第六十九話『狂鬼』
王宮専属魔法使いであるオズワルド・アガリアは王都の上空にいた。彼の眼前には翼を翻す一匹の竜がいる。
『久しいな、アルトギアよ』
「……オズワルドです。まったく、長命の者は……」
やれやれと困ったように肩を竦めて見せるオズワルドに竜王の子であるメサイアは首を傾げた。
『我には良く分からぬ。不快であったのならば謝罪しよう』
「いえいえ……。ただ、他の者の前ではオズワルドとお呼びください」
『承知した。ところで、我に何用だ?』
「……メサイア。一応、わたくしの結界であなたの存在を隠していますが、このまま王都の上空で滞空されるのは非常に困るのです」
『何故だ? 何も破壊する気はないぞ』
「そういう問題ではありません。竜王と獣王に続き、今度は竜王の息子。民が怯えてしまいます。臣民の混乱は国力の低下を齎し、それは牙を研ぎ澄ませる獣を目覚めさせかねない。戦乱の世はあなたも望まぬ筈でしょう?」
『無論だ。レオが悲しむ』
オズワルドは安堵の息を零した。嘗て、メサイアは二代目勇者レオ・イルティネスと行動を共にしていた時期がある。
レオを愛したメサイアは人類と敵対する事を望まず、レオが愛した世界の破滅を望まない。
「ならば、どうか竜王山脈に御戻り下さい」
『言われずとも長居はせぬ。だが、我は姉上を見定めねばならぬ』
「……彼女は勇者の力に目覚めています。メルカトナザレの懸念を解消するにはそれだけで十分な筈では?」
『勇者の事は信じている。だが、聖剣は別だ』
「聖剣が誤った者を担い手に選んだ事はありません。ただの一度も……」
『オズワルドよ。貴様は誰よりも深く理解している筈だぞ。アレを生み出した者の一人として』
「……言わんとしている事は分かります。聖剣の選別は権能によるもの。権能は信仰によって形を変える。王者の剣は救世主の剣となり、神の剣となり、勇者の剣となった。しかし、それ故にこそ聖剣の選別に誤りなど無いのですよ! 人々が求める理想。偉大なる王。それこそがラミタルアの願いなのですから」
『如何に聖女の願いが尊きものであろうと、聖剣の選別を盲信する事は出来ぬ』
オズワルドは顔を顰めた。対処するべき存在はメサイアだけではないのだ。
アザレアの西に聳える霊峰アルヴァドの丘には破壊神アンゼロッテと獣王ヴァイクがいる。
エルフラン・ウィオルネを見守るためだ。彼らの存在を隠蔽する為にオズワルドは大きくリソースを削がなければならなかった。
―――― 貴様の所の皇太子の望みを叶えてやるんだ。ありがたく思え、アルトギア。
そう言って、獣王ヴァイクを連れて行く旨の手紙を送って来たアンゼロッテにオズワルドは顔を大きく引き攣らせたものだ。
「ならば、如何するおつもりですか?」
『一人、使えそうな者がいる。取り繕っているが、アレは鬼子だ』
一匹と一人の眼下にはアザレア学園がある。メサイアの瞳は魔法による防壁や物理的な壁をすり抜け、その先で夜会を楽しむ参加者達の様子を映している。
その中に一匹の鬼が紛れ込んでいた。
「……彼女をフレデリカにぶつけると?」
『そうだ。姉上がどのように対処するのか、その如何によって見定めるのだ』
「まだ十二に満たぬ子供ですよ?」
『それがどうしたと言うのだ?』
オズワルドは深く息を吐いた。相手は人の言葉を操る事が出来る。けれど、人ではない。
子供を操る事や少女同士を戦わせる事に忌避感など欠片も抱いていない。
トカゲ相手に人間の倫理や論理を求める方がどうかしている。
「……まったく」
戦闘になればメサイアの存在を隠し切れなくなる。そして、オズワルドが全力を出し尽くしたとしてもメサイアを打倒する事は難しく、打倒出来てしまえば竜王の怒りを招く事になる。加えて、その状況下で獣王に掛けた隠蔽を維持出来る保証はない。
言葉による説得が通じない以上、アガリア王国の平穏の為にはメサイアの蛮行を受け入れる他ない。
オズワルドはやむなく思考を切り替える事にした。
いずれにしてもフレデリカの力を試す必要があった。剣聖の弟子ならば試金石として申し分ない。
事後処理が大変な事になりそうだが仕方がない。
「承知致しました。でしたら、わたくしが手を回しましょう。メサイア。あなたはここで見ていて下さい。フレデリカ・ヴァレンタイン。魔王と勇者の力を併せ持つ者の真髄を……」
◆
現れた少女が向けてくる敵意に体が自然と反応した。
まるで何度も繰り返して来たかのようにオレは魔王再臨で竜姫シャロンに変身していた。
「クソッ」
迫り来る二振りの刃から逃れる為に窓へ向かって跳躍し、そのまま窓を破って翼を広げる。
空へ逃げれば早々追いかけて来れない筈だ。その間に対処法を考えなければいけない。
「って、まさか!?」
キャロライン・スティルマグナスは躊躇いなく窓の外へ飛び出して来た。オレの部屋はそれなりに高い場所にある。落ちたら死んでしまう。
慌てて手を伸ばそうとしたら、彼女は空中を蹴った。
「なっ!?」
一瞬で距離を詰められてしまった。蹴るべき壁や地面はなく、翼をはためかせても回避が間に合わない。
事ここに至り、ようやくオレは殺されそうになっている事を悟った。
―――― ブラッド・シールド!
兎にも角にも防がねばと考えた瞬間、真紅の盾が現れた。
けれど、悪寒が走り、慌てて真下に飛んだ。するとキャロラインの刀はブラッド・シールドを豆腐のように斬り裂き、一瞬遅れていたら胴体を両断されていた。間に合ったのは真下に逃げ場があったからだ。
このままだとマズい。相手は英雄クラス。そうじゃなくても戦闘なんて初めての経験だ。生まれ変わる前の経験を足しても、殴り合いの喧嘩すら殆どした事がない。
そもそも、相手は異国からの留学生だ。しかも、カルバドル帝国から来ている。これが外交問題に発展して、万が一にも帝国と王国が戦争状態になる事があれば、それは世界大戦の引き金にも成りかねない。
それぞれの大陸で最大の国力を持つ国の次期王妃と剣聖の弟子の武力衝突はそういう可能性を秘めているのだ。どちらの立場も国の威信に関わる重要な地位故に。
それを理解した上で襲い掛かって来たのか、理解しないまま襲い掛かって来たのかで対処の仕方も変えなければならない。
「とりあえず距離を――――ッ!?」
兎にも角にも距離を取らなければマズいと判断した瞬間、キャロラインは空中を蹴り、学園の壁を蹴り、まるでピンボールの玉のような勢いで回り込んで来た。
もう既に次の攻撃を開始している。さっきは停止状態だったから回避が間に合った。だけど、今は向かい合った状態で互いに加速状態にある。おまけにキャロラインは真下から迫り来ている。さっきは重力を利用して加速出来た。だけど、今度は重力に逆らわなければいけない。今度こそ回避は不可能だ。
このままでは死ぬ。死んでしまう。オレが死ねば、それこそ取り返しがつかない。
アガリア王国は竜王襲来事件の時に勇者の召喚を行った件で国際的な信頼を失っている。その後の獣王事変で国民は国の安全保障に懸念を抱いてしまった。この状況下で次期王妃を異国の人間に殺害されたら黙っている事など出来ない。それが世界大戦の引き金になると分かっていても、黙っていれば今度こそ国の威信が地に落ちる。アガリア王国が専守防衛の意思を掲げても、他国は挙って王国に侵攻して来るだろう。
現在、勇者は存在しない事になっているのだ。実際、ゼノンは勇者の力を失っている。だからこそ、各国は躍起になって英雄クラスの人間を囲い込もうとしている。
アガリア王国にはオズワルド猊下がいる。加えて、エルフランやアンゼロッテの存在も既に露見してしまっている。彼らを手に入れる為ならば戦争も止む無しと考える国は少なくない筈だ。
だから、オレは死ねない。オレが死ねば助かる命があるのなら考えるが、今回はオレの死が無数の死に繋がってしまう。そんな事を認めるわけにはいかない。
「ここはアルの国だ!! 誰にも壊させない!!」
両手に刃が現れた。キャロラインが握っている物と似ている。刀だ。
しかし、いつもの『ブラッド』と付くスキルではない。刀身は鮮血の如く紅いけれど、その柄は黒く、魔力ではなく物質だった。
その二振りの刀の正体をオレは知らない。スキルを使う時、脳裏に響く声も聞こえなかった。だけど、今はどうでもいい。
刀はさっきのブラッド・シールドとは違い、キャロラインの斬撃を確りと受け止めてくれた。罅の一つも入らず、堅牢な盾としてオレの命を守ってくれた。
「……延頸挙踵。漸く、抜いたな!!」
キャロラインは嗤った。その笑顔があまりにも狂気に満ちていて、オレは慌てて翼をはためかせた。
一度防げた程度で安心している場合ではない。余計な思考は挟まず、全速力で飛ぶ。
「『魔王の権能』」
目の前にゲートを開き、その中に飛び込んだ瞬間に閉じる。
そこはアザレア学園にある7つの塔の一つ。一度キャロラインの視界から外れる必要があると思ったからだ。
「ここは教室か?」
机や椅子、黒板がある。いつか生徒として使う事もあるのかもしれない。
そんな事を考える程度に余裕を取り戻せた。
「……さて、どうするか」
このまま逃げてしまうのも手だ。オレはそもそも戦闘を行っていい立場じゃない。相手は英雄クラスだけど、オズワルドならば止められる筈だ。
けれど、懸念もある。この状況下でオズワルドが現れていない以上、彼の方でも何かが起きている可能性がある。彼ならばオレが魔王再臨を発動した時点で気付けている筈だからだ。
加えて、キャロラインの狂いっぷりだ。あの様子は尋常じゃない。今はオレにターゲットを絞っているが、オレが逃げたらターゲットを変える可能性もある。
「ライを頼るのは気が引けるし……」
一番確実な手段はライに助けてもらう事だ。
今夜はアルともしかするともしかするかもしれないからと警備の任務についている王宮騎士団に彼を押し付けてしまったけれど、オレ達の間には契約で結ばれた見えない糸が繋がっている。その糸を辿れば、彼を召喚する事が可能だ。
だけど、彼はもう勇者じゃない。折角、長く続いた戦いの日々から解放されたというのに、オレの為に戦場へ戻すのは……。
「……それに気になる事もある」
キャロラインの凶行は常軌を逸し過ぎている。確かに初対面の時から妙な子ではあった。けれど、何の切っ掛けもなく狂い出して次期王妃に襲い掛かってくるような者をネルギウス王が引き入れるとは思えない。
誰かの陰謀によって紛れ込んだという可能性もあり得ない。今夜の夜会はアルとオレの為のものだ。その為、参加者は陛下が直々に選別している。誰かの意見を取り入れる事はあるだろうが、最終的な決定は陛下が行っているのだ。
賢王の異名は伊達ではない。キャロライン・スティルマグナスはオレ達にとって必要になる人間だと陛下が認めた少女である筈なのだ。
そんな彼女が狂ってしまった理由を考えてみよう。オレが魔王の力の保有者だと勘付き、正義の為に動いた可能性もある。けれど、もう一つある。
「確かめてみるか……」
ゲートを開き、学園の上空に出る。直後、眼下でオレを探していた様子のキャロラインが顔をあげた。
とんでもない嗅覚だ。空中を蹴り、信じ難い速度で迫って来る。だけど、ここに辿り着くまでには数秒掛かる。それで十分だ。
オレは右手を彼女に向けた。
―――― ブラッド・サーチ
彼女を周囲一帯ごと巻き込むように真紅の魔力を広げた。すると、彼女に向かって伸びる細い糸を感じた。
糸が伸びていく上空を見上げながら、オレの感情はふつふつと煮え立ち始めた。
「……あの子、十二歳の女の子なんだぜ?」
ブラッド・サーチの魔力をそのまま利用して彼女を捉える檻に変えた。
―――― ブラッド・プリズン
すぐに檻を斬ろうとするが、切れた端から修復されていく。まるで霧を斬っているかのように感じている事だろう。ただし、その霧は強引に通ろうとする者を決して通さぬ壁となる。
それでも時間を掛ければ突破して来るだろう。その前にすべてを終わらせる。
「やっていい事と悪い事の区別もつかないのか?」
生まれ変わる前も含めて、オレはここまでの怒りを抱いた事はなかった。
キャロラインは何者かに操られている。
次期王妃に刃を向ければ、異国の者だろうと極刑の可能性がある。少なくとも、オレに刃を向けなかった場合とは比べ物にならないほど暗い未来を歩む事になる。
それが分かっていながら彼女にこのような真似をさせたのか、その程度の想像も出来ずにこのような真似をさせたのか、いずれにしても許しておける限度を超えている。
オレは糸を辿って上空へ向かった。そして、見つけた。
「……お前か、キャロラインを操っていたのは」
そこには黄金の竜がいた。竜王メルカトナザレに似ているけれど、彼よりも小柄だ。
聖剣が見せてくれた記録の中で見た事がある。
「メサイア!!」




