第七十五話『過去に背を向けて』
誰かの悲鳴が聞こえた。
まだ日が沈んだばかりだというのに静まり返っている商店街を駆け抜けて行く。
獣の匂いが風に乗って流れて来た。匂いを辿りながら脇道に入り、路地を進んでいく。
悲鳴が途絶えた。獣の匂いに血の匂いが混じり込む。
「……間に合わなかった」
辿り着いた時、そこは血の海だった。あと数分早く辿り着けていれば助けられた筈の人の残骸が四方に散らばっている。
その惨状を作り上げたのは一匹の獣だった。真っ赤に染め上げた口元を歪ませている。まるで嗤っているかのようだ。
その獣の名前をオレは知っている。ベルーガーという狼に似た魔獣だ。
―――― なんだ、これ……。
ベルーガーが襲い掛かってくる。鋭い牙をオレの体に突き立てようと口を開く。その顎を異形の腕で突き上げる。
冗談のような光景だ。ダンプカーのような巨体が吹っ飛んでいく。地面に激突すると周囲に振動が走り、地面には幾筋もの亀裂が出来た。
音も相応に大きく鳴り響いた。それなのに周囲の民家の明かりが灯る事はなく、辺りは静まり返っている。
「終わりだ……」
真紅の光が異形の手に集まっていく。
「『ブラッド・ジャベリン』」
光は槍の形となり、投げ放つと真っ直ぐにベルーガーの脳天を貫いた。
そして、反対側から飛び出る事もなく、ブラッド・ジャベリンはベルーガーの体内で無数の棘となった。
命を刈り取る感触は何度経験しても慣れるものではなかった。
それが人を殺した怪物であっても、命である事に変わりはない。それを奪うオレもやはり怪物だ。
「……終わったのか?」
変身を解くと物陰から一人の男が現れた。一見すると不良にしか見えない厳つい出で立ちをしている。けれど、その正体は推しのアイドルに人生を捧げている重度なドルオタだ。
彼は周囲の惨状を悲しげに見つめながらいつものように馴染みの刑事に電話を掛けた。
「あっ、赤羽さんッスか? 俺です。アレが出ました」
戦いが終わるとオレは疲れ果てて何も出来なくなるから後始末は彼任せになっている。
申し訳ないと思うけど、謝ると彼は怒る。
「よし、ずらかるぜ」
「……うん」
オレ達は惨状を後にした。遠くからはサイレンの音が聞こえてくる。だけど、相変わらず街に明かりが灯る事はなかった。
そこに獲物がいる事を奴等に悟られない為だ。
「……いつ、終わるのかな」
「分からねぇ……」
そして、オレ達はアイドルのコンサートに向かった。
―――― は?
突然、風景が変わった。ステージの上でアイドルの結崎蘭子が歌いながら踊っている。
隣では播磨周平が渾身のオタ芸ダンスを披露している。
「なんでだよ!?」
飛び起きた。
「……ん? あれ!?」
そこは見知らぬ場所だった。
「え? ここ、どこ……?」
辺りをキョロキョロ見回すと隣に誰かが眠っていた。
「え?」
一瞬、頭が真っ白になった。そこには女の子がいたからだ。
これまでの人生の中で男と一緒に寝た事はあっても、女と一緒に寝た事は一度も無かった。
「……って、そうだった」
一瞬パニックを起こし掛けたけれど、それでようやく目が覚めた。
奇妙な夢のせいで記憶が混濁してしまっていたけれど、徐々に昨夜の事を思い出し始めた。
塔の上で泣き叫んでいたオレとエルフランは駆け付けてくれたライとアイリーンに部屋へ運ばれたのだ。
そのまま泣きつかれて眠ってしまったわけだ。
「凪咲……」
眠っている彼女の頬に触れる。
そこに彼女がいる事を実感すると、また涙が溢れ出しそうになった。
「……ん、んん?」
「起きたか?」
「え……?」
よだれを垂らしながら寝ぼけ眼を向けてくる。折角の可愛い顔が台無しだ。
「おはよう」
「……おはよう」
まだ目が覚め切っていないようだ。
トロンとした目を泳がせている。
「なんか、夢見てた……」
「夢って?」
「……海だと思う。海で……、誰かと一緒に……、砂でお城作ってるの……わたし、海まで引っ張って……、なんか砂に埋まってる人を踏んづけてた」
「あったなー……」
かなり朧気だけど、凪咲達と海へ行った事がある。オレはあまり泳げないから砂浜で城を築いていた。
あとちょっとで完成だったのに凪咲がむくれてオレの手を引っ張った。その途中で埋められていた播磨を踏んづけてしまったのだ。
その姿を見て爆笑している龍平の姿が今も記憶に残っている。
「思い出したのか?」
「……ううん。名前も顔も分からなかった……。でも、わたしは楽しかったんだと思う」
彼女は不安そうにオレを見た。
「ねえ、わたしは記憶を取り戻してもいいの?」
「……思い出すのが怖いのか?」
「うん。怖いの……」
瞳を揺らしながら彼女は言った。
「わたしは自分が何者なのか知るのが怖いの」
「……そっか」
彼女が何者なのか、正直に言うと分からない。
オレは生まれ変わる寸前の記憶を持っていない。ただ、漠然と高校生だった頃の記憶が残っている。
凪咲とオレは同い年だ。ならば、凪咲も高校生だった筈だ。それなのに、今の彼女はどう見ても高校生には見えない。あまりにも顔立ちが幼過ぎる。
それに、彼女は紛れもなくエルフラン・ウィオルネだ。獣王ヴァイクに懐かれていたり、アンゼロッテに保護されていたり、アルヴィレオとエリンで出会ったり、ゲームの主人公と同じ道を歩んでいる。
なにより、彼女は『英雄再演』のスキルを持っている。
ゲームでは英雄の加護を帯びた謎の聖女的な存在として、実にふわふわな感じの扱いだった。結局、明確な説明がないままふわふわのまま何処かへ飛んで行ってしまった。
けれど、これまでの経験から言って、ゲームだからと流して考えてはいけないと思う。彼女が英雄再演を使える事には何らかの理由がある。
そこにエルフラン・ウィオルネの正体を探る手がかりがあると思う。そして、凪咲がここにいる真相にも繋がってくると思う。
少なくとも、オレが知る甘崎凪咲がエルフラン・ウィオルネになる過程にはオレの知らない何かがあった筈なのだ。
「……凪咲って、わたしの名前なの?」
彼女は不安そうな表情を浮かべている。その不安を拭い去ってあげたい。
だけど、記憶を取り戻させる事が彼女にとって本当に良い事なのかが分からない。
オレの知らない過程に何があったのかが分からないし、仮に何も無かったとしても彼女は現状を知る事となってしまう。
オレ以外には親も知り合いも誰もいない世界に迷い込み、もう二度と元の世界には帰れないかもしれない事実を……。
「エルフラン」
オレは彼女を抱きしめた。オレが兄貴やアルにしてもらって、一番安心させてもらえた事だからだ。
「フレデリカちゃん……?」
「無理に思い出さなくていい。ただ、オレと君は友達だった。オレにとって、君はすごく、すごく大事な存在だった。だから、オレは君に幸せでいて欲しい。過去を思い出す事が君にとって必ずしも幸福とは限らない。今が幸せだと思うなら、オレは……」
凪咲にオレの事を思い出して貰えなくても構わない。
羽川祐希としてではなくても、フレデリカ・ヴァレンタインとして友達になれればそれ以上は望まない。
「……わたくしはあなたとお友達でいたい。どうか、それをお許し頂けませんか? エルフラン」
「フレデリカちゃん……」
彼女の声は震えていた。
「……わたし、今が幸せなの。アンゼロッテとヴァイクがいる迷いの森での生活が本当に……、本当に幸せなの」
彼女は鼻を啜りながら言った。
「でも……、でもね? わたし、あなたの事が好きなの! わたしにとっても、すごく大事なの! だから……、あなたの事を思い出したいの……」
そんな事を言われてしまったら、何もかも打ち明けたくなってしまう。
だけど、オレが十年近くも掛けてようやく乗り越えられた孤独感を彼女に味わわせるのはあまりにも辛い。
「……昔のオレではなく、今のわたくしではいけませんか?」
オレはそう問い掛けた。
「今の……?」
「正直に言いまして、今のわたくしは嘗てと比べて少々……いえ、大分……、かなり……、変わりましたもので……。むしろ、思い出すとギクシャクする事になるかもしれません」
「そ、そう言えば、さっきまで口調がなんか男の子っぽかったよね。な、なるほど、イメチェンした感じ……?」
「イメチェン……? う、うーん、まあ、そう言えなくもない……? 公爵令嬢として、色々教育を受けましたからね……」
「……そっか」
エルフランは小さく鼻を啜った。
「ねえ、フリッカって呼んでもいい?」
「構いません。では、わたくしもエルと呼んでも?」
「もちろん、オッケー!」
オレは彼女を離した。お互いに見つめ合いながら色々な感情を呑み込んだ。
「エル。一つだけお願いしたい事があるのですが、構いませんか?」
「なに?」
「笑って欲しいんです。あなたの笑顔を見たいんです……、どうか」
彼女とこの世界で再会してから、一度も彼女の笑顔を見れていない。
あの天真爛漫な笑顔が見たい。
「……いいけど、一つ条件があるよ」
「なに?」
「フリッカの笑顔も見せてよ」
オレは笑った。彼女も笑った。
その笑顔が泣きたくなる程嬉しかった。
彼女と一緒に海へ行った。
彼女と一緒に山へ行った。
彼女と一緒に遊園地へ行った。
彼女と一緒にプールへ行った。
彼女と一緒に田舎のお婆ちゃんの家に行った。
彼女と一緒に龍平の試合を応援に行った。
彼女と一緒に図書館で勉強した。
彼女と一緒にゲームで遊んだ。
彼女と一緒にお菓子作りにチャレンジした。
何度も何度も遊んだ。そこには龍平がいたり、播磨がいたり、他の友達がいた。
その過去に背中を向ける。
今の彼女と今のオレ。違う世界で新しい道を一緒に歩き出す。
過去の記憶はきっと彼女を傷つける。だから、もう振り返らない。
「フリッカ、大好き」
「エル、大好きです」
ここに居るのはフレデリカ・ヴァレンタインとエルフラン・ウィオルネなのだから。




