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第六十二話『シャシャ・シーライル・ウルクティン』

 イルイヤ大陸の西部に広がる妖王ルミナスの支配領域である神護(リエン)の森。

 その奥深くには『始まりの樹』と呼ばれる大樹が聳えている。その枝の上に一人の少女が立っている。


「わっはっはー! 自由だー!!」


 歓声を上げながら枝から飛び降りて来るのはシャシャ・シーライル・ウルクティン。

 彼女の手にはアガリア王国からの招待状が握られている。

 

「わーい! わーい! 都会に行けるぞー!」


 今までは森から出る事を一切許されなかった。

 森は広いけれど、彼女はもっと広い世界を見てみたかった。

 海が見たい。山が見たい。人でごった返す街が見たい。

 こんな緑一色のつまらない場所で一生を終えるなんて絶対に嫌だと思い続けていた。

 

「よっ! ほっ! はっ!」


 身軽に木々の枝々を伝って森の出口へ向かっていく。

 そこは小高い丘になっていて、遠くには竜王メルカトナザレの支配領域である竜王山脈が見えた。


「シャシャ」


 いよいよ外の世界への第一歩を踏み出そうとした時、彼女が最も苦手としている老婆の声が聞こえた。


「うぎゅ!?」


 凍りつく彼女の前に現れたのは森の長老であるアイメス・シグン・スラーンだった。

 齢三百歳を超えている筈なのに幼子のような容姿をしている。

 妖王ルミナスの代弁者であり、七英雄と謳われたジュリア・リエンの後継者でもある。

 彼女は怒る時に声を荒げたり、顔を歪めたりはしない。彼女はとても静かに怒るのだ。


「怒ってる……?」

「怒っていませんよ」

「……怒ってるでしょ?」

「怒っていませんよ」

「やっぱり怒ってるんだー!!」

「……怒りますよ?」

「ごめんなさい!!」


 シャシャは土下座した。

 その姿に溜息を零した後、アイメスは言った。


「シャシャ。人の話は最後まで聞くものですよ」


 シャシャにアガリア王国からの招待状を渡したのはアイメスだった。

 その場で事情や状況などを説明する筈だったのだが、シャシャはアガリア王国への留学という話を聞いた途端に飛び出していってしまった。

 もっとも、アイメスにはその事でシャシャを責めるつもりは毛頭なかった。だから、優しく諭すだけに留めている。

 彼女はシャシャが昔から外の世界に憧れを抱いていた事を知っていたのだ。


「アガリア王国は海を超えた先のバルサーラ大陸にあります。もうすぐ、貴女を送り届けてくれる方が参られます。それまでの間だけ、わたくしの話に耳を傾けてください」

「……はーい」


 極めて不満そうな表情を浮かべながらもシャシャは大人しくアイメスの言葉に耳を傾けた。


「わたくしはルミナス様からお言葉を賜りました。それは『勇者の権能』がゼノン様から別の御方に移ったという内容です」

「ふーん」

「その御方はアガリア王国に()られます。わたくしは現アガリア王に手紙を(したた)めました。すると、一通の手紙が届けられたのです。それが貴女に渡したアガリア王国への招待状なのです。中には夜会の招待状とアザレア学園への入学許可証が入っておりました。わたくしは遥か昔より異国のいと賢き方々と文を交わし合う間柄であり、その途に新たなる聖剣の担い手と成られた尊き御方と丁度同い年になる才に恵まれた愛し子の事を数行ほど含ませた事があり、賢王様はその事を覚えておられたのです。恐らくは運命を感じられたのだと思います。ええ、わたくしも感じました」


 シャシャは途中からウンザリしていた。アイメスはとにかく話が長いのだ。しかも抑揚がなく、淡々と語り続けてくる。言い回しも途中から古臭いものが増えていき、年若い彼女にとっては苦痛だった。


「もう! 結論を言ってよ! 結論を!」

「シャシャ。結論を急ぐ事は必ずしも正しい事ではありませんよ。時には回り道をする事も大切です。時には来た道を戻る事も必要です。そして、そうした過程にこそ大きな意味が生まれる事も多々あるのです」

「分かったから! 迎えが来ちゃうよ!」


 シャシャが森から出たいと思うようになった理由の一つは彼女の長話から解放されたかったからでもある。


「シャシャ。貴女が留学する事になるアザレア学園には新たなる勇者様が()られます。その御方と共に過ごし、共に学び、共に遊びなさい」

「……その新たな勇者様の名前は?」

「秘密です」

「なんで!?」


 シャシャは頭を抱えた。新たな勇者と共に過ごせと言った直後にその勇者の名前を秘密にする意味が分からなかった。


「勇者様は自らの真実を識りません。あるいは、貴女が初めて出会った日に気づくかもしれません。あるいは、貴女と共に過ごす中で気づくかもしれません。あるいは、貴女がここに戻って来る日まで気付かぬままかもしれません」

「どういう事!? え? 勇者様、自覚してないの!?」

「その通りです」

「その通りです!?」


 そんな状況があり得るのかとシャシャは困惑した。


「じゃ、じゃあ、わたしってどうすればいいの?」

「言った通りです。共に過ごし、共に学び、共に遊びなさい。そして、貴女が傍に居る時に勇者様が自らの使命を自覚なされた時は貴女の心に従いなさい」

「……どういう意味?」


 シャシャは困惑している。


「共に戦いたいと望むならば戦いなさい。間違っていると断ずるならば阻みなさい。人であるべきと願うならば諭しなさい。関わるべきではないと感じたならば帰って来なさい。何も知らぬならば知らぬままで構いません」

「わたしのしたいようにしろって事?」

「そうです」


 アイメスは言った。


「勇者様を知らぬまま、勇者様を識りなさい。そして、貴女の心に従うのです。ただ一つ、覚えておきなさい」

「なにを?」

「貴女の意思はこの森の意思です。貴女の心のまま、この森は勇者様との関係を選ぶでしょう」

「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってよ! なにそれ!? 意味がわからないんだけど!?」


 シャシャはパニックを起こしかけた。

 なにしろ、彼女は勇者の件に限定されるとは言え、神護(リエン)の森の全権を委任されてしまったのだ。

 彼女はその意味が分からないほど愚かではいられなかった。


「これはわたくしの意思であり、ルミナス様の意思でもあります。そして、カミナ、ウルリーケ、ミアレ、シュザンナも賛同しています」

「なんで!?」

「貴女を信じているからです」


 困惑しているシャシャとは裏腹にアイメスは落ち着いた笑みを浮かべている。


「貴女ならば間違えないとわたくし達は信じております。賢く、優しい貴女は森と勇者様の運命を良き方へ導いてくれるでしょう」

「待ってよ! 勝手過ぎない!? わ、わたし、森のすべてなんて背負えない!!」

「それもまた貴女に許された選択です」

「……どういう事?」

「森を利用するのも自由。利用しないのも自由。すべては貴女が望むまま」


 シャシャは地団駄を踏んだ。

 さっき、彼女は自由になれる事を喜んでいた。それなのに、今は自由である事に苦しんでいる。

 この理不尽に彼女はやり場のない怒りを覚えた。


「要するに丸投げじゃん!!」

「嫌ならば行かなくてもいいのですよ? それもまた、貴女の選択ですから」

「ううううううう!!!!」


 行きたくないわけではない。この機会を逃したら一生森から出られないかもしれない。

 だけど、行けば勇者の件を丸投げされる。何をしても自由というのは、なによりも不自由だ。

 シャシャは森が嫌いなわけではない。そして、勇者が世界にとってどれほど重要な存在かも理解している。だからこそ、無責任な選択など出来ない。

 

「行くよ!! 行けばいいんでしょ!! アイメスお婆ちゃん、嫌い!!」

「わたくしは誰よりも貴女を愛していますよ」

「もー!!」


 シャシャはむくれていると、空が暗くなった。見上げた先には黄金の竜がいた。


「ドラゴン!?」


 目を丸くしていると、アイメスが竜に向かって手を振った。


「彼はメサイア。偉大なる竜王メルカトナザレ様の御子息ですよ」

「竜王様の!?」


 メサイアが降りてくる。シャシャはあわあわと取り乱している。


『落ち着くのだ、森の子よ』


 不思議な声が響き渡る。人の声のようだけど、なにか違和感がある。

 シャシャは目を丸くしながらメサイアを見上げた。


「今のって……」

『我が語りかけている。我が名はメサイア。貴様を今代の勇者の下へ送り届ける者だ』

「……へ?」


 シャシャはポカンとなった。


『仕度は済んでいるか? 済んでいるならば出立するぞ』

「へえええええええええええ!?」


 シャシャは絶叫した。そんな彼女を尻目にアイメスは「よろしくお願い致します」とメサイアに言い、『承った』と返事を貰った。

 

「シャシャ」


 そして、パニックを起こしているシャシャの手に一張の弓を持たせた。


「ほよ?」


 それはいつもアイメスが持っていた弓だった。


「その弓を持って行きなさい」

「ほよよ?」


 シャシャは弓とアイメスを交互に見つめた。


「え? これ、『イスラ・ウズラ』じゃ……」

「ええ、神器『イスラ・ウズラ』に相違ありません」


 シャシャはポカンとした表情で空を見つめた。そこにはメサイアの顔があった。


「ほえー」


 シャシャは考える事をやめた。


『さあ、我が背に乗るがいい』

「……はーい」


 シャシャは素直にメサイアの背中に乗った。


『では、連れて行くぞ。……良いのだな?』

「ええ、シャシャをお願い致します。偉大なる竜王の子、メサイア様」


 シャシャはそのやり取りをボーッと聞いていた。


「いってらっしゃい、シャシャ」


 その言葉を聞いて、シャシャは慌てた。


「い、いってきまーす!」


 メサイアが動き出した。丘を飛び降りて、翼を広げる。

 

「わーお!」

『口は閉じておくがよい。以前乗せた者は舌を噛んだ』

「はーいぎっ!?」


 注意した傍から舌を噛んでしまったらしいシャシャにメサイアは苦笑した。


『やれやれ』


 そして、治癒の魔力をシャシャに注いだ。


「あふぃがとう」


 もう治った筈なのだけど、シャシャの舌は上手く回らなかった。


『我は人を乗せる事に慣れているわけではない。あまり気を遣えぬ故、到着まで大人しくしているがよい』

「そうしゅるー」


 メサイアの背中には馬の鞍にあたるような物は無かった。

 乗り心地が良いとはとても言えない背中だったけれど、シャシャは器用にくつろげる姿勢を見つけ出した。

 その事にメサイアは微笑んだ。そして、水平線の向こうを見つめた。


『……ようやく会えるのだな』


 シャシャとは違い、メサイアは父である竜王メルカトナザレから勇者の名を聞いていた。そして、彼女がメサイアやメルカトナザレと浅からぬ関係にある事も。

 父が殺し損ねた姉の生まれ変わり。それが今代の勇者であるフレデリカ・ヴァレンタインだ。

 

 ―――― 我には分からぬ。あれが罪であったのか、あるいは愚かであったのか……。


 嘗て、メルカトナザレには人の形をした娘がいた。その娘は群れに馴染む事が出来ず、やがて、極地より現れた魔王と共に世界を滅ぼしかけた。

 彼女を討ち倒す為に竜王と妖王が死力を尽くした。

 再び人の形をした娘が産まれた時、メルカトナザレは悪夢の再来を予感した。そして、予感は的中した。

 シャロンもまた、魔王を名乗った。世界に対して牙を剥き、勇者によって滅ぼされた。

 その生まれ変わりがシャロンの力を覚醒させた時、メルカトナザレは三度目の悪夢の再来を阻む為に彼女を滅ぼそうとした。

 しかし、彼女は勇者によって守られ、新たなる勇者となった。


 ―――― 貴様の眼で見定めるがよい。


 メルカトナザレは人の本質を邪悪と捉えていた。

 勇者のように一部の例外はあれど、娘達が悪夢となったのも人として産まれたからに違いないと考えていた。

 けれど、メサイアは違った。幾度も人と関わり、人の本質を無垢と捉えていた。

 邪悪にも、善良にも、貪欲にも、無欲にもなれる。だからこそ、人の形で産まれた姉達が悪夢となった理由も何か別の所にあったのではないかと考えていた。

 メルカトナザレはそうしたメサイアの考え方に否定的だった。けれど、此度の一件においては自らよりもメサイアに事の行く末を託す事にした。

 

『姉上……』


 ただの一度も相まみえる事を許されなかった肉親達。

 生まれ変わりだとしても、ずっと会いたいと渇望していた。

 延頸挙踵(えんけいきょしょう)の時は迫っている。

 彼方の水平線が途切れ、瞬く間に陸地が見えて来た。

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