第四十一話『オープニング』
そこはまさに地獄だった。まるで、龍に襲われているのかと思うような光景が広がっている。
紅蓮の大蛇がとぐろを巻くように蠢き、闇夜を真昼の如く照らしながら家々を焼いている。
「……これは」
炎の壁の向こうに無数の影が見える。人のような形、鳥のような形、樹木のような形、獣のような形、形容する言葉が見つからないような異形の形。
あれは死だ。人の身では抗う事の出来ない災厄だ。出会ってはいけないものだ。
その脅威の襲来に対して、エリンの守備隊の行動は迅速だった。この事態を確定した未来だと認識し、既に覚悟を決めていたのだろう。商人や非戦闘員を逃がす為の僅かな人員を除き、常駐している全ての軍人が魔獣の軍勢に立ち向かって行った。
そこが死地だと誰もが理解している。それでも立ち止まる者は一人もいなかった。
「殿下、避難しましょう!」
バレットの言葉にアルヴィレオは頭を振る。
彼は己の命を賭して他者を護る為に戦場へ向かう英雄達の姿を見た。その姿に敬意を抱きながらも、彼の頭脳は冷静に状況を分析した。
「……ダメだ」
「殿下!」
アルヴィレオは一週間前にマグノリア共和国へやって来た。そして、迷いの森やエリンの守備隊の練度について説明を受けた。
世界でも有数の危険地帯である迷いの森に対する防衛拠点だけあり、守備隊の実力はアガリアの王国騎士団にも匹敵する。故に一匹や二匹程度ならば損害を出す事なく討伐が可能らしい。
けれど、その数が十を超えた場合はエリンの全戦力を持ってしても全滅を避けられず、近隣都市の避難が開始される。
「魔獣の数が百を超えている。エリンの守備隊だけでは時間稼ぎにもならない」
アルヴィレオは国で己の帰還を待っている婚約者の顔を思い浮かべた。そして、アガリア王国とクラバトール連合国の国境付近で合流した王国騎士団の精鋭達を見つめる。
バルサーラ大陸の宗主国であるアガリア王国の第一王子が他国を訪問する為にはそれなりの見栄が必要となる為、父王が彼らを寄越したのだ。
「フレデリカ様が殿下の帰還を心待ちになされておられるのですよ!?」
バレットが必死に食い下がるが、アルヴィレオの決意は揺るがなかった。
「アルヴィレオ・ユースタス・ジル・オルティアス・ベルトルーガ・アガリアの名において命じる。ヴォルス・ベルブリック騎士団長。並びに全ての騎士よ! これよりエリンの守備隊と合流し、共に魔獣を討伐せよ!」
ここは異国の地だ。アルヴィレオの立場はあくまで貴賓であり、この場における最善は撤退である。
この状況下で彼が死ねば、マグノリア共和国とアガリア王国の間に亀裂が生じる可能性もある。あるいは戦争に発展するかもしれない。
そこまで分かっていながら騎士達に死を命じた理由は一つ。
「……エリンの軍勢だけでは魔獣の進撃を遅らせる事すらままならない。その場合、ボク達が撤退しても追いつかれてしまう。だが、王国騎士団が共に戦えば少なからず時間を稼ぐ事が出来る筈だ。いずれにしてもボク達は死ぬ。ならば、被害を減らそう」
この事態に対処出来る者は勇者を措いて他にいない。
エリンの守備隊に王国騎士団の力が加われば僅かであれ時間を稼ぐ事が出来る。防衛ラインが崩壊しても、その間に開いた避難民と魔獣達の間の距離は更なる猶予を与えてくれる。
そこから先は運だ。勇者が如何に早く来てくれるかで被害者の数が変わる。そこは祈るほかない。
「殿下」
王国騎士団団長であるヴォルス・ベルブリックはアルヴィレオの前で傅いた。
「拝命、承りました。今より、我々は魔獣の軍勢に攻め入ります。避難の間、護衛がバレット一人になる事をどうか御許し願いたく……」
「いや、避難はバレットだけだ」
アルヴィレオの言葉にバレットは表情を歪めた。
「何を言っているのですか!?」
「すまないが、騎士団には死兵となって貰う必要がある。命じたボクが逃げて、全ての騎士が心から異国の民の為に命を捧げる事が出来るかい? 逃げる主の為に命を捧げられるかい?」
「捧げられます! 殿下、非礼を詫びますが、我々の覚悟を甘く見ないで頂きたい!」
ヴォルス団長の言葉にアルヴィレオは目を細めた。
「甘く見ているわけではない。心から信頼している。だが、時間が足りない。真の覚悟を決めるにはそれなりの時間が必要だ。だから、足りない分をボクの命で賄う。君達の忠誠心を信頼しているからこそ、ボクは共に死ぬのだ」
その言葉と瞳にバレットはいつかの光景を思い出した。
―――― 勝てない相手に特攻しても無駄死にだ! 一人で済むならその方がいい!
竜王襲来事件の時、アルヴィレオの婚約者であるフレデリカ・ヴァレンタインは戦闘が始まる前に自分を囮にして他の者を逃がそうとした。
冷静に状況を分析し、その状況下で最も被害を抑えられる判断を即座に下す。その為ならば自分の命さえ惜しまない。
自暴自棄になったわけではなく、己の立場を忘れたわけでもない。
自分の死が齎すものを考慮した上で最も被害を抑えられる決断を下した。
「……似たもの夫婦」
騎士として、友として、アルヴィレオの死を受け入れる事など出来ない。けれど、他に方法など無い。
「殿下。オレだけ避難なんて出来ないよ。死ぬなら一緒だ」
「……今のお前は戦力にならない。むしろ、逃げるお前を守る為にヴォルス騎士団長の士気が上がる。なにより、ボクもお前の為を思えば恐怖に抗う事が出来る。お前の避難は必須だ」
「だから、生き恥を晒せって?」
「そうだ。生き恥を晒せ。それがボクからの最後の命令だ」
あまりにも残酷だ。それが単なる情からの命令ならば無視する事も出来た。死にゆく者同士の間に主従の格差など無いからだ。
けれど、戦力にならない者を逃がす事で死兵の士気を上げる一助となると言われては無視出来ない。
アルヴィレオと騎士団の死を無駄とするか、あるいは意義あるものとするか。
僅かでも意義ある死と出来る可能性があるならば是非もない。
「時間がない。これ以上の問答は無しだ。ヴォルス騎士団長、エリンの守備隊が壊滅する前に進軍するぞ」
「……かしこまりました」
エリンの守備隊が壊滅すれば終わりだ。それはヴォルス騎士団長やバレットも理解していた。
言いたい事が山ほどある。交わすべき議論が残っている。けれど、その為の時間は既に無く、バレットは涙を流した。
「殿下! 嫁さんに何て言えばいいんだよ!?」
「……『出会えて良かった。ありがとう』。そう伝えてくれ」
振り向きもせずにアルヴィレオは言った。それ以上は口を開かず、彼は騎士の一人の背中に乗った。
身体強化の魔法を発動した騎士達は死地へ向かって行く。その背中を見送る事しか出来ない事にバレットは表情を歪めた。
そして、戦場に背を向けた。
「……え?」
そこには女の子がいた。
◆
わたしは泣きながら走った。燃え盛る街に生者の気配はなく、気が狂いそうだった。
「わたしのせいだ……」
森から出るべきではなかった。わたしが戻らないからヴァイクが怒り、その怒りを恐れた魔獣達が森を出てしまった。その結果がコレだ。
ヴァイクを可愛く思うあまり、甘く考えていた。最初の日、アンゼロッテに見せられた魔獣に対して抱いた恐怖を忘れていた。
「誰か……、誰か……」
生きている人を探した。とにかく、誰か助けたかった。
そして、見つけた。
「……え?」
そこには男の子がいた。
「生きてた……」
わたしは彼に駆け寄った。
「あなたは一人!? 他に生きている人はいない!?」
「……き、君こそ一人なのかい!? いや、それよりも避難だ! こっちへ!」
彼はわたしの手を掴んだ。その時だった。
空から炎が落ちて来た。何かが爆発して、吹き飛ばされた瓦礫が燃えたまま飛んできたのだ。
「君、オレの後ろに!」
「あなた、わたしの後ろに!」
同時だった。互いに互いを庇おうとした。そのせいで掴み合う形になって、動けなくなった。
炎が迫って来る。逃げられない。死ぬ。
「……ったく」
目を見開いたわたしの前にアンゼロッテの背中が現れた。彼女が指を鳴らすと炎がかき消え、瓦礫も四散した。
「その格好……、アガリアの王国騎士団か!?」
アンゼロッテは男の子を見て言った。
「王国騎士団……?」
わたしがマジマジと見つめると、彼は小さく頷いた。
「は、はい。わたしはアガリア王国騎士団のバレット・ベルブリックです。助かりました。さあ、すぐに避難を!」
「待てよ。なんで、アガリアの王国騎士団がここに? 他にも居るのか?」
「王国の使者として参りました。現在、わたしを除く団員達が魔獣の討伐に向かっております。さあ、時間の猶予が御座いません! 急ぎ、避難を!」
彼の言葉を聞いて、わたしは彼の背中の向こうを見た。
すると、彼方に人影が見えた。
「そんな!? 死んじゃうよ!?」
「時間を稼ぐ為です! どうか、お急ぎ下さい!」
少年は焦ったように叫んだ。だけど、わたしの方が焦っている。
このままだと折角生きていてくれた人達まで死んでしまう。
「アンゼロッテ! その子をお願い!」
「はぁ? お前、何言ってんだ!?」
「わたし、助けなきゃ!!」
「なっ!? 何を言っているのですか!?」
少年が手を伸ばしてくるけれど、わたしは振り払った。
「わたしのせいなの! わたしが助けなきゃいけないの!」
「何を言ってるんですか!? バカな事を言っていないで逃げてください!!」
聞いている暇がない。アンゼロッテなら彼を護ってくれる筈だ。
だから、わたしは死地へ向かっていく人達を助ける。
「死なせるもんか!!」
わたしは大地を蹴った。そして、一足で戦場に辿り着いた。
◆
「なっ……」
バレットは目を疑った。いきなり、少女が光を帯び、その光が流星の如く戦場へ向かって行った。
「あのバカ……。おい、行くぞ」
「え?」
「安心しろ」
アンゼロッテは言った。
「誰も死なせない。罪の意識なんて、生きる上で何の価値もないからな」
そう言った彼女の眼光が紫色に輝いた。
「『魔王の権能』」
その言葉と共にゲートが開かれた。
「これは……」
「この先に避難させた連中がいる。すまないが、面倒を見てやってくれ。すぐに他の騎士達も送り込む」
「……貴女は、一体?」
「森の魔女さ」
そう言うとアンゼロッテはバレットに触れた。彼の体はふわりと浮かび、ゲートの奥へ飛んでいく。
「……どうか、殿下を」
ゲートを閉じる間際、その言葉が聞こえた。
「殿下? おいおい、アガリアの王子が来ているのか?」
頭を抱えそうになりながら、アンゼロッテは再びゲートを開いた。
その先には光を帯びたエルフランの姿がある。
「丁度いいか」
初めて魔獣を見せた時と同じ事が起きている。おそらく、感情の昂りがキーとなっているのだろう。
得体の知れない力だが、発動してしまった以上は仕方がない。この機に全容を解明しよう。
「とりあえず、先に避難させておくか」
そう呟くと、アンゼロッテはゲートを潜った。
◆
まるで空から星が落ちてきたのかと思った。
その少女はボク達の前に降り立った。
「……君は」
答えは返って来ない。彼女は呆気に取られている騎士団や守備隊の間をすり抜けて、魔獣達の侵攻を阻んでいる結界の壁に向かっていく。
あの結界は守備隊が魔獣達に攻撃を開始する前に突如出現したものらしい。王都に張り巡らせている結界と同規模のものだ。
だから、初めは叔父であるオズワルドが駆けつけてくれたのかと思った。
その結界を超えた先で立ち止まり、彼女は呟いた。
「『タイプ:ジュリア』」
彼女の手の中に光の弓が現れた。その弦を引くと、眩い光が煌めいた。
あまりにも眩しくて、目を開けていられない。
「……女神?」
まるで、バルサーラ教で信仰されている女神サーラが降臨したのかと思った。
そして、矢が放たれた。
光の矢は弓から放たれた直後に分散し、魔獣の群れに襲い掛かる。百を超える魔獣が尽く葬り去られていく。
「なんだ、あれは……」
ヴォルス騎士団長が声を震わせた。
明らかに人智を超えた力だ。人の臨界を超えた存在。それはまるで……、
「……勇者様?」
騎士の一人が呟いた。違う事は分かっている。勇者は男だ。女の勇者が居たと聞いた事はない。
けれど、清廉な輝きを宿した姿は神の祝福を受けた者に違いない。
「え?」
いきなり体が浮いた。そして、地面に穴が開いた。
衝撃の連続で思考が追いつかない。その間にボク達は穴に落ちた。そして、目の前にバレットがいた。
「……バレット?」
「殿下!」
そこは戦場から遠く離れた草原地帯だった。騎士団と守備隊もいる。他にも商人らしき人や子供の姿がある。
「一体、何が……」
「どうやら、救われたようです」
バレットは彼方に視線を向けた。燃えていた筈の街の火が消えている。その彼方に蠢いていた筈の魔獣の姿も無い。
危機が去った。その事を悟るまでに数秒を要した。
「……彼女は」
アルヴィレオは光輝く少女の姿を忘れる事が出来なかった。




