと揉めちゃって、このありさま」
微動だにせずに眺めているだけだったネストが、ヴァンの影から顔を見せ、不安げな表情で自分たちを見る少女に申し訳なさそうに声をかける。
「せっかくの食事も食器も台無しにして、ごめんね」
「あ、いえ…も、もしかしてお怪我を?」
振り返りもしない、怒気も引かないピリピリしたヴァンの様子に戸惑いながら、シズはネストへそう尋ねる。が、床に落ちているテーブルクロスに、血の痕を見つけたシズは、慌てて机を挟んだネスト側へ駆ける。
「僕は大丈夫だけど、ヴァンがね…」
駆け寄ったシズは、ヴァンに視線を移すと、ネストの向かって伸びていたヴァンの掌から血が滴り落ちているのを見つけた。その掌には砕けた鋭利なガラス片が三つも突き刺さっている。
「ちょ、師匠!大事な右手を怪我してます。しかも、ガラスの破片も!は、早く手当てしましょう!剣が握れなくなっちゃいます」
「煩い、俺にかまうな」
自分の腕に伸びてきたシズの小さな手を、ヴァンは思わず手の甲で叩いて退けた。
明らかな拒絶に、シズは驚きでヴァンを見つめる。
牙をむき出しに怒りをネストに向けたまま、自分を見ようとさえしないヴァンに、シズは酷く不安になる。彼が、本気で怒っているのだと分かったから。
「だ、駄目です。放っておけません」
「……ちっ、頭冷やして来る」
戸惑いながらも傷が心配で小さくそう言葉を返したシズに、ヴァンはネストから視線を外した。
机から飛び降りたヴァンは、シズに視線すら向けないまま玄関に向かい、防寒様の毛皮を乱暴に掴んで身体に纏って吹雪く外へと出て行ってしまう。
「まって、師匠!」
シズは慌てて追いかけたが、玄関の前まで来た所で、シズを追ってきたネストが彼女の肩を掴んで止めた。
「止めておきなさい。君の身体では凍死してしまうよ」
「でも、師匠が」
「大丈夫、どうせ僕が君に手を出さないか不安で、直ぐ戻って来るから。その間に、一緒に此処を片付けておこうか」
ヴァンを煽った張本人は、笑顔で床に散らばる夕食のなれの果てを指さした。
シズは戸惑いながらも、頷いてネストの言葉に従うことにした。




