第三十四話『獣王ヴァイク』
森での生活にも慣れて来た。わたしはアンゼロッテから貰った白紙の本に日記を認める事にした。
それはエルフラン・ウィオルネとしての自分を保存する為だ。
わたしは記憶喪失であり、過去の自分を知らない。今の自分と何も変わらない人間だったのかもしれないし、もしかしたら、とんでもない悪人だったのかもしれない。
少なくとも、今のわたしは悪人ではない。悪い事はダメな事だと考えているし、人に感謝する事も出来ている。
だから、今のわたしを保存しておく。もしも記憶が蘇って、わたしが悪い人になったら、今のわたしに止めてもらう為に。
「……さて、今日も」
一日の出来事を書き留めよう。
★
「おはよう!」
「おはよう。相変わらず元気だな」
アンゼロッテは苦笑しながら紅茶を淹れてくれた。
甘くて美味しいアンゼロッテのオリジナルスイーツも一緒だ。
「じゃあ、朝ごはん採ってくるね―!」
「おう!」
いつものように外へ出る。今日は霧が濃い。
「こういう時は! トルス ラザン!」
呪文を唱えると霧が少し薄くなった。
最近、アンゼロッテに魔法を教えてもらっているのだ。
「ふふふ、魔法少女エルフラン!」
キュピーンとポーズを決めてみる。
「……ウキ?」
すると、霧の向こうから猿が現れた。
ポカンとしている。
わたしは恥ずかしくなった。
「い、いや、今のは違くて……」
「ウキィ」
なんで、わたしは猿に言い訳してるんだろう……。
「って、猿!?」
わたしは目を見開いた。
この辺りは獣王の支配領域と呼ばれている。あまり詳しくはないのだけど、獣王はとにかく強い魔獣の王様らしい。
他の魔獣は獣王を畏れ、支配領域には決して足を踏み入れない。
その領域に佇む猿。アンゼロッテは獣王を『あの猿』とよく言っていた。
「……じゅ、獣王?」
「ウキ!」
なんでだろう。
「あなたが……、ヴァイク」
「ウキィ」
とても恐ろしい存在だと聞いている。
魔獣だけでなく、人からも恐れられている世界最強の生物。
その拳は大地を砕き、空を割る。その疾走は音を置き去り、その雄叫びは植物を恐怖で枯らす。
遥か昔、万の軍勢が迷いの森を領地とするべく侵攻し、最初の一人が森へ踏み込んだ瞬間に全滅したらしい。
魔王と呼ばれた者でさえ獣王の怒りに触れる事を恐れたという。
「か……、か……」
だけど……、
「かわぇぇ!!」
その最強の獣はわたしの好みにドストライクだった。
思わず抱きつくと、そのまま頬ずりした。
「可愛い! すごく可愛いよ、君!!」
「ウキィ!」
黒い毛皮は思いの外素晴らしいモフリティだった。
「モフモフだ! すごく、モフモフだ!」
「ウッキィ!」
みんなが恐れているという話が信じられなくなった。
だって、こんなに可愛い生き物をどうしたら恐がれるの? わたしには無理だ。
「エル!?」
家から慌てたようにアンゼロッテが飛び出して来た。そして、悲鳴を上げた。
「お、お、お、お前、なにやってんだ!?」
「アンゼロッテ! モフモフだよ! ヴァイク、すっごいモフモフだよ!」
「知らねぇよ!! はやく離れろ!! そいつは獣王だぞ!!」
「ヤダ! ねえ、アンゼロッテ! ヴァイク、うちで飼えないかな!?」
「正気か!?」
わたしはヴァイクをウットリしながら見つめた。
「やっぱり、バナナが好きなのかな?」
「ウキィ?」
「アンゼロッテ! 餌あげたい! バナナない!?」
「バナナ!? なんで、バナナ!?」
「だって、お猿さんだよ! お猿さんならバナナでしょ!?」
「いや、聞いたことないぞ!?」
「バナナ無いの!?」
「ねぇよ!! 熱帯のフルーツだぞ!! アガリア王国辺りまで行かなきゃって……、ヴァイク!?」
いきなりヴァイクの姿が消えてしまった。
「およよ?」
「ま、ま、まさか!?」
アンゼロッテは青褪めた表情で右の方を見つめている。
「どうしたの?」
「ヴァイクの野郎!! バナナを取りに行きやがった!?」
◆
その日、世界が震撼した。
突如、獣王ヴァイクが迷いの森を飛び出したのだ。
空白の百年と呼ばれた時代以前から森を出る事の無かった獣王の突然の行動に人々は一年前の竜王襲来事件を思い出した。
そして、各国が国家間緊急通信用魔法具で緊急の会議を開こうとした時、既に獣王は森へ帰っていた。
後に獣王が果物屋のバナナを盗んで行ったという事実が判明し、とある公爵令嬢は『……ああ、猿ってバナナ好きだもんな―』と呟いたという。
◆
消えたと思ったらヴァイクが再び現れた。その手にはバナナが握られている。
「わぁ! バナナだ!」
「……よく、バナナが分かったな」
「ウキ!」
頭の良い子だ。わたしは頭を撫でてあげた。
「ウキャキャ!」
喜んでいる。可愛い!
「よしよし、バナナ食べようねー!」
わたしは皮を剥いてあげた。程よく熟していて美味しそう。
「はぁい、あーん!」
「ウッキィ!」
大きく開かれた口にバナナを突っ込む。
「美味しい?」
「ウッキィ!」
ヴァイクは嬉しそうだ。
「かわぇぇ……」
「ウキィ」
ウットリしていると、ヴァイクが腕を引っ張った。
「どうしたの?」
「ウキウキ」
どこかに連れて行きたいようだ。
「どこ行くの―?」
わたしは引っ張られるまま森の奥へ進んでいく。
「少しは疑問とか、警戒心とか持たないのか!?」
アンゼロッテも追い掛けてきた。
「だって、ヴァイク可愛いもん!」
「可愛いもん! じゃねぇ!!」
ぷりぷり文句を言いながらもアンゼロッテはわたしを無理矢理連れ帰ろうとはしなかった。
ハラハラした様子でわたし達を見守っている。
それがなんだか嬉しかった。
「ウキ!」
そして、廃墟に辿り着いた。
「……ここは」
元々は立派な屋敷だったようだ。
だけど、今はどこもかしこも崩れかかっている。
「これは……」
アンゼロッテも初めて見るようだ。
驚いた表情を浮かべながら廃墟を見回している。
「ウキ! ウキ!」
ヴァイクは廃墟の中に飛び込むと何かを持って来た。
「なに?」
持って来たのは一枚の絵だった。色あせているし、ところどころ破けたり滲んだりしている。
その絵の中には黒く塗られた部分があった。よく見ると生き物のようだ。
「ヴァイク?」
「ウキ!」
当たっていたらしい。だけど、他の部分は何を描いたものなのかさっぱり分からない。
「……そっか」
それでも分かる事がある。
ここはヴァイクの家だったのだ。
「アンゼロッテ! この屋敷、直してあげられないかな!?」
「ん? 出来なくはないが……」
アンゼロッテは廃墟に向けて手を翳した。
すると、いきなりヴァイクが毛を逆立てた。
「ウギィ!!」
「なっ!?」
ヴァイクがアンゼロッテの目の前に現れて、何かを斬り裂いた。
どうやら、アンゼロッテはバリアを張ったようだ。
「ど、どうしたの!? ヴァイク、落ち着いて!」
「ウギ……、ウキィ」
わたしが駆け寄るとヴァイクは落ち着いてくれた。
「……わたしが触るのはダメらしい。直したいならお前が直せ、エル」
「わたしが?」
「エルならいいんだろ?」
アンゼロッテが問いかけると、ヴァイクはわたしを見た。
つぶらな瞳は『うん』と言っている気がした。
「よし、分かった! 可愛いヴァイクの為だもの! わたしがこの廃墟を直してみせるよ!」
その為には!
「アンゼロッテ! もっと魔法を教えて!」
「……そうなるよな。はいはい、りょーかいだ。ただ、お前の場合は素材を使わないと難しいな」
「素材?」
「ああ、魔法だけで修繕するとなると数年は修行が必要になる。そんなに待てないだろ? 補修の為の素材があれば、もっと簡単に直せるんだ。そうだな……、この壁は西の岩場の土を使っているようだ。まずはそれを集めてみろ」
なんだか大変そうだ。だけど、ヴァイクの為なら頑張れる気がする。
「オッケー! わたし、がんばる!」
「……お前、そんなにヴァイクを気に入ったのか?」
「うん! だって、可愛いもん!」
「ふーん……」
アンゼロッテはヴァイクを見た。
「まさか……」
「アンゼロッテ?」
「……なんでもない。それより、素材集めもいいが先に朝食だ。私は食材を調達してから戻るから先に帰ってろ」
「ほっほーい!」
「……気の抜ける返事だな」
その言葉に既視感を覚えた。
―――― お前ら、ほんと……、気の抜ける返事するなぁ。
誰に言葉か思い出せない。男の人なのか、女の人なのかも分からない。
だけど、そうか……。
「わたし、昔も使ってたんだ」
アンゼロッテが食材調達の為に去って行った後、わたしは呟いた。
「ほっほーいって」
たしかに気の抜ける響きだ。
「わたし、昔も今も変わらないのかな?」
ちょっとホッとした。
★
それからわたしはヴァイクと一緒に家へ戻った。ヴァイクは家に入らず、そのまま廃墟の方へ帰って行った。
あの子の為に廃墟を何とか直したい。それに、今まで毎日を何となくで生きていたから、目的が出来た事は良い事だと思う。
朝食の後、わたしは髪を結んだ。なんとなく、気合を入れる為に必要な事だと思ったからだ。
髪を編み上げて、スコップと籠を担ぐ。そして、家と西の岩場を行ったり来たりしている内に一日が終わってしまった。
日記を書いている今も体の節々が痛い。
だけど、へこたれない。
「……よし! 明日もがんばるぞ! おー!」
日記を閉じて、わたしはベッドにダイブした。
お布団、ワタシ、ダイスキ。




