第三十五話『王妃教育』
最近、王宮が慌ただしい。数日前に獣王が迷いの森を出て、王都アザレアの南部に位置するレムリアという街に姿を現した事が原因だ。
どうやら、バナナを盗んで行ったらしい。その後は寄り道する事もなく迷いの森へ帰って行ったそうだ。
猿がバナナを盗んで行った。それだけなら微笑ましいニュースだけど、相手が獣王となると話が変わってくる。
なにしろ、獣王は最強の魔獣だ。例え話ではなく、実際に世界を終わらせる力を持っている。
「フリッカちゃん! 次はこれよ!」
「……はい、王妃様」
だけど、オレに出来る事など何もない。
獣王は既に森へ帰っている。今は政治の時間だ。国の重鎮達が国を守る為に奔走している。
アルやヴィヴィアンも国民の不安を拭うために近々村や街を回る事になっている。
「うーん! これも可愛いわ!」
その一方でオレは王妃の着せかえ人形になっていた。
これも王妃教育の一環らしい。なんだか、想像していたものと違う。
「……ありがとうございます」
乙女趣味全開な服を次々に着せられて、少し疲れて来た。
「フリッカちゃん」
「はい」
王妃は不満そうな顔をしている。疲労が顔に出ていたのかもしれない。
「……あんまり、可愛い服に興味はない?」
「いえ、そんな事は! どれも大変に可愛らしく、素敵な服だと思います。このような服を着せて頂いて大変に心嬉しく思います」
シェリーとアナスタシアに徹底的に鍛え上げられた笑顔を浮かべる。
けれど、王妃は余計に顔を顰めた。
「お、王妃様……?」
「よし! 庭園に行くわよ!」
「かしこまりました」
なんだか行き当りばったりな気がする。
王妃の仕事も教えてもらっていない。
王妃教育というより、王妃の遊び相手を務めている気分だ。
「ジャジャーン! どう? 綺麗でしょ!」
王妃はもうアラフォーな筈だけど、天真爛漫という言葉が似合う十代の女の子にしか見えない。
「まあ、とても素敵ですわ!」
オレはシェリーに仕込まれた通りに感激して見せた。
恐らくはこういう反応を期待していたと思うのだけど、またしても王妃は顔を曇らせた。
「……こ、こっちには果樹園もあるのよ!」
「果樹園で御座いますか!?」
「うん!」
◆
果樹園は素晴らしい所だった。
いろいろなフルーツの木が所狭しと並んでいて、それを二人で収穫して食べた。
「美味しい! 最高!」
甘く熟した桃を齧ると頬を落ちそうになった。
「王妃様! 次はアレ食べてみましょうよ!」
視線の先には獣王が盗んだ事で話題のバナナが生っている。
王妃の手を引いてバナナの木に向かい、一房もぎ取った。
「あっまーい!」
これまた絶品だ。公爵領でも好きな時に好きなフルーツが食べられたけど、もぎたては格が違った。
「王妃様、次はあっち! あっち食べてみましょう!」
「はいはい。慌てなくても大丈夫よ、フリッカちゃん」
王妃も果物に御満悦の様子だ。その顔には輝くような笑顔が浮かんでいる。
それからオレ達はお腹いっぱいになるまでフルーツを食べた。
◆
王妃教育の為のサロンに戻って来ると二人揃ってソファーに沈み込んだ。
「美味しかったー」
とても幸せな気分だ。
「王妃様、ありがとうございます! とっても美味しかったです!」
御礼を言うと、王妃は微笑んだ。
「嬉しいわ、フリッカちゃん。やっと、本当の貴女と会えた」
オレは王妃の言葉に首を傾げた。
「本当のわたくしですか?」
「うん」
王妃はオレを見つめながら言った。
「フリッカちゃん。貴女は一年前と比べて自分を偽る事が上手になっているわ」
「……申し訳御座いません」
そう言われると、自分がペテン師になった気分だ。
「責めているわけじゃないのよ? そういう教育を受けて来たのだと分かっているし、それは王妃として必要な技能だもの。だけど、それはあなたに指導した人が作り出した仮面。貴女という個を完全に殺してしまっているわ」
むしろ、殺す為に身に着けた技能だと思う。
多くの人がありのままのオレを肯定してくれたけれど、それは公爵令嬢としてだ。王妃となる者に相応しい在り方とは思えない。
だからこその仮面だ。
「その様子だと分かっていないみたいね」
王妃は言った。
「貴女は王妃をどのような存在だと思っているの?」
そんなの分からない。
シェリーやアナスタシアの思想はどちらも正しくて、どちらも間違っていると思った。だけど、深く考えた事はない。
なにしろ、オレは次期王妃だけど、実際に王妃になる事は無いからだ。
「王妃は王を守るものよ」
王妃は言った。
「フリッカちゃん。王を守るために必要な事は何か分かる?」
「……受け止める事でしょうか? 王の責務や重圧に対する苦しみや苦悩を……」
「それも大切ね。だけど、もっと重要なものがあるの」
「もっと重要なもの……」
分からない。武力ではないと思うけど、それ以外の王を守る為に必要なものって一体……。
「それは理解する事よ」
「理解ですか?」
「そうよ。そして、貴女は既にアルヴィレオの事を理解してくれている。あの子から聞いたわ。貴女、あの子に言ったそうね。『アルはもう王様なんだね』って」
「……は、はい」
確かに言った。
「アル自身も気づいていなかった事に貴女は気がついた。そして、その在り方を肯定した」
王妃は言った。
「あの子が王なら、貴女はとっくに王妃だったのよ。だから、わたくしが貴女に教える王妃教育の第一歩は『貴女が貴女らしく在る事』よ。それが何よりも大切な事なの」
あの着せ替えや庭園の散歩はオレの素を引き出す為のものだったようだ。
まったく気付かなかった。
オレはいつの間にか思考を放棄して物事をあるがまま受け入れるようになっていた。
ヴィヴィアンにも指摘された事だ。モノ扱いされても不満に思わない。腕にアザを作られても気にしない。そんなものは思考を放棄しているだけだ。
王妃の言葉が心に染み込んでくる。
相手を理解しようともせずにサンドバッグになる事が受け入れる事になんてならない。
相手を理解して寄り添い、包み込む器となる。それが受け入れるという事だ。
「フリッカちゃん。わたくしが貴女に教えられる事はそんなに多くないと思うわ。だって、貴女は必要な素養を既に備えているんだもの」
そう言って、彼女は微笑んだ。
王妃になる為の素養を備えている。それは元男として喜んで良いものか微妙だ。
だけど、王妃に認めてもらえた事は素直に嬉しかった。
「アルが貴女を愛しているように、貴女もアルを大切に想ってくれている。今は恋ではないのかもしれないけれど、いつか想いが通じ合う事を信じているわ」
ドキッとした。恋ではないのかもしれない。その通りだけど、婚約者の母親にそう言われると気まずくなる。
そう考えていると王妃はクスクスと微笑んだ。
「いいのよ、それで。だって、政略結婚だもの。だけど、覚えておいてね? 政略結婚の相手に恋をしてはいけない、なんてルールはないの。貴女達にはこれからたっぷりと時間があるのだから、ゆっくりと愛を育んでいけばいいのよ」
「……はい」
きっと、それは経験談なのだろう。
王妃と王はとても仲睦まじく見える。彼女達も政略結婚だったのだろうけれど、それからゆっくりと愛を育んで恋をしたのだろう。
「さあ、次は王妃教育のレッスン2! 明後日から国中を走り回らなければいけない息子を励まして来てくれるかしら?」
「はい!」
オレは王妃に別れを告げるとアルの部屋へ向かった。
忙しいかもしれないけれど、今のオレはアルの婚約者だ。
「アル!」
「フリッカ!?」
目を丸くするアルに抱きつく。
「長旅になるって聞いた」
「……うん」
「オレ、待ってるからな!」
「うん!」
アルもオレの背中に腕を回して来た。
バランスを崩してベッドに倒れ込む。
「……フリッカ、愛しているよ」
「ああ、オレも愛してるぜ!」
オレはアルが大切だ。これが恋に変わる事は無いだろう。だけど、友愛だって、立派な愛だ。
「いってらっしゃい、アル」
「いってきます、フリッカ」




