第四十五話『新たなる勇者』
その日、バルサーラ教会の聖女が勇者の訃報を全世界に伝えた。その報を受けた各国の首脳陣の多くは膝から崩れ落ちた。
勇者は人々の希望であり、唯一の生命線なのだ。王と呼ばれる者達に限らず、一定のラインを超える魔獣に対して人間は歯が立たない。
人類は存亡の機にある。その事実に多くの者が狼狽える中で、これを好機と見る者もいた。
「……イグノス武国とラグランジア王国が動いたか」
アガリア王国の国王であるネルギウス・アガリアは宰相や四つの公爵家の当主達と共に友好国から届けられた情報を吟味していた。
イグノス武国は異大陸にあり、目下の問題はラグランジア王国だ。
嘗て、バルサーラ大陸全土を支配していた大国ラグランジアは初代魔王の猛威によって壊滅し、復興した後も二度に渡る魔王の蹂躙を受けた。今や大陸の端に追いやられ、小国と称されるまでに落魄れてしまった。
ところが今の王は過去の栄光に取り憑かれている。勇者ゼノンがラグランジア王の息子である事が彼の野心を助長させた。妾の子として冷遇しておきながら、彼の勇者としての名声を利用している。
それは禁忌に触れる事だ。けれど、勇者の肉親や祖国を糾弾する事は、それもまた禁忌に触れる事となり得る。
ラグランジア王国は隣国であるメルセルク王国に対して幾度も不当な要求を突きつけ続けてきた。
いずれ戦端が開く事は目に見えており、その際には存分に勇者の名を利用してくるであろう事は明らかだった。ラグランジア王国は裏でパシュフル大陸のカルバドル帝国と繋がっている疑いもあり、世界を巻き込んだ戦争が起こる可能性も懸念されていた。しかし、勇者の訃報によってラグランジア王国はその覇名を利用する事が出来なくなった。
「自暴自棄……いや、もはやこの機に乗じる他無いという事だろうな」
ヴァレンタイン公爵家の当主、ギルベルト・ヴァレンタインの言葉に宰相のオルトケルン・アルヴィスが頷く。
「勇者の出身国である事。それだけがラグランジア王国の強みでしたからな。状況が落ち着き、メルセルク王国からこれまでの報復を受ける事となればラグランジア王国には……少なくとも、王家に未来はありませぬ」
「メルセルクが動かずとも、ラグランジアの民衆の王家に対する反感は強まる一方にある。いずれにしても外に敵を設けねば内戦によって滅びていただろうしな……」
勇者の訃報によって世界大戦にまで拡大する懸念は晴れたが、メルセルク王国と友好関係にあるアガリア王国としては傍観しているわけにもいかない。
「……ルードヴィヒめ」
ネルギウスは現ラグランジア王の名を苦々しく口にした。
「息子の死を悼みもせず、保身の為に国を窮地へ陥れるとは」
勇者ゼノンは偉大な男だった。アガリア王国にとっても大恩ある御方であった。
これ以上、父の愚行で彼の名が穢される事など在ってはならない。
「方針を決めよう。ラグランジア王家の処遇について……」
その時だった。突然、会議室の扉が開いた。
この会議室はオズワルドの魔法によって守られている。王の許可無き者が開く事など不可能な筈だ。その扉が開いた事にネルギウスは目を見開いた。
「陛下、火急の要件にて御無礼を御容赦願いたい!」
入って来たのはオズワルドだった。
「お前か……。どうした?」
王弟と言えど、国の未来を左右する重要な会議に乱入する事など許されない。けれど、そんな事はオズワルドとて心得ている。その上での行動ならば言葉通り火急の件なのだろうとネルギウスは判断した。
性格に些か難はあれど、その能力に対しては信頼を置いている為に宰相や公爵達も口を開く事なく清聴している。
「さあ、此方へ」
「ああ」
オズワルドの後に続いて奇妙な風貌の男が現れた。
仮面を付けている。
「オズワルドよ。その方は……?」
ネルギウスが問い掛ける。しかし、仮面の男は聞こえていないかのように答える事なく王以外の者達へ顔を向けた。
「すまないがネルギウス王以外の者には退出を願いたい」
その言葉に宰相達の表情が歪んだ。
「……何者かは存じ上げませぬが、陛下を軽んじるような行動は謹んで頂きたい!」
オルトケルンの言葉に仮面の男は「違う」と言った。
「俺が何者か答える為だ」
「どういう意味ですかな?」
「言葉通りだ」
そのやり取りを聞いていたネルギウスの顔は徐々に驚愕へ変化していく。
「……まさか」
そう呟くと彼はオズワルドを見た。
オズワルドは小さく頷いた。
「オルトケルン。ヴァレンタイン公爵。レーベンヴァルク公爵。ゾア公爵。ルーテシア公爵。すまないが一度退出してくれ」
「なっ、陛下!?」
「すまない、オルトケルン」
ネルギウスは頭を下げた。すると、オルトケルンはハッとした表情で立ち上がった。
王に頭を下げさせてしまった。その事に青褪めながらオルトケルンは様々な言葉を呑み込んだ。
「も、申し訳御座いません、陛下。直ちに退出致します!」
物言いたげな他の公爵達も宰相に倣い部屋を出ようとした。するとオズワルドがギルベルトを呼び止めた。
「申し訳ありません。ヴァレンタイン公爵はそのままで」
「……承知致しました」
ギルベルトは他の三人の公爵と視線を交わし、あげかけた腰を椅子に下ろした。
宰相達が部屋を出ると共にオズワルドは扉へ手を翳す。すると壁に幾筋もの光が走り、強固な結界が張り巡らされた。
ネルギウスとギルベルトは部屋が外界から完全に隔離された事を悟り、息を呑む。
「……感謝する」
そう言って、男は仮面を外した。
「やはりか……」
「なっ……」
ネルギウスは目を細め、ギルベルトは見開いた。
そこに現れた顔を見た瞬間、彼らは先程までの会議の前提が覆された事を悟った。
「ゆ、勇者様!?」
ギルベルトは思わず立ち上がり、椅子を倒してしまった。
「……どういう事だ?」
ネルギウスの視線はオズワルドに向けられている。
「見るがまま、在るがままに御座います」
オズワルドの言葉にネルギウスの表情は歪む。
「……バルサーラ教会の聖女が偽りの情報を流したという事か?」
「違う」
答えたのは勇者と呼ばれた男だった。
「俺は勇者では無くなった。勇者としては死んだ。だから、偽りではない」
「勇者では無くなった……? ど、どういう意味ですかな?」
ネルギウスはゼノンの言葉を図りかねた。
「言葉のままだ」
「……ゼノン。それでは説明が足りていませんよ」
見兼ねた様子のオズワルドが口を開いた。
「兄上、そして、ヴァレンタイン公爵。これから語る事は他言無用。その理由も語る内容を聞けば分かります故、しばしの間御清聴願います」
その言葉にネルギウスとギルベルトは視線を交わし合い、頷いた。
「承知した。続けてくれ」
「感謝致します。それでは、まずは勇者という存在について語らせて頂きましょう。少々、これまでの常識を覆す事となりますが……」
そう前置きしてオズワルドは語りだした。
「勇者はバルサーラ教会が選定している事になっておりますが、実際に選定しているのは聖剣です。より正確に言うならば聖剣に備わる権能が勇者を選ぶのです」
早速、常識と思っていた事が覆された。ネルギウスとギルベルトは喉元までせり上がってきた言葉を呑み込む事に苦心しながら聞くに徹している。
「聖剣には意思が宿っている。これは周知の事実です。そして、意思ある者には魂が宿る。スキルとは魂に刻まれるもの故、聖剣は権能を宿す事が出来たのです」
オズワルドは片手を会議に使っていた円卓に向けた。すると円卓の上に聖剣が現れた。
それが彼の魔法による幻影である事をネルギウスとギルベルトは即座に見抜いた。
「聖剣に宿る権能。それは王を選ぶものでした」
「……王?」
ネルギウスは片眉をあげた。
「そもそも、この剣はその為に鋳造されたものですから。しかし、その権能が年月と共に変化を遂げたのです」
聖剣の隣に一人の男が現れた。ネルギウスとよく似ている。
「彼こそが初代勇者にして、初代アガリア王であらせられるオルネウス・アガリア様です。彼は救世の王として民をまとめ上げ、初代魔王と戦いました」
オルネウスが聖剣を握る。すると、聖剣が脈打った。
「彼が聖剣を王家の湖の小島から引き抜き、王となった事で人々は聖剣の存在を識ります。それにより聖剣に宿る権能は新たなる信仰により上書きされました」
驚く事ではない。元より、権能とは信仰によって形作られるもの。その存在は個人が鍛錬の末に魂に刻み込む技とは比べ物にならない程儚いものだ。
「王を選ぶ剣は救世主を選ぶ剣となりました。そして、それ故に王とは成り得ぬ者が二代目として聖剣を手にしました」
オルネウスが消え去り、代わりに少女のような少年が現れた。
「レオ・イルティネスはまさしく救世主に相応しき者でした。彼は万人を等しく愛し、慈しみました。その愛に善悪の区別などなく、人や魔獣の区別もありませんでした。ひたすらに命を救い続ける姿を見て、人々は彼に対して神を見出しました」
まるで神が自ら形作ったかのような美しい相貌が彼をより神格化したのだろうとネルギウスは思った。
レオが聖剣を握ると再び脈打った。
「救世主を選ぶ剣は神の如き者を選ぶ剣となりました。即ち、大いなる慈愛の心です。そして、選ばれた者こそが三代目であり、初めて勇者という呼称で呼ばれた者。メナス・ミリガンです」
レオの代わりに現れた少年はネルギウスやギルベルトが想像していたよりも普通な少年だった。
どこか気弱そうな雰囲気を漂わせている。
「メナスはレオに劣らぬ慈愛の心を持っていました。しかし、彼の心はレオと比べるととても繊細でした。むしろ、彼は誰よりも臆病であり、誰よりも寂しがり屋であり、誰よりも泣き虫でした」
彼が握った時、聖剣はオルネウスやレオが握った時とは比べ物にならない程に大きく脈動した。
「彼は常に泣いていました。魔獣を殺める時は涙を零しながら魔獣に謝り、誰かに糾弾された時は大声で泣き喚き、誰かを救う時も体を震わせながら泣きじゃくる。それでも彼は人々を救い続けました。最初は彼を認めぬ者も多かった。けれど、救われた人々は泣きながら救ってくれた彼に真の勇気を見出しました」
メナスの姿が消える。遺された聖剣には三つの光が浮かんでいる。
「聖剣は勇者を選ぶものへ変化を遂げました」
光が急激に強まり、会議室の風景が一変した。そこは魔界と呼ばれる場所。暗黒の天蓋に覆われた紅蓮の大地。
その空中に投げ出され、ネルギウスとギルベルトは僅かに瞠目したが強靭な精神で動揺を抑え込んだ。そして、この光景があくまでも幻影であり、自分達は会議室にいるままである事を地面や円卓の感触から確認した。
「そしてメナスの死後、人々は彼の活躍を本にしたため、劇の演目として使いました。結果、勇者という存在は脚色され、体現出来る者など存在し得ない英雄へ昇華されてしまいました」
オズワルドが虚空に指先を向ける。その先を見ると、そこには空を翔けるゼノンの姿があった。彼を追うように風景が移り変わる。
やがて、彼らはゼロ地点と呼ばれる場所に辿り着く。
「ところが、それを体現出来る者が現れました。ゼノン・ディラ。彼は慈愛の心を持ち、類まれなる勇気を持ち、折れる事なき強靭な精神を持ち、そして、ハンサムでした」
「……照れる」
ゼノンは照れた。しかし、事実だった。
御伽噺の登場人物の如く、空想でしかあり得ない人格者。そして、その顔立ちは精悍であり、美麗。
まさに奇跡のような存在だった。
「けれど、勇者の名は昇華され過ぎてしまった」
オズワルドの言葉と共にゼノンがセレネと名乗るエルダー・ヴァンパイアに倒される光景をネルギウスとギルベルトは愕然とした表情で見つめた。
勇者の敗北。それはあり得ない事であり、あってはならない事だ。
だからこそ、敗北し、死を受け入れた事でゼノンは勇者の資格を失った。
「……なるほど」
ネルギウスは沈痛な面持ちで呟いた。
「到底、受け入れ難い事だ。だからこそか……」
勇者の敗北を認めたくない。その心こそが聖剣の権能を歪め、ゼノンから勇者の資格を剥ぎ取ってしまった。
勇者を殺した者、それはセレネではない。人類そのものが己の希望を殺してしまったのだ。
「……何という事だ」
ギルベルトは呟いた。
「勇者様……いや、ゼノン様程の御方は二度とは現れまい……」
奇跡は何度も起こらない。今の人類が抱く勇者に対する信仰を担える者など存在する筈がない。
もはや、勇者は現れない。それはつまり、人類の滅亡のカウントダウンがスタートした事を意味する。
「……希望は潰えていない」
ゼノンは言った。
「それはいったい……」
困惑するギルベルトに対して、彼は言った。
「聖剣はすでに次の勇者を選んでいる」
「なっ……」
言葉を失った。二度とは存在し得ない筈の奇跡の存在。それが同時期に二人も存在するなど、それこそあり得ない話だ。
「そ、それはいったい……」
その時になって、ネルギウスはオズワルドがギルベルトを呼び止めた理由が気になった。
この事実は重大なものだ。如何に賢王の異名を持つネルギウスと言えど、一人で受け止める事は至難と言わざるを得ない。けれど、宰相であるオルトケルンを差し置いてギルベルトを相方として残した事に疑問が湧く。
ネルギウスにはオズワルドが意味もなくギルベルトを指名したとは思えなかった。
そして、一度疑問の種が目を出すと次々に新たな疑問が浮かび上がってくる。
そもそも、ゼロ地点でセレネに敗北し、死を受け入れた筈のゼノンが何故この城にいるのか? 何故、これほどの重大な情報を祖国ではなく、アガリア王国に報告するのか?
その疑問と先ほどの彼の言葉が繋がっていく。
「……ま、まさか」
ネルギウスは目を見開いた。
「クカカカカカカカカカカッ! さすがは我が兄、ネルギウス王! どうやらお気づきのようですねぇ!」
その言葉にギルベルトはネルギウスを見た。そして、彼もまたギルベルトを見ていた。
「……ゼノン様。次の勇者とは……、まさか……」
ネルギウスの声は僅かに震えていた。
「フレデリカ・ヴァレンタイン。彼女こそ、次の勇者だ」




