第四十三話『勇者ゼノン』
パシュフル大陸の西端に聳える山脈地帯。その中でも一際巨大な山を人々は『神々の世界』と呼んでいる。
標高10,000mという世界最高峰のその山の内側にはドワーフ族と呼ばれる亜人種が生活を営んでいる。
そして、その地下深くには大空洞が広がっていた。
『……勇者よ。今一度、警告する。魔界に行ってはいけない』
大空洞は一人の王の為の部屋だった。
宝王ガンザルディ。
竜王メルカトナザレや炎王レリュシオンと並び称される偉大なる存在だ。
姿形は人に近しい。けれど、その身体はあまりにも大きかった。座っている状態でさえ、山よりも大きく見える。
彼が地上を練り歩けば、それだけで世界が滅びてしまう。ブリュートナギレスはその事を憂いた彼自身が自らを封印する為に作り出した墓標であり、ドワーフ族は彼が生み出した土人形であり、一人一人が彼なのだ。
もっとも、その事を知っている者は限られている。知らぬ者から見れば、ドワーフは一つの種であり、それぞれに個があるように見える。それほど多くの人格を演じ分ける事が出来るのは、永劫に近しい暗闇の中での孤独が彼の心を切り分けた為だ。
体は大きくとも、彼は人であり、心を持っている。分裂した人格は年月を追う毎に増えていき、その数だけのドワーフ族が生まれ続けている。時には邪悪なドワーフが生まれる事もあり、そのドワーフを善良なドワーフが殺す事もある。
それが意味する事を勇者ゼノンは理解していた。
「俺は魔界に行く。ゼロ地点の真実を識る必要がある。出来るなら、俺の代で終わらせたい」
『……お前は死ぬぞ。いや、それよりも恐ろしい目に合う』
「構わない」
『何故だ……』
ガンザルディの瞳から涙が零れ落ちた。
『勇者はいつも我の友となってくれる。死んで欲しくない。お前が死ねば、また我の中に邪悪が生まれる。お前はまた我を苦しめるのか?』
「友を苦しめたいと思う者などいない」
『ならば……』
「だから、俺は行く」
勇者はガンザルディの瞳の前で浮きながら言う。
「初代魔王の呪いを解く為に」
◆
初代魔王。名前は不明。極地にある『ゼロ地点』と呼ばれる場所から現れた者。その出現と共に世界は大きく変わった。
それ以前の世界には魔獣など存在していなかった。ガンザルディも普通の人間だった。
ゼロ地点で何が起きたのか、その事を識る必要がある。そう考えた先代の勇者メナスは魔界に乗り込んだ。けれど、ゼロ地点に辿り着く事さえ出来なかった。
勇者の力を持ってしても踏破出来なかった道のりを征く。それは死へ向かう旅路である。
「……ガンザルディ」
勇者は己の命を惜しんでくれた友を思い、微笑んだ。
苦しんでいる人がいたら助けたい。困っている人がいたら手を貸したい。
それは当たり前の事だ。
「あの子達の為にも……」
思い浮かべるのは魔王の力を宿した少女達。
彼女達が人として生き、人として死ねるように。
「……行ってきます」
背後に広がる人間界へ別れを告げる。再び、世界を変える為に勇者は炎王の結界を超える。そして、境界を超えた瞬間、魔界は勇者に牙を剥いた。
上空から降り注ぐ毒の雨。大地からは前回同様に魔樹が襲い掛かって来る。その二つに対処していると衝撃が迫って来る。
見えない。そして、魔力も感じない。勇者は視線を向けた。そこには青白く輝く竜がいた。
「大気の圧縮か」
右からは一つ目の巨人。左からは鋭い角を生やした狼が襲い掛かって来る。一度は散らした毒雨も再び落ちて来る。魔樹は数を数百倍に増やして蔦を伸ばしてくる。そして、黒い棘が空中に現れ始めた。
これが魔界。人間どころではない。勇者や魔王でさえ生きる事が難しい魔境。けれど、そこで生きている魔獣達が目の前にいる。
人間界からやって来た一個体に対して、複数の種族が力を合わせて攻撃して来る。
同族同士ならばともかく、これは明らかに自然の理に反している。
「……居るのか、魔王!!」
魔獣達が使役されていると考えれば現在の状況にも説明がつく。
三代目なのか、あるいは真の二代目なのか、それは分からない。倒すべき存在なのかさえ分からない。けれど、そこには確実に答えがある。
勇者は聖剣を振りかぶり、空を蹴った。まだ、人間界との境界から一キロも離れていない。こんな所で踏み留まってはいられない。
生きる者を殺める事を厭う勇者は魔獣達の攻撃だけを斬り、その合間を駆け抜けていく。まるで山のように巨大な氷塊の吹雪を超え、不規則に噴火する火山地帯を超え、酸を振りまく竜巻を超え、そして、辿り着いた。
「ここか」
そこは街だった。これだけの異常気象と強獣達に囲まれていながら、建物は朽ちた様子を見せていない。
それは護っている者がいる事を示している。
「……ッ」
腕が吹き飛んだ。雷の速度すら捉える勇者の眼で追い切れなかった。
勇者は直感した。自分はここで死ぬ。だから、次の勇者の為に情報を遺さなければいけない。幸いな事に手段がある。聖剣だ。
一般的に勇者はバルサーラ教会が選定しているとされているが、事実は異なる。勇者は聖剣が選ぶ。担い手が勇者の資格を失うと共に新たな資格者の下へ移動する。
その時代に資格者がいなければ、現れるまでアガリア王国の王家の湖の小島に戻る。その特性を利用して、勇者メナスも己の知識と考察を次の勇者であるゼノンに託した。
「お前が魔王だな」
勇者は魔王を見た。
「……魔王? 無粋な呼び方だな」
青銀の髪、真紅の瞳、竜の翼、竜の腕。
七大魔王の時代、勇者メナスが竜姫シャロンの事を竜王メルカトナザレに問いかけた事がある。
その時に聞いた話だ。彼がシャロンを山から海へ捨てた理由。それは同じように生まれた娘がいた為だ。
シャロンが生まれる前から在る『エルダー・ヴァンパイア』という呼称はその娘を現すものだった。
「メルカトナザレの娘、ヴァンパイアか」
「その名前は嫌いだ。それに、今では種族名となっているのだろう? 今のわたしはセレネだ」
その言葉と共に真紅の光が走った。見えた時点で攻撃は終わり、勇者の体にはいくつもの穴が空いていた。
「……魔菌とは何だ?」
「は?」
出来れば自分の代で終わらせたかった。けれど、この傷では無理だ。
だから、勇者は痛覚を遮断して問う。
「あの黒い棘の事だ。あれの出現を止めたい」
「……お前、何か勘違いしていないか? あれはわたしが生み出しているものではないぞ。……いや、正確ではないな。言ってみれば、すべての生き物が生み出しているものだ」
「つまり、人間界の魔菌は魔界から来たものではないという事か?」
「人間界? 魔界? なんだ、それは……。よく分からんが、お前が魔菌と呼んでいるものは性質上、どこにでも現れるものだ」
「……なるほど、レリュシオン達に対する感謝が足りていなかったようだな」
勇者は理解した。人間界と魔界は変わらない。ただ、炎王達が人間界の魔界化を食い止めてくれているというだけの事だった。
ガンザルディは識らなかったようだが、彼が元々人間だった為だろう。向かうべきは魔界ではなく、竜王山脈だったようだ。
苦笑しながらも次の勇者に齎すべき情報は得られた事を喜び、勇者はゆっくりと膝をついた。
その姿を魔王セレネが見下ろしている。
「……妙な奴め」
そう呟きながら、彼女は勇者に手を向けた。魔王の権能によってゲートが開かれ、彼は少し離れた場所へ移された。
そこは燃える大地。火山地帯から流れ続けている溶岩が極地の冷気に冷やされ、表面が硬質化している。
とても熱い。人間に耐えられる環境ではない。
「……聖剣よ。次の勇者を頼む」
勇者は微笑んだ。そして、聖剣は突然動き出した。
ここは魔界。この時代に資格者がいても、距離が遠ければ聖剣はその者の下へ向かう為に転移を使う筈だ。
浮遊で移動する理由が分からず、勇者は戸惑いながら聖剣を見た。そして、その切っ先の先を見た。
そこには見覚えのある首飾りがあった。親から貰った大切なもの。姉とお揃いで、姉が亡くなった時から肌見放さず持ち続けていた。いつの間にか落としていたらしい。
近くに斬り落とされた腕も転がっている。どうやら、セレネは掃除の為にここへ送ったらしい。ゴミをまとめて焼却する為に。
◆
勇者が危機に陥っている。事情も状況も分からない。だけど、そんな事は後で考えればいい事だ。
誰かが困っていたり、辛い目に合ってたら、まずは助ける。それがオレの信条だ。
幸い、オレには魔王の力がある。シャロンの場合は自称らしいけれど、それでも人の臨界を超える力だ。
『勇者様!!』
それなのに、唐突に風景が切り替わった。
「……え?」
そこはオレの部屋だった。
「危なかったですね……」
オレの肩をオズワルドが掴んでいた。
表情を強張らせている。彼らしくない。
「オズワルド様も見たのですか?」
「見ていません。しかし、あなたの魂が『勇者の御守り』を通じて彼方へ飛んでいく様を視ました」
「魂が……」
夢や幻ではないと考えていたけれど、幽体離脱は想定外だった。
だけど、さっきの光景が現実のものであるという確証を得られた。
「オズワルド様。勇者様が危機に陥っております! 何処か分かりませんが、魔獣達に襲われておりました。片腕を失い、このままでは……」
「……勇者様は現在、ゼロ地点に向かっておられます」
「ゼロ地点……?」
聞いた事がない。
「初代魔王が現れた地です」
初代魔王の事もゲームではあまり語られていない。フレーバーテキストに時々登場する程度の存在でしかなかった。
凄く気になる。だけど、今は置いておく。いくら勇者でも片腕を失った状態は危険だ。事は一刻を争う。無駄な思考や行動を取る余裕などない。
「オズワルド様。今から魔王の権能でゲートを開きます。どうか、先程のように御助力をお願い致します」
頷いてくれる筈だ。ゲームのオズワルドはマッドサイエンティストっぽい性格な上に見た目も胡散臭いけれど、常に主人公の味方をしてくれた人だ。
勇者の救出に対する協力要請を断る事は無いだろう。
だから、すぐに魔王再臨の準備を行う。そして、いざ変身しようとした所で彼は言った。
「……残念ながら、協力致しかねます」
「なっ!?」
意味が分からなかった。
「落ち着いて聞いて下さい」
オズワルドは言った。
「現在、アガリア王国の立場はとても危ういのです。なにしろ、一度禁忌を破っておりますから」
「で、ですが!」
「聞きなさい!」
体が強張った。いつもの彼とは違う。
「我々は勇者様の現況を知りません。勇者様が助けを求めている状況ならば問題ありませんが、そうで無い場合も考える必要があります」
言いたい事は分かる。勇者に対して、何かを強制する事は禁忌だ。
以前、オレが竜王に襲われた時、ネルギウス王は勇者の召喚を行った。その時は勇者が取りなしてくれたけれど、世界中がアガリア王国の敵に回る可能性もあったという。
今、アガリア王国は他国に対する信用を回復する為に様々な施策が行われている。
ここで勇者を救出する為とはいえ、同意も得ずに彼を転移させれば今度こそアガリア王国は窮地に立たされてしまう。
「レディ・フレデリカ。あなたには二つの選択肢があります」
オズワルドは言った。
「一つは心に蓋をする事です。見なかった事にして、湧き上がる義心を抑え込みなさい。それが貴女にとって最も良い選択です」
それは勇者を見捨てるという事だ。助けてくれた人に対して、恩を仇で返すという事だ。
「そして、もう一つは覚悟をする事です。これまでの人生が無駄となり、これからの人生が茨の道となる事を受け入れる。選ぶべきではない選択です」
それは許されざる大罪を背負う事だ。国を脅かし、王権に泥を塗る行為だ。
どれほど悩んでも答えなど出ない二択を迫られ、オレは怯みそうになった。だけど、そんな暇はない。
きっと、これはゲームのフレデリカも直面した難題だ。
ゲームでも彼女は勇者の御守りを持っていた。そして、彼女は王家から疎まれていた。アルが婚約を破棄した時、王や王妃が反対するシーンはなかった。他の貴族達も新たな王妃候補の誕生を祝った。
間違いなく、これが理由だ。
きっと、大きな問題にはならない。国は傾かず、オレはこの後もアルの婚約者で在り続ける。それは国よりも勇者を優先する事がこの世界にとって正しい事だからだ。
だけど、次期王妃となる者としては間違っている。王族はもちろん、他の貴族達もそう考える筈だ。
「わたくしは……」
オレに笑い掛けてくれるアルの顔が浮かぶ。オレに優しくしてくれるヴィヴィアンの顔が浮かぶ。オレに王妃の在り方を教えてくれるカトレア王妃の顔が浮かぶ。オレを認めてくれるネルギウス王の顔が浮かぶ。彼らの信頼を失う恐怖に体が竦みかけた。
だけど、勇者を見捨てる事なんて出来ない。我が身可愛さに見殺しなんて出来ない。そんな事をしたら、もうオレはオレじゃなくなってしまう。
「……オレは! 勇者を助ける!!」
言葉にした。男に二言はない。言ったからには覚悟を決めろ。アルに嫌われても、みんなから失望されても我慢しろ。
「『魔王再臨』!!」
体から真紅の魔力が溢れ出し、オレの姿は瞬く間にシャロンの物へ変化した。
胸元の勇者の御守りを掴む。瞼を閉じて意識を研ぎ澄ますと御守りから彼方へ続く一筋の糸を感じ取る事が出来た。
この先に勇者がいる。その糸にオレの魔力を流し込んでいく。王宮を超え、王都を超え、山を超え、海を超え、また山を超え、見えざる壁を超え、やがて勇者の下へ辿り着く。
『勇者様!!』
さっきと同じ場所だ。燃え盛る炎の中を駆け出した。だけど、勇者に近づく事が出来ない。
『なんで!?』
走っている筈なのに体が進まない。手足は動いている。だけど、まるで空を蹴っているかのようだ。地面の感触がない。触れている筈なのに!
焦っていると急に暗くなった。上を見上げると巨大な鳥が降りて来た。
見た目はカラスのようだけど、頭部や体が外殻に包まれている。そして、足は三本ある。
ゲームの中で見た事がある。日本神話に登場する八咫烏を彷彿させる妖鳥、シャムスだ。
『逃げて、勇者様!!』
走れない以上、叫ぶ事しか出来ない。
シャムスは体内で核融合を行い、擬似的な太陽を生み出す事が出来る。
フィクションだとよくある設定だけど、現実で目の当たりにすると悪夢でしかない。
『勇者様!!』
ようやく声が届いたようだ。勇者は聖剣を握っている腕を振り上げ、オレを見た。
『って、あれ?』
オレではなかった。勇者の視線は聖剣に向けられている。
彼らしくない表情だ。戸惑っている。
『えっと、たしか……』
ゲームで説明されていた事だ。聖剣には意思が宿っている。
勇者はバルサーラ教が選定していると言われているが、実際には聖剣が選んでいる。
『そうだ……、アリエル!!』
聖剣の銘を叫ぶ。すると、聖剣は眩い光を帯びながら飛んで来た。掴んでいる勇者と共に。
すると、シャムスが大地に降り立った。口を開き、その奥から陽光が溢れ出している。
『勇者様!!』
進む事も戻る事も出来ないけれど、向かってくる勇者に手を伸ばす事は出来る。
そして、手が彼の頬に触れた瞬間、オレ達は繋がった。
「……君は」
『『魔王の権能』!!』
考えている暇はない。オレは足元にゲートを開いた。
体が落ちていくと共に意識も落ちていく。




