第八十七話『真なる魔王の権能』
来る日も来る日も人と会う仕事ばかりで疲れて来た。
「フレデリカ様、大丈夫ですか?」
ミレーユがブルーベリージャムをたっぷり溶かした紅茶を運んで来てくれた。
「うん……。美味しい……」
人見知りではないつもりだったけれど、段々と初対面の相手に会う事が億劫になって来た。だけど、泣き言なんて言っていられない。アルはオレよりもずっと忙しく働いている。
そもそも、オレの仕事に責任や重圧なんて殆どない。なにしろ、ブロッサム侯爵のような例外もいたけれど、大抵の人達はオレに顔を覚えてもらいたがっているだけだ。その為の献上品だったり、礼賛の言葉だったりだ。
要するにオレはただ喜んでいるだけでいい。
「無理をするな」
ライが言った。
「アルヴィレオとお前は違う。彼は王としての資質を持つ者だ。同じように出来るわけが無いだろう」
「ライ!! 如何に御身と言えどもお嬢様に対し、そのような言い方は看過出来ません!!」
ライの言葉にオレが反応するより早く、アイリーンが激怒した。見ればミレーユも怒りの形相を浮かべている。
彼女達もライの正体を夜会の日に知った筈なのだけど、偉大なる勇者様だろうともオレを軽んじる事は我慢ならないという事らしい。
喧嘩はしないで欲しいけれど、オレの事を勇者よりも優先してくれる事が少し嬉しい。ライには申し訳ないと思うけど。
「事実を言っている。このまま無理を重ねるようならば遠からず崩れるぞ」
その言葉にアイリーンとミレーユは表情を強張らせた。
「オレは大丈夫だよ」
「無理だ。そして、崩れた場合だが、お前の想定以上に不味い事になるぞ」
「……不味い事?」
言い方が気になった。体調を崩して周囲に心配を掛ける事に対する小言ならば『不味い事』とは言わないと思う。
「前に言った事を覚えているな? メルカトナザレと遭遇した時の事だ」
疲れた頭でも彼が言わんとしている事が分かる。
その言葉を片時も忘れぬように心掛けて来た。
―――― お前の心が闇に染まれば魔王としての本性が目を覚ます。心を強く持て。
魔王の力の事を言っているのだ。オレが精神的に崩れた時、恐らくは不味い事が起こるのだろう。
今のところ、魔王の力はオレの意思に応えてくれている。だから、便利に使い過ぎてすっかり警戒を解いてしまっていた。
ここは元勇者の言葉に従った方が賢明だろう。
「……と言っても、仕事だからな」
遊びではないのだ。既に王族の一員として扱われているオレの一挙手一投足が巡り巡って人の生死にも関わってくる。
やりたくないからと言って、やめられるものではない。
「フレデリカ」
ライは屈み込んでオレに仮面越しの視線を合わせた。
「『自分より他人のことが大切なヤツってのは、実は誰よりも我儘なヤツなんだぜ』」
普段の彼よりも軽薄な口調だった。
「昔、俺を友と呼んでくれた男に掛けられた言葉だ。その言葉の意味を俺は長らく理解出来ずにいた。だが、お前を見ていて漸く理解出来た」
「……どういう意味?」
「お前は責任感が強い。がんばり屋でもある。それは美点だろう。だが、行き過ぎれば欠点になる。お前が国や他者を思い遣り、その為に自分を蔑ろにする事に苦悩する者がいる。哀しむ者や辛く思う者もいる。その事を理解する事だ」
オレはアイリーンとミレーユを見た。二人共、オレの事を心配してくれている。
それは嬉しいことだけど、心配とは不安と言い換える事も出来る言葉だ。不安は精神に負担を掛け、精神障害の原因となる場合もある。
「……でも」
それでもオレは次期王妃なのだ。アルとの婚約が発表された時からオレの心身はオレの物ではなくなっている。
オレはアルの物であり、王国の物だ。
「ライ。それでもです」
オレはキッパリと言った。
「わたくしは王家に嫁入りした者なのです。生まれながらの王族ではなく、自ら選んで王族の一員となった以上、わたくしは全てを公に捧げなければなりません。自分で選んでおいて、逃げる事など出来ません」
「……お前の婚約は親同士の間で決められたものだと聞いている」
「それでも最終的にアルの伴侶となる道を選んだのはわたくしです。嫌なら逃げれば良かったのですから」
レールが敷かれていた。けれど、そのレールに沿って歩んだのはオレ自身だ。
「公爵令嬢だったからだろう?」
「それは言い訳になどなりません。アガリア王国にとって、王家は何よりも大切な存在なのです。賢王の治世だからこその繁栄があり、安息がある。皇太子であるアルヴィレオ殿下に民は父王と変わらぬ、あるいはより良い治世を望んでいます。その伴侶となる者には彼を支え、王国の礎となる事が望まれています。その責務を途中で放棄するような者が王妃となるなど許される事ではありませんよ。その程度の覚悟ならば婚約が結ばれる前に死ねば良かったのです」
「……それは極論が過ぎるのではないか?」
「王妃は直接的、あるいは間接的に数千万の命に携わる重要な役職なのです。命は平等であり、わたくしの命と数千万の民の命ならば比べるまでもない。それでも生きる事を選んだのなら責務を全うしなければなりません。このアガリアの民の命に報いる為に」
ライは押し黙った。アイリーンとミレーユは何か言いたげだけど言葉を見つけられない様子だ。
「……とは言え、あなたのアドバイスを無碍には出来ません。自己管理が出来ていなかった事は反省致します」
魔王の力を暴走させるわけにはいかない。仕事をこなしつつ、心身を休ませる為に少し考えなければいけない。
「それに忙しいのはアザレア学園に入学するまでの事です。残り一ヶ月を切っているのですから乗り切ってみせますよ」
オレがそう言うとライは仮面の向こうでため息を零した。
『仕方がない』
いきなり脳裏に彼の声が響いた。《忠義の騎士》のスキルによる念話だ。
『言うべきか迷っていたが、お前は頑固過ぎる』
『頑固!? 頑固と言いましたか!?』
相変わらず、ライの言葉の切れ味は鋭過ぎる。
『……お前が保有している権能とアルトギアやネルゼルファーの権能は似ているようで違う』
『え? は?』
話の切り出し方が唐突過ぎる。オレは戸惑いながらも必死に彼の言葉を吟味した。
アルトギアはオズワルドの事だ。そして、ネルゼルファーと言えば七大魔王の一人だったと思う。
『ん? え? どういう事? 違うの!?』
『根本的に違うものだ。シャロンの権能は初代魔王の力を写したものであり、他の七大魔王の権能はシャロンの権能を写したものだからな』
驚いた。シャロンの権能と他の七大魔王の権能が別物などと考えた事は無かった。
『真なる魔王の権能には初代魔王の暴虐に対する人々の恐怖が刻み込まれている。お前の精神が崩れた時、その恐怖が具現化するだろう』
『……は?』
オレは耳を疑った。
「はぁぁぁぁぁ!?」
「お、お嬢様!?」
「どうされたのですか!?」
アイリーンとミレーユを驚かせてしまったけれど、それどころではない。
『ど、ど、どういう事だよ!?』
『そのままの意味だ。シャロンは自らの目的の為に初代魔王の力を求めた。そして、彼女の暴虐によって人類の魂に根付く初代魔王に対する恐怖が蘇り、それが一種の信仰となって魔王の権能を誕生させた。だが、シャロンが魔王の権能を行使し始めた事で人類にとっての魔王はシャロンを指す言葉となった。結果、他の魔王はシャロンを想起させる存在として認知され、魔王の権能を得るに至った』
認知の変化による権能の変化の例は幾つもある。その最たるものが勇者の権能だ。勇者の権能は聖剣と共にあり、その担い手が変わる度に変化を遂げて来た。
魔王の権能に対する大衆の認知の変化をオレは完全に見落としていた。
七大魔王と一括りにする事自体が間違いだったわけだ。シャロンが魔王になった時、世界は決定的に変化した。
『人類が心の奥底に抱く初代魔王への恐怖。それが如何なる形で具現化するかは分からない』
けれど、想像は出来る。脳裏に浮かぶのは強大な力によって滅ぼされたアガリア王国の惨状だ。
ライや他の英雄達がきっと止めてくれるだろう。だけど、その間に少ない数の人が死んでしまう。
『お前がお前であり続ける限りは問題ない。憎悪や憤怒を抱こうが、それがお前自身の感情ならば権能は大人しくお前に従うだろう。だが、お前の精神が崩れ、自我に亀裂が入れば暴走が始まる』
『……なんで、黙ってた?』
オレはライを睨みつけた。
『話した所で重荷にしかならない。お前の精神を追い詰めるだけだ』
確かに精神の安定以外に明確な解決法がない以上、わざわざ精神を乱しかねない話をする意味はない。
それでも話したのはオレが彼の言う事を聞かなかったからだろう。
壊れると分かっていても止まらない。だから、壊れた結果がどうなるかを教えるしかなかったわけだ。
―――― お前の想定以上に不味い事になるぞ。
彼は警告してくれていた。それでも止まれなかったのだから頑固者と言われても仕方がない。
「……わかりました」
深く息を吐いた。
「ミレーユ」
「は、はい!」
彼女の顔には困惑の色が広がっていた。
「……今、わたくしはライと念話で会話を行っていました。それでその……、前言を撤回します。少し、仕事のペースを緩めたいのですがスケジュールの変更を頼めますか?」
「もちろんで御座います!!」
彼女は即答してくれた。
実の所、彼女から何度もスケジュールを減らすべきだと忠告を受けていた。それを無視し続けていたのにライの言葉で意見を翻した形になる。不満を抱かれないか不安があったから少し安心した。
「……ただ、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
「念話とは一体……?」
念話は一般的なものではない。魔王の権能を含めて、複数の権能を保有しているオレでもライやアイリーン以外とは念話を繋ぐ事が出来ない。だからこそ、彼女は首を傾げている。
オレはライやアイリーンと《忠義の騎士》というスキルによって繋がっている事を明かすことにした。
既に彼女はライの正体を知っているけれど、その事を吹聴せず、ライやオレに対する態度を変える事もなかった。
オレは彼女を信頼している。ならばこそ、隠し事は極力無くすべきだろう。そもそも、別に隠しているわけでもないわけだし。
「……フレデリカ様」
オレが話し終えるとミレーユは渋い表情を浮かべていた。
「わ、わたくしにも永遠の忠誠を誓わせてください!!」
「……ミレーユ。《忠義の騎士》にはデメリットがあります。あなたの肉体が今とは違うものに変わってしまう恐れがありますし、わたくしの為でなければ力を振るう事が出来なくなるのです。その事を踏まえて慎重に考えて下さい」
「わたくしの考えは変わりません! わたくしはフレデリカ様に忠誠を誓っております! この体だって、その為だけに鍛えてきました!! 勉強だって、他の事だって全部!! わたくしにとって、フレデリカ様が全てなのです!! その為だけの人生なのです!!」
ミレーユの言葉にオレは言葉を失った。彼女は次期王妃の使用人となる事を定められた時から努力を重ねていた。だからこそ、オレがアイリーンを連れて来た事に不満を抱いた。
その努力をオレは甘く見過ぎていた。その肉体を見れば分かる筈なのに深く考えてこなかった。
まるで男性のような頑強な肉体だ。女性として生きる事を諦め、武人として生きる事を選ばなければ得られぬ筈の屈強過ぎる筋肉は彼女の覚悟の現れだった。
「ミレーユ。わたくしに忠誠を誓ってくれますか?」
「もちろんです!! もちろんでございます!!」
その瞬間、彼女の肉体が光に包まれた。アイリーンの時と同じだ。《忠義の騎士》のスキルが発現し、彼女の肉体を最適化していく。
光が薄れていくと彼女の肉体もアイリーンの時と同様に細くなっていた。それが少し寂しかった。オレを守る為に鍛えてくれた筋肉が失われてしまったのだ。
光は彼女を離れ、一本の槍を生み出した。アイリーンの時は黒い剣だったけれど、彼女のは白の槍だった。よく見ると蛇が巻き付いているような彫刻が施されている。
「……これがわたくし」
彼女はぶかぶかになったメイド服から覗く自らの体を見て目を丸くしている。
「大丈夫? ミレーユ」
「は、はい! もちろんでございます! 我儘を聞いてくださり、誠にありがとうございます!」
彼女が勢いよく頭を下げるとそのままメイド服が脱げてしまった。
背後でライがむせた。
「……ライ。一度部屋を出ていてもらえますか?」
「あ、ああ!」
ライは慌てたように部屋を飛び出していった。
普段は超然としている彼のらしくない姿にオレは吹き出しかけた。見ればミレーユも笑いを堪えている様子だ。
「アイリーン。ミレーユに新しいメイド服を用意してあげてくれる?」
「はい、お嬢様」
アイリーンもちょっと笑ってる。
「ライは意外と女性に免疫がないようですね」
「みたいだな」
「ちょっと意外な反応でしたね」
オレ達はさっきのライの反応を思い返して肩を震わせあった。




