第百二十四話『フレデリカの笑顔』
オリエンテーションの二日目、フレデリカは友人達と共に寮塔の広間へ向かった。
ヘミルトン寮の広間には華美な装飾がなく、落ち着いた雰囲気の空間が広がっていた。
既に多くの新入生達が集まっていて、フレデリカが中に足を踏み入れると彼らの視線が一斉に彼女へ注がれる。どれだけ場数を踏んでも慣れる事が出来ずにいるけれど、彼女は動揺をおくびにも出さない。傍目には超然としているように見えるその有様に感嘆のため息を零す者もいる。
「……フリッカ、大丈夫?」
けれど、彼女の隣を歩く少女達にはそれが虚像である事を見抜かれていた。
声を掛けたアリーシャだけではなく、そっと視線からフレデリカを隠すように前に出たエレインや支えになろうとしているかのように傍らに寄り添うローゼリンデ達の表情も彼女を案じていた。
「……無礼な連中だ」
唯一の男性であるザイリンは不愉快そうに表情を歪めた。
「威圧しちゃダメだよ、ザイリン」
レネが嗜めるように言った。
「しかしだな……」
「フリッカに対する印象が悪くなっちゃうよ」
その言葉にザイリンは小さく舌を打った。
「……ああ、その通りだな」
彼は横目でフレデリカを見た。出会う前は非の打ち所のない完璧な令嬢だと思い込んでいた。
けれど、直接言葉を交わしてみれば完璧とは程遠い少女だった。
完璧である事を求められ、応える為に必死に頑張っている女の子だった。
「なら、せめてエレインを見習うか」
無理をするなと言いたくなる。
ありのままの君はとても魅力的なのだから、自分を偽る必要など無いだろうと言いたくなる。
けれど、理想を追い求める者は彼女だけではない。ありのままの彼女を認めず、理想に反する事を糾弾する者は必ず現れるだろう。そのような者の為に彼女は茨の道を歩んでいる。ただの茨ならば切り払えば良いが、その茨には意思がある。如何に刃を振るおうとも、執拗に彼女を傷つけようと蔦を伸ばしてくるだろう。ならばせめてと彼女の代わりに棘を我が身に突き刺そう。
エレインの隣に立ち、姫を御簾の奥へと隠す。不満そうな表情を浮かべた者の顔は覚えておこうと思った。彼らこそが彼女の敵となる者達だ。
「……お前ってさ」
「ん?」
エレインはなんとも微妙な表情を浮かべていた。
「な、なんだその顔は……」
「……相手、人妻だからな?」
「は?」
何が言いたいのかとザイリンが問いかけようとした時、丁度広間に一人の青年が足を踏み入れて来た。
「やあ、集まっているね」
よく通る声で彼は生徒達に声を掛けた。
「何人かとは廊下ですれ違っているけれど、大体の人とは初めましてだね。わたしはクロス・ヘミルトン。君達の寮教師さ。よろしくね」
ヘミルトンの姓を聞いて、多くの生徒が目を丸くした。
「御想像の通り、わたしはウェスカー・ヘミルトンの子孫だよ。このへミルトン寮がそう呼ばれるようになった切っ掛けの人物であり、七英雄と呼ばれた男さ。彼の昔話を語る事もわたしの職務の一つでね。気になる子は寮教師室においで。聞かせてあげよう」
その言葉に多くの女生徒が色めき立った。それはクロスが爽やかなハンサムだからというだけではなく、ウェスカー・ヘミルトンの話にはそれだけの魅力があるからだ。
なにしろ、七英雄と言えば舞台の演目の華だ。大海賊レッドフィールドと暗殺者サリヴァンの物語は特に人気が高いけれど、他の英雄の物語にも多くの者が魅了されている。先王であるエルトリア・アガリアの物語すら星の数ほど上演されて来た。ところが一人だけ一切物語が上演されていない英雄がいる。それがウェスカー・ヘミルトンだった。
冒険王ウェスカーの名は有名だけど、彼の人格や冒険の軌跡はその多くが謎に包まれている。彼の事を知る事が出来れば、他の英雄の物語に対する理解度も増す。この世界で現状一番の娯楽である演劇に対する女生徒達の熱意は生半可なものではなかった。そして、それはフレデリカも例外ではなく、彼女の瞳も星空の如くキラキラと輝いていた。
「レネ、後で聞きに行きましょう!」
「うん!」
演劇フリークである二人はクロスからどんな話が聞けるのか楽しみで仕方がない様子で盛り上がり始めた。ザイリンとエレインはお互いを見て頷きあった。こうなるとフレデリカはボロが出やすくなる。アリーシャもそっと前に出て来た。さっきよりも鉄壁のカーテンで彼女を隠さなければいけない。少なくとも、今はまだ。
「さあ、オリエンテーションの第二幕を始めよう。昨日は君達がゲストだった。今日からは君達がホストになる。しっかりと寮兄や寮姉に尽くしてくれたまえ」
その言葉にフレデリカとレネも現実へ戻って来た。ホッとすると共にザイリン達も耳を澄ませた。尽くせと言われても、具体的に何をすればいいのかがサッパリだからだ。
「まずは昼食の準備からだね。君達がサボったり、手際が悪くて仕事が遅れたりすると、君達のお兄さんやお姉さんは昼食を食べられないまま、午後の授業に出なくてはいけなくなるんだ。だから、しっかりと職務に励んでおくれ」
「ちゅ、昼食の準備ですか……?」
側にいた生徒が零した疑問にクロスは頷いた。
「使用人に命じても良いよ。食堂で作ってもらった料理を運んでもいい。自分で作ってもいい。そこは自由さ。肝心な点は寮兄や寮姉に昼食を食べさせてあげる事なんだ。ああ、言っておくけれど昼食だけではないからね? 今日の夕食、明日の朝食、明日の昼食、明日の夕食、明後日の朝食、明後日の昼食と……、オリエンテーションの間の食事も君達が準備するんだ。加えて、ティータイムのセッティングも出来ればベストだね」
「あ、あの!」
一人の生徒が手を挙げた。
「なんだい?」
「結局、僕達は何をどこまでやればいいんですか? 出来なかったらペナルティはあるんですか?」
「いい質問だ。何もしなくてもペナルティは一切ない」
「え?」
キョトンとした表情を浮かべたのは質問をした彼だけではなかった。
大半の生徒はクロスの言葉の意味を飲み込めず、首を傾げている。
「学校側が君達に罰則を与える事は無いという事さ。それだけを念頭に入れて、後は自分達で選び、行動したまえ」
「じ、自分達で……?」
戸惑いの声があちらこちらから聞こえてくる。
「ここはアザレア学園だ」
クロスは言った。
「普通の学校なら、言われた事だけをこなしていけばいい。ただ、教えられた事を学ぶだけでいい。けれど、この学園でそのスタンスを貫いていては着いていけなくなってしまうよ」
そう言うと、彼は手を叩いた。
「さあ、時間は有限だよ。まずは動いてごらん。スタート地点で足踏みをしていても何も始まらないのだからね」
その言葉と共に幾人かの生徒が早速動き始めた。
フレデリカもその内の一人だ。
「さあ、行きますよ」
「えっと、どこに?」
レネは他の多くの生徒達と同じように何をしていいか分からない状態だった。
「決まっています。それは――――」
「待った!」
答えかけたフレデリカの口に人差し指を当てて黙らせたのはアリーシャだった。
「先生が言ってたじゃん。自分で動けって。フリッカが教えたらレネの為にならなくない?」
もっともな意見だと感じたのか、レネは答えをフレデリカに求めてしまった自分を恥じた。
けれど、フレデリカは「いいえ」と首を横に振った。
「先生は『まずは動いてごらん』と言ったのですよ。自分で考えて行動する。その為の第一歩として」
「ふむふむ、なるほど」
アリーシャはうんうんと頷くとフレデリカの手を取った。
「それなら納得! よーし、皆の衆! 出発じゃ!」
「納得はえーな……」
「納得したからね! ほらほら、グズグズ言ってないで行くよ!」
「へいへい」
「やれやれだな」
フレデリカ達が去っていくと、残された生徒達は一拍置いた後に慌ただしく動き始めた。
その殆どがフレデリカ達の後を追いかけた。彼女達に声を掛けるでもなく、怯えているかのように距離を開けながら、彼らは救いを求めるような眼差しを向けている。
「……おい、どうすんだよ」
ぞろぞろと付いてくる者達を横目にエレインが言った。
「どうもしませんよ。彼らも答えを求めて動き出したのですから」
「全員はなまる百点まんてーん!」
「はなまる?」
アリーシャの言動に首を傾げながら、エレインは考えた。
「……なら、声くらい掛けてやった方がいいんじゃねーの? 次期王妃様的に」
「次期王妃だからこそ、ここで声を掛けたらオリエンテーションの趣旨が破綻してしまいますよ」
「どういう事だ?」
「姫様が何を言っても、それが彼らの指針になってしまうからな。自分で考えて行動する事を学ぶという趣旨に反してしまうという事だ」
ザイリンの言葉に「ふーん」と面倒くさそうに後ろを見た。
「色々とあるんだな」
エレインが住んでいた村にも立場の違いというものはあった。けれど、同い年の子供同士の間にそんなものは無かった。だから、互いの顔色ばかり伺いながら距離感を測り合うフレデリカと後ろから着いてくる生徒達の関係は酷く歪に思えた。
「……よしっ」
エレインが急に立ち止まった。何事かとフレデリカ達も足を止め、着いてきている生徒達も目を丸くした。
「お前ら、もうちょっと頑張れよ」
エレインは貴族の令嬢や子息達に対して言った。
その言動に誰もがギョッとした。
「やり方が分からないからフリッカについて来てるんだろ? だったら、『わたし達にも教えてください』の一言くらい言えよ」
フレデリカから彼らに声を掛けられない理由はわかった。けれど、彼らからフレデリカに声を掛けられない理由は無いはずだと思った。
ちゃんと目と耳が機能しているのなら、フレデリカは立場で人を区別したりせず、求められれば答えようとする人間だと分かる筈だからだ。
「き、君達とは違うんだ! そんな不敬な事は……」
「お前にとっては黙って答えをもらえるまで待ってるのが敬意ってやつなのか?」
「そ、それは……」
だってとか、でもとか、そういう言葉がアチラコチラから聞こえてくる。
その様子にエレインは苛ついた。
「お前ら、フリッカの事をちゃんと見ろよ!」
エレインは吠えるように言った。
「教えて欲しいって頼まれて、フリッカが不敬だって怒る人間に見えるか? 平民のわたしの言葉もちゃんと聞く奴なんだぞ!」
その言葉を聞いても、多くの生徒がまごつくばかりだった。
「これは……」
その様子を見ていて、ザイリンはオリエンテーションの必要性を実感していた。
入学から一週間もの時間を割いてまで行う必要性に疑問を感じていたが、親の言いなりになって生きて来た貴族令嬢や子息はあまりにも意志薄弱過ぎて、精神を鍛え直す時間が必要だったのだ。
「……あ、あの!」
ここまで言われても反発すらして来ない連中にエレインがうんざりした表情を浮かべかけた時、一人の令嬢が前に進み出て来た。
「フ、フレデリカ様!」
エレインの行動に内心で狼狽えていたフレデリカは名前を呼ばれると必死に心を落ち着けながら彼女に向き直った。
「はい」
フレデリカが応えた。その事に声を掛けた令嬢は目を大きく見開いた。
「わ、わたしはレイチェルです! レイチェル・アメルダです。わ、わたしはどうしたらいいのか分からないのです。な、なので、教えて頂けますでしょうか!?」
自分の無知を晒す事は恥ずかしい事だ。貴族の社会では御法度ですらある。何故なら、それは侮られ、隙になるからだ。それでも彼女は無知を晒した。
確固たる決意があったわけではない。何か考えがあったわけでもない。フレデリカに話しかけた時点で彼女は勇気を絞り尽くしてしまい、頭の中がいっぱいいっぱいだったからだ。
フレデリカにはその気持ちがよく分かった。エレインが発破をかけた事を差し引いても、自分に話しかける為に費やした彼女の勇気は敬意を払うに値すると感じた。
「もちろんですよ、レイチェル。分からない事は分かる人に聞く。それもまた、自分で考えて動くという事です。ただ、わたしが教えられる事はあくまでもわたしの考えです。完璧な正解ではないかもしれません。それでも構いませんか?」
「フ、フレデリカ様のお考えが間違っているなど……」
その時、レイチェルは初めてフレデリカをまっすぐに見た。その瞳は僅かに揺れていた。
それはまるで、不安を感じているかのようだった。
それはあり得ない。相手はフレデリカ・ヴァレンタイン。次期王妃となるヴァレンタイン公爵家の令嬢。
彼女は完璧な令嬢だ。そう確信していた。
だけど、脳裏に過ぎったのは入学初日の光景だった。隣の女の子に普通の女の子のように話しかけている姿だった。そして、目の前の光景を見た。さっき、平民の身でありながら貴族の令嬢や子息に啖呵を切ったエレイン・ロットがフレデリカを心配そうに見つめていた。
「……それでもです、フレデリカ様」
レイチェルは言った。
「わたしはフレデリカ様に教えて頂きたく存じます」
その言葉にフレデリカは嬉しそうな笑みを浮かべた。
彼女の笑顔は群衆の中の一人として幾度か見た事があった筈なのに、まるで初めて見たかのような衝撃を受けた。
「あ、あの! わたしはアーロン・ウィスコットです! わたしも教えて頂きたく思います!」
「わ、わたしはイレーナ・ヒルデガードです! わたしも教えて頂きたいです!}
「ぼく、ジャレッド・ウールーです! ぼくにも教えてください!」
レイチェルが先陣を切った事で、他の生徒達も次々に名乗りを上げ始めた。
「アーロン、イレーナ、ジャレッド。ええ、もちろんです」
フレデリカが名乗りをあげた生徒の名前を呼んだ事で、他の生徒達も彼女に名前を覚えてもらえるチャンスである事に気が付き、無知を晒してでも教えを請う覚悟を決めた。
殺到してくる令嬢や子息、その後ろからおずおずと顔を出して来る平民の生徒達にフレデリカは最後まで笑顔で対応した。




