第八十二話『社会構造』
ヴァネッサと再会を喜び合っていると扉をノックする音が聞こえてきた。
「失礼致します」
ノックの後に入って来たのは気弱そうな男だった。
彼はヴァネッサとオレを見て気まずそうな表情を浮かべている。
「お嬢様。彼がわたくしの夫であり、ヴィルマ子爵家の当主であるオーランドです」
「お、お初にお目にかかります、フレデリカ様。わたくしはオーランド・ヴィルマで御座います。こ、この度はわたくし共の為に御時間を頂き誠に感謝申し上げます!」
緊張している様子だ。相手は子爵。爵位の中では男爵に次いで低い。
王宮に来る事はあっても、直接王族と言葉を交わす機会は少ないのだろう。
オレはヴァネッサから離れて彼と向き合った。
「ようこそお越しくださいました、ヴィルマ子爵。お待たせしてしまい、誠に申し訳ありません」
「と、とんでも御座いません! 妻がどうしてもフレデリカ様にお会いしたいと申しましたもので、無礼を承知ながらその……」
「ヴァネッサには以前とても良くして頂きました。再会の機会と言葉を交わす時間を下さった事、とても有り難く思います。彼女が良い方と結ばれた事をとても嬉しく思いますわ」
オレは彼の手を取った。
「月の花につきましても御礼を申し上げたく思います」
「あっ、いえその……、きょ、恐縮に御座います」
若干震えている。その様子をヴァネッサは愛おしそうに見つめている。
夫婦仲がいい事は良い事だ。
オーランドもカルネ伯爵ほどではないけれど、とても多くの献上品を運んで来てくれた。
花だけではなく、オレが好きな果物や野菜の種は鉢植えまであった。どうやらヴァネッサが混ぜてくれたらしい。さすがだ。彼女はオレの事をしっかり分かってくれている。
「ありがとう、ヴァネッサ!」
「うふふ、お嬢様が一番欲しい物をわたくしは確りと存じ上げておりますもの!」
素晴らしい。拍手を送っておこう。
「ヴァネッサ! 庭園見に来てよ!」
「はいはい! お嬢様の渾身の力作、たーんと見せて頂きますよ!」
「へっへー! 凄いんだぜー!」
ヴァネッサと話していると公爵領に居た頃を思い出す。
彼女と出会ったのは7歳の時だった。貴族とダンスは切っても切れない関係にあり、他の基礎科目と同様に淑女の教育が始まる前から家庭教師がつけられていて、それが彼女だった。
もっとも、最初の頃はお遊戯感覚だった。ヴァネッサがピアノを弾いて、オレが思うままに踊る。それだけの時間だった。
ヴァネッサはよく褒めてくれた。だから、楽しかった。恐らく、ダンスに対して苦手意識を持たせない為の彼女なりの工夫だったのだろうと思う。
おかげで夜会でもぶっつけ本番だったのに上手く踊る事が出来た。
「ここだよ!」
コツコツと頑張って作り上げた庭園をヴァネッサに見せられる。すごく嬉しい。
「まあまあ! とっても素敵ではありませんか! さすがはお嬢様ですね!」
「むふー!」
ヴァネッサの手を掴んで、オレは庭園中を駆け回った。
「この花、シェリーが最初に教えてくれたヤツなんだ! こっちのも!」
「……素敵ですね」
「うん!」
ヴァネッサと過ごしていると時間を忘れそうになった。そして、ここにはオレ達以外の人間もいる事が頭からすっかり抜け落ちていた。
オーランドの存在に気づいた時、オレは青褪めた。
途中から思いっ切り素を出してしまっていた。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
するとヴァネッサが言った。
「途中から主人の耳に音声遮断魔法を掛けてましたから」
「そうなの!?」
ヴァネッサはオレの性格を知り尽くしている。不味いと分かっていても、昔の感覚で話してしまう事もあるだろうと考えて対策を練っていたらしい。
「主人にはお嬢様とプライベートの事も話すかもしれないからと了承を得ております」
「そ、そうなの? よく了承してくれたね……」
オーランドはビクビクしながら視線を彷徨わせている。
何も聞こえていない状況というのは相当なストレスである筈だ。
「だって、お嬢様は今や王族の一人ですよ? そんなやんごとなき御方のプライベートなんて、うっかり聞いてしまったら大問題になる可能性もありますからね」
なるほど、立場の違い故というものらしい。子爵の立場でうっかり王家の秘密なんてものを知ってしまった日には大変だ。
その秘密を利用出来る悪辣さがあるなら別だけど、そうでなければ負担にしかならない。
「……オレのプライベートを聞いて問題になる事ってあるかな?」
「今まさに」
そうだった。オレの素の性格を知られるのは不味い。
「……安心しました」
「ヴァネッサ?」
ヴァネッサは微笑んだ。
「正直、お嬢様と会うのが怖くもあったのです。王宮で過ごす内にお嬢様が変わってしまうのではないかと……」
「……アルがオレを認めてくれたからだよ」
目の前には月の花があり、その隣にはカレンデュラが並んでいる。太陽の花とも呼ばれている花だ。
その花を見つめながらオレはヴァネッサに言った。
「この後、ブロッサム侯爵に会うの」
「……シェリーの父君ですね?」
「うん」
ヴァネッサは家庭教師同士、シェリーと交流があった。
もしかしたら、離れていた数年の間にシェリーの動向を何か掴めているかもしれないという期待も篭めて彼女を見た。
「お嬢様。ブロッサム侯爵はあまり良い噂を聞きません」
「……どういう意味?」
「当主であるローガン・ブロッサム侯爵は女癖が悪く、腹違いの娘が十八人もいるのです」
「じゅ、十八人!?」
尋常ではない数だ。腹違いという事は母親が全員違うという事だろう。女癖が悪いにも程がある。
「愛妾を抱える貴族は少なくありません。しかし、それでも多過ぎます。恐らく、そのような家で育ったからシェリーは……」
シェリーが抱えていた闇の一端が分かった気がする。
愛妾を持つ事自体は罪じゃない。アガリア王国は平和だから実感が湧き難いけれど、この世界は前世の世界と比較にならないほど危険だ。なにしろ、魔獣がいる。天変地異の規模も大きい。英雄クラスの存在が己の欲望の為に暴れまわる事もある。
あまり考えたくない事だけど、後継者を失う可能性が低くないのだ。だから、子供は二人以上が望ましいとされている。ただ、出産は当然だけど身体に負担が大きい。必ず二人以上産めるわけではない。その為、愛妾を持つ事を禁止する法律は無いわけだ。
問題はそこに必ずしも愛があるわけではない事だ。オレもだけど、貴族の令嬢に選択権など存在しない。親が相手を決めて、その相手に嫁ぐわけだ。その相手が愛妾を求めていた場合、愛妾として尽くさなければいけなくなる。
親父もいつか言っていた。
―――― 息子が生まれた時は後継者が生まれた事を喜び、娘が生まれた時は有用な駒が手に入ったと喜べ。
爵位が上の相手の機嫌を取るためだったり、金銭などの見返りを得る為に娘を嫁がせる。それが当たり前の事として横行している。
オレは相手がアルだったから良かったけれど、人によっては父どころか祖父程も歳の離れた相手の愛妾にされる者もいると聞く。
さすがのオレもそうなっていたら全力で逃げ出していたと思う。魔王再臨を使えていたら遠慮なく使っていた気がする。
「……ほんと、オレは恵まれてるよ」
もちろん、妻や愛妾となった女性を虐げれば罪に問われる。
愛妾を持つ事自体は合法だけど、その為にはいくつものルールを厳守する必要がある。どれか一つでも破れば投獄される可能性もある。
そのルールを幾つも破ってしまったのがアナスタシアの奴隷くんだったりする。彼はある女性にとてもとても酷い事をした。口に出す事すら憚れるような事をした。
とは言え、こういう社会システムは是正するべきだという声はそれなりに上がっている。それでも法律が変わらなかった事には幾つかの理由がある。
まず一つは歴史が深過ぎる点だ。
アガリア王国建国当時、世界は混乱の渦中にあった。なにしろ、初代魔王が暴れ回った直後だからだ。
明日をも知れぬ日々を過ごしていた当時の人々は未来に希望を託す為に最も効率的な方法を取った。
人類の生存圏を男達は決死で守り、女達はそこで子を生み育てた。男が生まれれば最低限鍛え上げた後は戦場へ送り、女が生まれれば適齢となった時点で子を産ませる。
倫理的とはとても言えない環境だったけれど、そうしなければ人類が滅びてしまっていたのだ。
その構造をオルネウス王は完全に撤廃する事が出来なかった。あまりにもそれが当然の事過ぎた為だ。
それ以降も二代目魔王や七大魔王を筆頭に様々な驚異が人類に襲い掛かった事で変革の機を逸してきた。
そうして歴史を積み重ねていってしまったが為に変化を厭う者達が変革を拒んでいる事が二つ目の理由だ。
頑固とは責められない。変革には混乱が付き物であり、それは国力の低下を招き、引いては国防力の低下に繋がりかねない。そこまで見通せてしまうからこそ安定を望む者も多い。
それでも変革を望む声が増えた理由の背景にはオズワルドの結界がある。アガリア王国から魔獣や天変地異による驚異が取り除かれた事で人々は安心したのだ。
それは決して悪い事ではない。変革を求める者達の出現も国をより良くしていく為には必要だ。けれど、今の平穏はあくまでもオズワルドの存在があってこそのものであり、彼を失えば平穏はアッサリと崩れ去る。
ならば、オズワルドが存命の内に変革してしまえばいいと考えるかもしれないけれど、それも難しい。
変革による国防力の低下はオズワルドの喪失に繋がる可能性を秘めているからだ。勇者が存命であればまた違っていたかもしれないけれど、対外的には勇者亡き今、表には出さずとも他国はこぞってオズワルドの身柄を手に入れようと企んでいる。それこそ、人間同士の戦争状態に陥る可能性が高いのだ。
凝り固まった社会構造の変革は一朝一夕で出来るものではなく、反発する者の事も踏まえて慎重に事を運ぶ必要がある。
そういった事情が無ければ慈悲深いネルギウス王が解決の為に動かないわけがない。
シェリーはきっと分かっていた。それでも諦めきれなくて、一縷の希望をオレに託そうとしたのだろう。
「シェリーに会いたいな」
「……ブロッサム侯爵領の夜会に幾度か参加した事がありますが、シェリーの姿を見つけられた事は一度もありませんでした」
ヴァネッサは暗い表情を浮かべながら呟いた。きっと、彼女もシェリーに会いたかったのだろう。
「どんな話になるか分からないけど、取っ掛かりくらいは見つけてくるよ」
そろそろ時間だ。オレはヴァネッサとずっと魔法で耳栓をされていたオーランドを連れて庭園を後にした。
ずっとほったらかしにしてしまっていたのに彼は一切怒らず、早口で庭園の改善点や献上品の中で庭園に似合う花を教えてくれた。
オレはヴァネッサが良い人と結ばれて改めてホッとした。
そして、ヴァネッサとの別れを惜しみつつ、ブロッサム侯爵を待ち受けた。
「お初にお目にかかります、フレデリカ・ヴァレンタイン様」
現れたのは予想を裏切る真面目そうな男だった。




