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第百二十七話『心の傷』

 アザレア学園の中央に聳えるアガリア塔の最上部に彼はいた。

 黄金の髪を靡かせながら、眼下で寮兄や寮姉に食事を届ける為に駆け回っている生徒達を見つめている。生徒達の動きを追いかけていると寮毎の特徴が現れていて、実に面白いと彼は感じていた。

 例えば、アガリア寮やレッドフィールド寮の生徒はほぼ全ての生徒が使用人や厨房のスタッフに料理から配達までを全て任せている。対して、サリヴァン寮やリエン寮、リード寮の生徒は自分で調理する者が多く、ミリガン寮の生徒は獲物を狩りに学園の外へ飛び出そうとして、学園内の狩猟場へ案内されていた。


「……あれが本質か」


 寮の選定は学園の前身であるシュテルヴィスクを創設した魔女の意思が行っている。後の世に聖女と呼ばれるようになった彼女は人の本質を見抜く『眼』を持っていた。彼女が選んだ以上、寮の選定に間違いはない。

 レッドフィールド寮に選ばれた生徒はウェントワースと同じ気質も持ち、リード寮に選ばれた生徒はクレアと同じ気質を持っている。

 逆説的に言えば、生徒を見れば寮名の由来となった英雄の気質が知れるという事だ。

 優柔不断な者ばかりの寮の由来となった英雄もまた……。

 

「それにしても、あんな風にも使えたのか……」

「なんの事だ?」

「彼女の魔法だよ」


 突如として背後に現れた仮面の男の問い掛けに、彼は動じる事なく答えた。

 

「アレは人を殺す為の力だ。けれど、彼女は人を生かす為に使った。実にユニークだ」

「……元々、魔王の力は人を殺す為にあるわけではない」

「それは初代と二代目の話だろう? あの力は紛れもなく人を殺す為の力だ。少なくとも、人々はそう認識している」


 彼の言葉に仮面の男は押し黙った。


「だからこそ、ユニークだ」


 彼はジッと一人の少女を目で追い、ゆっくりと息を吐いた。


「……もう、居ないんだな」

「当然だ。死者は蘇らない」


 仮面の男は冷たく言い放った。


「だから、命は大切なんだ」

「……分かっているさ」


 彼の頬を涙が伝った。ぼやけた視界を服の袖で拭い、また少女の姿を追いかけて、面影が残っていないか探してしまう。髪の色も瞳の色も違う。表情の作り方さえ、彼が思い浮かべている少女とは違っていた。


「彼女はシャロンではない」

「ああ、そのようだ……」

「……妙な事は考えるな。オレはお前を斬りたくない」


 その言葉に彼は苦笑した。


「ああ、君に斬らせたりはしないよ。折角、勇者を生きて引退出来たんだ。後は心豊かに余生を過ごしてくれ」


 そう言うと、彼は立ち上がった。


「ウェスカー・ヘミルトン」

「……なんだい? ゼノン・ディラ」


 互いに死者の名を呼び合いながら、二人は見つめ合った。


「お前は何の為にここへ来た?」


 嘗て、勇者ゼノンと呼ばれた男が問う。

 

「……様子を見に来ただけさ」


 嘗て、冒険王ウェスカーと呼ばれた男は先程まで目で追いかけていた少女とは別の少女を一瞥しながら答えた。


「まだ時間はある」

「だが、無限ではない。エルトリアの策で稼げた時間はおよそ六年。そこで彼女が己の権能を得られなければ……」

「生かす事を選んだのだろう?」

「ああ、そうだ」


 そう呟くと、ウェスカーは姿を消した。


「……心配しなくていい。きっと、今度は大丈夫だ」


 そう呟くと、ライもその場を後にした。


 ◆


 フレデリカが作って来たピリ辛の煮込みスープを前に、エシャロットは悩んでいた。

 まさか、自分で作って来るとは思っていなかった。

 チラリと彼女を見れば、まるで子犬のように食べて食べてと視線で訴えて来ている。

 

「……い、いただきます」


 見栄えも悪くなく、不味そうとは思っていない。ただ、エシャロットはスインチリが苦手だった。けれど、そんな事は口が裂けても言えない。

 公爵令嬢であり、次期王妃であるフレデリカが手ずから作り上げた料理だ。しかも、エシャロットの故郷の食材をふんだんに使っている。それはヴィヴィアンの専属使用人として、あまり故郷に帰る機会のないエシャロットを思い遣っての選択だと、彼女は気付いていた。

 

「もしかして、苦手な物が入っていましたか?」


 意を決して食べようとした時、フレデリカに図星を突かれた。


「そ、そんな事ないよ! むしろ、大好き!」


 虚勢を張ってみたけれど、フレデリカはすっかり青褪めていた。

 エシャロットは焦った。昨日の騒動の後処理で今朝も方々へ駆けずり回っていたせいで取り繕う余裕が残っていなかった。


「す、すぐに代わりの物を用意致します!」

「ダメ!」


 慌てて皿を下げようとするフレデリカの腕を掴んで、エシャロットは言った。


「確かに苦手だけど、フリッカちゃんが作ってくれた料理だもん!」

「エシャロットお姉さま……」


 エシャロットは覚悟を決めた。スインチリが苦手というより、そもそも辛い物全般が苦手な彼女であるが、ヴィヴィアンの為に毒見を行い、実際に毒物を口にして半死半生となった経験もある。その時と比べれば何のことはない。そう考えて、スプーンでスープを掬って口に運んだ。


「……あれ? 辛くない?」


 まったく辛くないわけではない。ピリッとした感覚は確かにある。

 けれど、スインチリ特有の舌が痺れるような辛味では無かった。ただ、代わりに酸味を感じた。


「あっ、辛いのが苦手だったのですね」


 フレデリカは安堵した様子で呟いた。


「これ、スインチリが入ってるんだよね?」


 改めてスープの匂いを嗅いでみると、やはりスインチリの独特な香りがした。

 そして、同時にツンとした香りが鼻孔を刺激した。


「これって、ビネガー?」

「ええ、そうですよ。キドアをベースに作られた物だそうです」


 柑橘類に似たフルーツであるラグランジア産のキドアから作られた(ビネガー)をフレデリカはスインチリをベースとした魚介のピリ辛スープに混ぜ合わせ、前世の世界における酸辣湯(サンラータン)に近い味を表現してみせた。

 ほのかな辛味が食欲を増進させ、酸味が疲れた体に染み渡る。食べれば食べるほど、この料理がただエシャロットの故郷の素材を使っただけの料理では無い事に気が付いた。

 具材は魚介以外にもキノコや野菜がふんだんに使われている。しっかり煮込まなければ青臭くて固く、嫌いな人間も多いオノアという根菜が驚くほど柔らかくなっていて、口の中で溶けた時には目を見開くほどに驚いた。

 ヴィヴィアンの専属使用人として、厨房に立つ機会も少なくない彼女だからこそ、フレデリカの料理に込めた思い遣りの心を余すことなく感じ取る事が出来た。


「美味しい! すごく美味しいよ、フリッカちゃん! 正直、びっくり! フリッカちゃん、領地で料理のお勉強もしてたの?」


 公爵令嬢としてや次期王妃としての教育課程に料理は不要と思えるけれど、知識もなく思いつきで作れる料理とは到底思えなかった。


「えーっと……、まあ、そんな感じです」


 そんな感じでは無さそうな反応だ。


「もしかして、こっそり?」

「……まあ、その」


 気まずそうにフレデリカは頷いた。

 公爵領に居た頃のフレデリカは殆ど軟禁状態だった。淑女教育が始まるまで、部屋から出る事すら頻繁には許されていなかった。この世界の料理を学んだのはその頃の事だった。

 部屋はとても広かった。けれど、外へ出られない閉塞感を埋める事は出来なかった。常に何かしていないと頭がおかしくなりそうだった。

 その事を不憫に思ったアイリーンはフレデリカが望む全てを叶えようと躍起になった。彼女が料理をしてみたいと言った時には王国中の料理本をかき集め、調理器具を揃え、部屋に水道やコンロを増設する工事まで一人でこなしてみせた。

 無論の事、アイリーンはフレデリカの外出許可を取る為に何度も何度もロベルトの下へ足を運んでいた。けれど、許可が下される事は滅多になかった。

 それは父であるギルベルトの方針ではなく、兄であるロベルトの方針だった。

 理由は彼女の母にある。 


 ―――― 気味が悪い。


 そう言って、フレデリカの母であるセラフィーヌ・ヴァレンタインは四歳の彼女を叩いた。

 何度も何度も叩き、フレデリカはアザだらけになった。セラフィーヌはそれだけに留まらず、陰湿で暴力的な虐待を繰り返した。彼女はそれを躾だとのたまい、ギルベルトは娘の躾を一任しているセラの言葉を信じていた。

 フレデリカが弱みを見せまいとしていた事もギルベルトの認識を誤らせ、セラフィーヌの虐待を助長する一因となってしまっていた。そして、当主とその伴侶のフレデリカに対する態度を見て、一部の愚かな使用人までもがセラフィーヌの躾に加担するようになった。

 ロベルトはフレデリカを守ろうとした。けれど、年若く、父母からは優秀な子供(・・)として見られ、使用人達からも将来有望な子供(・・)としか思われず、彼がどんなに声を上げても、行動を取っても状況は何も変わらなかった。

 愛する妹に出来た事と言えば、蹲る彼女に慰めの言葉を捧げ、好物のケーキをこっそりと部屋に持ってくる程度だった。だから、彼は『冷血のヴァレンタイン』と呼ばれるような男になった。

 彼は妹を守る為には母と彼女に加担する使用人をすべて片付けなければいけないと結論付けた。ロベルトは肉親に対して、どこまでも冷酷に手段を選ばず行動を起こした。ヴァレンタイン家の名前はフレデリカの為にも穢すわけにはいかず、秘密裏にセラフィーヌを追い詰める工作を行った。結果として、彼女の名はヴァレンタイン家の家系図からすらも抹消された。使用人達に至っては、その所在を知る者は殆どいない。

 そして、片付けが終わった後もロベルトは公爵領からセラフィーヌの痕跡が完全に消え去るまでフレデリカを隠す事に決めた。世界に一つだけの大切な宝物を宝箱に大事に仕舞い、彼女の為だけに生きる守護獣(アイリーン)に宝箱を守らせた。

 それは紛れもない愛情だった。

 アイリーンが自分の首にナイフを当てながらフレデリカの外出許可を懇願しに来た時、彼は彼女の絶対的な忠誠心を知ると共に、許可を出してあげたかった。それでも、フレデリカを完璧に守る為には許可を出す事が出来ず、彼女が首に当てているナイフの刃を掴み、涙と血を流しながら事情を語り聞かせた。

 フレデリカを苦しめたかったわけではない。ただ、どうしても世間から隔離する時間が必要だった。

 徐々に彼女の行動制限が緩められ始めた時、そこに嘗ての使用人の顔は殆どなかった。調理場に行けば、いつも何故か塩と砂糖を間違えたり、香辛料を過剰に使うシェフの姿もなく、代わりに絶品のケーキをいつもデザートに用意してくれるシェフがいた。

 ロベルトは何も語らなかった。アイリーンも語るべきではないと考えて口を閉ざしていた。けれど、フレデリカもなんとなくではあるけれど、軟禁されていた理由を察した。母や以前までいた使用人の行方は今に至っても分からない。執事のグウェンダルやハウスキーパーのエレノアにもこっそりと話を聞いてみたけれど、教えてもらえなかった。

 実際にロベルトが何をしたのか、フレデリカには分からない。ただ、自分が原因で複数の人間が居場所や職を失った事実は消えない。それでも、申し訳ない気持ちよりも、自分を助けてくれた兄への感謝の気持ちが(まさ)ってしまった。

 その過去はフレデリカの心に淀みを齎した。その淀みはシェリー・ブロッサムの一件によって、更に大きくなっている。

 母の躾もシェリーの指導もフレデリカが不満など一切抱かずに受け止めていれば問題にはならなかった。ロベルトやアイリーンが彼女の為に動いたのは、彼女が辛いと感じてしまったからだ。

 それこそが彼女の歪みの原点(オリジン)だった。 

 彼女が何事からも逃げたくないと考えてしまう真の理由はそこにある。

 逃げてしまった。その為に他者の人生が大きく歪んでしまった。

 それは心の傷となり、彼女の行動原理に大きな影響を及ぼしている。


「そ、それより、おかわりはいりますか? まだありますよ!」

「じゃあ、一緒に食べようよ! わたし、フリッカちゃんと一緒に食べたいなぁ!」

「喜んで!」


 今はまだ、アルヴィレオにすら語る事が出来ずにいる。けれど、次期王妃として、いずれは向き合わなければいけない事だ。

 彼女はスインチリのささやかな刺激とビネガーの酸味を味わいながら、また心の底の蓋をそっと閉じた。

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