第六十五話『アルヴィレオの帰還』
シヴァに抱き締められているせいで状況が分からない。だけど、アルが怒っている事だけは分かる。
オレは慌てた。今の状況を整理すると、オレは婚約者の見ていない所で男に抱き締められていたわけだ。甚だ不本意だが、浮気を疑われても仕方のない状態にある。
「シ、シヴァ様! 離してくださいませ!」
叫びながら藻掻くとシヴァの拘束が緩んだ。
「フリッカ!!」
抜け出そうとする前にアルがオレの腕を掴んだ。
「わわっ!?」
強引にシヴァから引き離され、そのまま抱き締められた。
「あっ……」
久しぶりに感じるアルの体温はとても心地よくて、喉元まで出かかっていた言葉がすべて引っ込んでしまった。
「……アル」
胸がポカポカと暖かくなっていく。アルがいる。それが嬉しくて堪らない。
「フリッカはボクの婚約者だ! 触るな!!」
いきなりアルが大声をあげた。
「アル……?」
アルはオレを見ていなかった。シヴァを睨みつけている。
オレがいるのに、オレ以外を見ている。それが凄くイヤだった。
「アル!!」
オレが叫ぶと、アルは目を丸くした。それから漸く、オレの事を見てくれた。
嬉しくて涙が溢れてくる。
「フ、フリッカ!?」
視界がぼやける。イヤだ。アルを見たい。だけど、涙が止まらない。
「アルのバカ!! 遅いよ!! ずっと待ってたのに……」
我ながら理不尽だと思う。アルは遊んでいたわけではなく、仕事で忙しく働いていたのだ。
労うべきであり、責め立てるなんて言語道断だ。それなのに口から飛び出すのは不満の言葉ばかり。自分がこんなにも狭量な人間だったのかと驚くばかりだ。
「……フリッカ」
アルはオレを更に強く抱き締めた。
「なんて可愛らしい事を言ってくれるんだ……」
そう言うと、頭を撫でてくれた。
「すまなかったね。君に寂しい思いをさせてしまった」
頬に手を当てられ、顔を持ち上げられる。
キスをされるのだ。オレは瞼を閉じて唇に彼のものが重なる瞬間を待った。
◆
「……ほんまに首ったけなんやな」
ヴォルフ・リールは海外の要人を放置して、すっかり二人だけの世界に入ってしまったアルヴィレオとフレデリカに呆れていた。
ここが外交の場である事を完全に忘れているようだ。
右を見ても左を見ても二人に注意を促す者が誰もいない。
「しゃーないのう……」
事の経緯はヴォルフも見ていた。
気持ちはよく分かる。見ず知らずの男が愛する婚約者を抱きしめていたのだ。同じ立場に立っていたら迷う事なく拳を振り抜いていた。
怒りを要人相手にぶつけるよりは遥かにマシとも言える。
けれど、要人に対する皇太子の対応としては最悪に等しい。
「そこまでにしとけ」
ヴォルフはアルヴィレオの頭を小突いた。
「イタッ……、ヴォルフ?」
目を丸くするアルヴィレオにヴォルフは深いため息を零した。
「周り、見えとるか?」
ヴォルフの言葉にアルヴィレオはハッとした表情を浮かべた。
フレデリカも一気に青褪めている。
元々は聡明な二人だ。すぐに自分達の失態に気付いたらしい。
「しゃんとしいや! わしを惚れさせといて、みっともない所を見せるんやないで」
背中をバシンと叩いてやると、アルヴィレオの表情は一気に引き締まった。
「ああ、すまない。ありがとう」
一応は不敬罪で処される事も覚悟しての行動だったが、アルヴィレオは謝罪と感謝の言葉だけを返した。
そこからのアルヴィレオは先程までとは打って変わり、皇太子として在るべき姿を示した。
フレデリカも彼の一歩後ろに立ち、彼のサポートに徹し始めた。
「やれば出来るやないか」
ヴォルフはやれやれと肩を竦めた。
◆
どうなる事かと思ったけれど、どうにかルミリアとシヴァとの会談を終える事が出来た。
結局、二人がどうして夜会より先に会いに来たのかは分からずじまい。学園長がまったく説明してくれなかった理由も教えてもらえなかった。
少しモヤモヤするけれど、どちらもオレが識るべきではない事とやらが関係しているらしい。
とても気になるけれど、今はアルだ。夜会まで少しだけ時間がある。アイリーンとミレーユに化粧やヘアスタイルを直してもらい、オレはアルと二人っきりにさせてもらった。
ライの正体についてはライ自身に任せた。丸投げにしてしまって申し訳ないけれど、少しでもいいからアルと話がしたかった。
「……久しぶりだね、アル」
「うん。寂しい思いをさせてしまってすまなかったね、フリッカ」
「ほんとだよ……」
また、不満を零してしまった。
「すぐに帰って来るって言ったのに……。そんなに大変だったの?」
「少しね。実は『アガリア警察』を組織しようと思っているんだ」
「アガリア警察?」
聞き覚えがない。
「ヴォルフが率いていた『ベルーガーズ』という自警組織を母体とした治安維持部隊だよ。警察自体は知っているよね?」
「うん」
実のところ、アガリアには警察がない。けれど、この世界に警察という概念が無いわけではない。
帝国や共和国、連合国には普通に警察組織がある。
「これまでアガリア王国は王国騎士団を筆頭に各領地の騎士団が治安維持を行っていた。特に問題はないと思っていたのだけど、ベルーガーズの実績によって問題点が幾つも浮上したんだ」
「問題点?」
「うん。基本的に騎士団は各領地の領主に指揮権がある。だから、騎士団同士の連携には必ず領主を挟まなければいけないし、領主の采配次第で騎士団の動きも変わってくる」
聞いていると問題がありそうだけど、アガリア王国の治安は他国と比べると抜群に良い。
それは領主達をネルギウス王が完璧に統治している為だ。些細な不正も見逃さず、優れた統治を行う者には相応の評価を与える。これにより汚職や怠慢による騎士団の活動の阻害が起きないのだ。
「……でも、警察組織にも問題点があるよね?」
警察組織も国王を頂点に据える点は騎士団と同じだ。けれど、合間に領主を挟まない為にほぼ組織内でシステムが完結してしまう。陛下と末端までの距離が騎士団と比べて遠過ぎるのだ。
民主主義国家や独裁政治の国ならば警察組織は有用だけど、慈悲深き賢王が治めるアガリア王国においては警察組織よりも騎士団の方が優れている。
「無論、完璧なシステムとは言えないよ。けれど、それは騎士団に対しても言える事だ」
騎士団の問題点は陛下に依存し過ぎている点だけど、今代に至るまでシステムが破綻した事はない。賢王の二つ名は伊達ではないという事だ。
けれど、アルがその点を問題視しているとは思えない。他にも彼の視点から見えた問題点があるという事だろう。
「あっ! そっか、視点の問題だな!?」
「ご明察だね」
気付いてみれば確かに大きな問題点だった。
陛下や領主はあくまでも貴族であり、庶民の視点に立つ事は難しい。出来る人もいるだろうけれど、全員が備える事は不可能に近い。
そして、庶民の視点でなければ見えない部分も当然ある。
「それがベルーガーズの実績によって明確になったんだ。騎士団による治安維持の限界点が見えたとも言えるね」
なるほど、ベルーガーズはまさしくアガリア王国にとってのブレイクスルーを引き起こしたようだ。
だからこそ、陛下は何としてもアルにヴォルフを夜会へ招待させようとしたし、アルも夜会のギリギリまでリール領に居残っていたわけだ。
ヴォルフ・リールはアガリア王国の未来に必要不可欠な人材というわけだ。
「それで交渉が長引いたの?」
「いや、交渉自体はすぐに終わったんだ」
「そうなの?」
聞いてみると、ヴォルフはアルの提案を聞いて二つ返事で了承してくれたらしい。
アウトローを演じているが、彼がベルーガーズを率いている理由は家と領地の為だった。
アルの提案を受ける事でベルーガーズは存続を公的に許され、組織されるアガリア警察の筆頭を務める事になるヴォルフは領主となる権限を憂いなく異母弟に移譲する事が出来る。
彼にデメリットはほとんど無かったわけだ。
「ただ、彼の配下には血の気の多い者も多くてね。彼ら一人一人を説得したり、リール侯爵家を説得したり、いろいろと手続きもあったりで気付いたら……」
本当に大忙しだったようだ。色々と文句を言ってしまった自分が恥ずかしい。
「ごめん……」
「フリッカ?」
「アルは忙しくて大変だったのに……。オレ、ワガママばっかり言って迷惑掛けて……」
オレの役目は多忙なアルを助ける事だ。それなのに余計な負担を掛けさせてしまった。
「とんでもない!」
アルは身を乗り出しながら叫んだ。間に挟んでいた机に乗っているアイリーンとミレーユが用意してくれた紅茶が揺れる。
「フリッカ。愛しい人がボクの不在を寂しいと嘆いてくれる事を迷惑などと思う男はいないよ!」
そう言うとアルは情熱的な眼差しを向けて来た。
「夜会が終わったら、今夜は同じベッドで寝よう」
一瞬、頭が真っ白になった。オレとアルは十二歳。そろそろ十三歳になる。元の世界で言えば中学生くらいの年齢だ。そして、オレ達は婚約者同士。
間違いない。エッチな事をする気だろう。オレも中学生の頃からスケベな事には興味津々だった。
元男として甚だ不本意ではある。けれど、その事をアルは知らない。これは隠しているオレが悪い。アルは何も悪くない。
これは隠し事をしている罪を償う為にも受け入れるべきだろう。
そもそもアルが求めてくるなら、オレは立場的に抵抗する事が出来ない。仕方がない。ここは覚悟を決めよう。
オレは急いでアイリーンに念話を送った。とりあえず準備はしてもらった方がいい。
―――― ア、アイリーン! 今夜、アルに求められちゃうかもしれない!!
―――― ん? どういう事だ?
間違えた。ライに送ってしまった。
―――― ごめん! 間違えた!
―――― そうか。伝えておくか?
―――― い、いいから! オレが話すから言わないで!!
―――― 了解した。
危なかった。オレは改めてアイリーンに念話のチャンネルを合わせた。
―――― アイリーン!!
―――― お、お嬢様!? どうなさいましたか!?
―――― ア、アルに今夜誘われた!!
―――― なんと!? か、かしこまりました! 香油の用意を致します! えっと、が、がんばってください!
よし、これで準備は万端だ。
「掛かってこいや!」
「……フリッカ?」
アルは困惑している。オレはコホンと咳払いをして誤魔化した。
一応、覚悟はしていた事だ。ゲーム中でフレデリカが婚約を破棄されたのは学園編のラストであり、それまでは関係が続いていた。それまで性欲旺盛な青少年が手を出して良い相手を前に禁欲生活を送れるとは思えない。
アルもクールな表情の内側でどんなスケベな事をしようかと考えて悶々しているに違いない。
一応、脳内でシュミレーションしておこう。いきなりハードな事はしてこないと思うけど、アルはサディストな一面がある。
「フリッカ?」
「……優しくしてね?」
「え? も、もちろんだよ!」
縛られるくらいなら許容範囲内だ。ムチとかろうそくは応相談。それ以上となると少し考える時間が欲しい。
「ちなみに道具を使う時は事前に教えてくれると助かる」
「道具……?」
アルはポカンとしている。道具を使う発想は無かったようだ。
「ちょ、ちょっとくらいならいいんだぜ?」
あんまり禁欲させて暴走されても困る。ある程度は受け入れる所存だ。
「えっと……、何の話かな?」
夜会ではダンスタイムもあるから体力を使い過ぎないように注意が必要だ。
ついにアナスタシアとその奴隷くんとの特訓の成果を見せる時が来たわけだ。
「フ、フリッカ……?」
一応、今夜の寝間着は大人びたデザインのネグリジェにしてもらおう。
子供っぽい物だと雰囲気が壊れる危険性がある。
「フリッカ!!」
「ほあっ!? び、びっくりした!! どうしたの!?」
「いや、それはこっちのセリフ……。いや、それよりもだ。そろそろ夜会の話をしよう。今の内に最低限の打ち合わせは済ませておかないといけないからね」
「え? って、もうこんな時間!?」
時計を見るとかなりギリギリの時間になっていた。
「えっと、まずは段取りの確認な! もう入場は始まってるけど、オレ達は一番最後だ。みんなに挨拶して、アルが乾杯の音頭を取る。あとはしばらく会食の時間があって、レクリエーションタイムが始まったらオレとアルが中央で踊る事になってる。演目は『赤と黒の帳』だ」
ちなみに『赤と黒の帳』は七英雄のレッドフィールドとサリヴァンをモチーフにしたアガリア王国における社交ダンスの基本となる演目だ。
「オレ達が踊り終わったらみんなも踊り始めるから、それぞれ誘われた相手と踊る。レクリエーションタイムが終わったらアルのスピーチタイムだな。一応、内容はオレが考えた物もあるけど使うか?」
「いや、大丈夫だよ。ありがたいけど、ボクの言葉でなければ意味がないからね」
「わかった。えっと、その次は学園長や陛下のスピーチタイムだな。オレ達の役目はその時点でほとんど終わりっぽい」
こうして見ると、やっぱり一番大変なのはレクリエーションタイムだ。
ダンスの練習はそれなりに積んできたし、王妃様の付き添いで舞踏会にも参加した事がある。
だけど、多くの視線が集まる中でのダンスとなると勝手が違う。
「大丈夫だよ、フリッカ」
「アル……」
どうやら不安を見抜かれしまったようだ。
「ボクが一緒だ。二人でなら乗り越えられるよ」
「……うん」
生きた年数的にはオレの方が年上の筈なのにアルは本当に頼りになる。
「じゃあ、行こうか!」
「ああ!」
オレはアルと手を握った。いよいよ夜会がスタートする。
朝は不安でいっぱいだったけど、今は手足が軽い。アルと一緒だと思うと勇気が湧いて来る。
夜会の舞台となるアザレア学園の大広間はもう目の前だ。




