第十九話『シェリー・ブロッサム』
その晩、ロベルトの執務室にアイリーンがやって来た。
ロベルト・ヴァレンタインは混乱した。朝、執務室を出て行ったアイリーンが小さくなって戻って来たからだ。
あの見事な上腕二頭筋がすっかり萎んでしまっている。
「ど、どうしたんだい!?」
ロベルトは狼狽えた。
「……お嬢様に永遠の忠誠を御誓い申し上げました」
「『忠誠の騎士』というスキルの影響かい?」
「はい。まだ完全には把握出来ておりませんが、肉体が最適化されたようで御座います」
「肉体が最適化……? しかし、筋肉が……」
「わたくしも戸惑いましたが、筋力自体は落ちていないようなので御座います。無駄が削がれたと言いましょうか……」
「そ、そうなのか……。とにかく、体に害は無いのだろうね?」
「はい、問題御座いません」
「そ、そうか……」
ロベルトは安堵した。
「……アイリーン。後悔は無いのかい?」
「御座いません。ロベルト様、わたくしの嘆願を御聞き届け下さり、誠に感謝申し上げます」
「礼を言うのは此方の方だよ。俺にとって、フリッカは大切な宝物だ。その宝物を任せられる相手なんて、君以外に居ないよ。だから、どうにか父上や陛下を説得出来ないか悩んでいた所だったんだ」
「……勿体無き御言葉で御座います」
深く頭を下げるアイリーンにロベルトは微笑んだ。
「これからもフリッカを頼むよ」
「かしこまりました」
ロベルトは下がっていいと合図を送った。けれど、アイリーンは動かなかった。
「……ロベルト様。一つ、よろしいでしょうか?」
「ん? どうかしたのかい?」
「お嬢様の教育についてです」
「フリッカの?」
ロベルトはフレデリカの教育を家庭教師のシェリー・ブロッサムに一任していた。
なにしろ、ロベルトは淑女の教育など受けた事がない。それに淑女の教育を男性が識る事は良くない事だと言われている。
「……どうかしたのかい?」
「家庭教師のシェリー・ブロッサムの教育は行き過ぎております。如何に王妃教育の前準備とは言え、あれではお嬢様が潰されてしまいます!」
「どういう事かな?」
ロベルトは表情を引き締めてアイリーンの言葉を待った。
「食事の時間はマナーを覚える時間です。そして、お嬢様は既に完璧にマナーを覚えていらっしゃいます」
「そ、そうか! さすがはフリッカだ!」
「ですが、シェリーはそれで満足しませんでした。少量の品を大量に並べ、一つ食べる度に作るべき表情を指導していました。そして、その食事に対して、どういう感想を持つべきなのか、どういう話題に繋げるべきなのかも指導しておりました」
「……必要な事なのだろう?」
「たしかに食事の際にも求められる所作があります。しかし、あれはやり過ぎです!! あれではシェリーの思想をお嬢様に植え付けているだけの洗脳です!!」
「せ、洗脳……。しかし、彼女は実績ある家庭教師で……」
「それだけでは御座いません! 食事の後の庭園での散歩中も花の知識を指導するだけならばともかく、その花に対して取るべき反応を一つ一つ……」
「アイリーン。たしかにフリッカは大変な思いをしていると思う。俺も胸が苦しくなる。だけど、フリッカは未来の王妃なんだ。だから、どうしても必要な事なんだよ」
「……シェリー・ブロッサムは王妃様では御座いません」
アイリーンは言った。彼女がこれほど不快感を示す姿をロベルトは今まで見た事がなかった。
「王妃様に相応しい所作を教えられる人間は王妃様だけです!」
「アイリーン……」
声を荒げるアイリーンにロベルトは戸惑った。
もしかしたら、本当にシェリーはやり過ぎているのかもしれない。
その考えが過ぎった時だった。執務室の扉が叩かれた。
「シェリー・ブロッサムです」
「……入れ」
タイミングが良いのか悪いのか、シェリーが入って来た。
彼女はアイリーンにチラリと視線を向けるとロベルトに頭を垂れた。
「お話中に申し訳御座いません。前を通りかかった所、どうやらわたくしの教育について話されている御様子だったもので」
その言葉にロベルトは目を細めた。
「……丁度いい、シェリー。君の教育について、君自身から御説明願いたい。君の職務はあくまでも王妃教育の前準備だ。行き過ぎた指導を行っているのならば少々加減してもらいたいのだが」
「はい、ロベルト様。わたくしは事前に考案していたカリキュラムを二度程修正致しました」
「カリキュラムを修正?」
「ロベルト様。そして、アイリーン様」
シェリーはロベルトとアイリーンを見つめた。アイリーンはフレデリカの専属使用人という立場の為、彼女よりも上の立場にある。
「フレデリカ様は特別な御方で御座います」
シェリーは瞳を輝かせながら言った。
「最初の修正は基礎の教養教育が不要となった為です。あの歳の御令嬢であれば、まだまだ基礎を教えなければいけない段階の筈でした。しかし、お嬢様は必要な知識をすべて備えておられました!」
「……お嬢様が基礎教育をすべて完了している事は事前にお渡しした資料に書いてあった筈ですが?」
アイリーンがジロリとシェリーを睨みつける。
「誠に申し訳御座いません。わたくしは信じる事が出来ませんでした。何故なら、わたくしはこれまでに多くの貴族の御令嬢の方々を教育して来たからです。多くの貴族の方が事前に提出して下さる資料と御令嬢御本人には常に差異が御座いましたから」
あり得る話だとロベルトは思った。
彼もフレデリカを美の化身であり、神の如き叡智を持つ世界の宝と記入しようとしてグウェンダルに止められた。
そのグウェンダルから何も報告を受けていなかったからこそ、ロベルトはシェリーに任せきりにしてしまっていた。
アイリーンの進言が正しかった場合、グウェンダルにも一度話を聞く必要があると考えながら、ロベルトはシェリーの言葉に耳を傾ける。
「しかしながら、フレデリカ様は資料の通り……いいえ、それ以上の御方で御座いました!」
シェリーは興奮した様子で言った。
「卓越した頭脳! 泣き言一つ言わずにわたくしの指導について来られる強靭な精神! そして、なによりも! フレデリカ様は御自身の立場を深く理解しておられます!」
彼女はまるで神の啓示を受けた巫女の如く、胸に手を当てながら瞼を閉じて言った。
「わたくしは悟りました。この御方はまさしく王妃となられる尊き御方だと。今までに指導して来た令嬢達と同じカリキュラムで指導するなど不敬の極みだと!」
大きく目を見開き、彼女は言う。
「フレデリカ様の家庭教師として、わたくしはフレデリカ様に相応しき教育を行わなければならないと考えました。だからこそ、普通の御令嬢であったアイリーン様には厳しく見えてしまったのかも知れません」
そう言うと、シェリーはアイリーンに対して微笑んだ。
「フレデリカ様はわたくしの指導に加え、敢えて自由にして構わないと申し上げた学習の時間を専門の知識を蓄える為の時間として費やされるのです! その御姿を見て、わたくしは感動致しました!」
そう言うと、途端に彼女は表情を消した。
「……貴族の世界において、女は政治の駒でしかありません。政略結婚の為に消費され、その後は夫の後継者を産むための道具として扱われます。わたくしはその為に令嬢達を指導して参りました。如何に男に気に入られるか、如何に傷つけられないように立ち回れるか……」
まるで泣きそうな顔で彼女は言った。
「しかし、フレデリカ様は男の道具で終わる器では御座いません! あの御方こそ、王の器なのです。王妃教育は今の王妃様と同じ道を辿る為のもの……。しかし、フレデリカ様ならばその先へ! アルヴィレオ皇太子を正しく導く真なる王となる器を持つ御方なのです!」
ロベルトは顔を顰めた。シェリーの顔には狂気が浮かんでいる。
彼女の言動の節々からそうなってしまった原因を覗き見る事が出来た。
―――― 息子が生まれた時は後継者が生まれた事を喜び、娘が生まれた時は有用な駒が手に入ったと喜べ。
それは父の言葉だ。そして、それが貴族の考え方だ。
その思想に異議を唱える者は少なくない。ロベルト自身も反感を持っていた。そして、シェリーもそういう人間だったという事だろう。
間違っているとは言わない。王妃となるフレデリカを教育する機会を得て、フレデリカに現状を変えてもらいたいと考えてしまった事は罪ではない。
けれど……、
「だから、わたくしは!」
「……もういい、シェリー。君は解雇だ」
ロベルトの言葉にシェリーは目を見開いた。
「……ロ、ロベルト様? あ、貴方様ならば御理解して頂ける筈です! フレデリカ様ならばきっと……」
「分かるよ。君の気持ちはよく分かる。だけど、それをフレデリカが望んだのかい?」
その言葉にシェリーは唇をキュッと締めた。
フレデリカが何を望んでいるかなど、シェリーには分からなかった。
そもそも、彼女と教育を挟まぬ私的な会話など一度もしていない。
「フレデリカが優秀だなんて事、俺やアイリーンはとっくに知っていたよ。あの子は頭が良くて、すごく優しくて、誰よりも愛らしい子だ。あの子なら君の理想を叶えられる存在にも成れるだろう」
「で、でしたら……」
「だけど、それがフレデリカの幸福に繋がるとは思えない。あの子は世界を変えるよりも穏やかな日々を過ごす事に幸せを感じる子だからね」
ロベルトは言った。
「君は君の思想をフレデリカに押し付けてしまった。そのような者にはフレデリカを任せられない」
シェリーは顔を歪めた。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……かしこまりました。荷物を纏めます」
そう言うと執務室を出て行った。
「納得してはもらえなかったか……」
「念の為、お嬢様の部屋へ戻ります」
「ああ、頼む」
ロベルトは深く息を吐いた。
「グウェンダルにも話を聞かねばならないな……」
◇
それはアイリーンが生きていたからこその出来事だった。
彼女が居なければ、フレデリカ・ヴァレンタインの教育は今のまま際限なく厳しいものになっていた。
その事を知らずにフレデリカはアイリーンが持って来てくれると約束したお菓子と紅茶を楽しみに待っているのだった。
「まっだかなー」




