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第百十八話『ジュリア・リエン』

 森の中を歩いている。木々が生い茂り、足元にも草花が咲き誇っている。鬱蒼としているけれど、木々の狭間から差し込む光のおかげで見通しは良い。ただ、とても静かだ。人の声どころか、獣や鳥の鳴き声もなく、風の音すら聞こえない。

 どこから来たのか、どこへ向かっているのかも分からない。自分が何者なのかさえ朧気になっていく。それでも先へ進まなければいけないと思い、歩き続けている。

 いつしか、広々とした空間に出た。円形の広場の中心にはナニカがあった。

 不思議だ。そこにナニカが存在している事は分かる。だけど、解らない。

 それを形容する言葉が見つからない。目の前に在る。見えている。それなのに理解出来ない。

 触れようと手を近づけると目眩がした。頭が割れそうな程に痛む。


 ―――― 帰りたい。


 誰かの声が聞こえた。そして、目の前の光景が一変していた。

 そこには荒野が広がっていた。

 痛みが収まらない。けれど、進まなければいけない。

 ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていくと大きな川に突き当たった。

 逆巻く流れは赤い。それが血である事に臭いで気が付いた。

 嗅ぎ慣れた(・・・・・)香りだ。足下に折り重なる亡骸の山も見慣れている(・・・・・・)

 ここはそういう場所であり、わたしはそういう生き物だ。地獄は過程であり、目的はその先にある。

 振り向けば、生者が歩いてくる。苦痛にのたうちながら、想像を絶する有様でわたしに縋ってくる。

 全身を焼かれた人間。関節を捻じ曲げられた人間。水分を抜き取られて干からびた人間。眼球や四肢を喪った人間。薬物投与によって壊された人間。病魔を植え付けられ、蝕まれている人間。切り刻まれ、内臓を露出させている人間。

 わたしは彼らを迎え入れる。憎悪と憤怒を受け入れる。


 ―――― 帰りたい。


 それは彼らの声だった。


 ―――― 帰りたい。


 それはわたしの声だった。


 ―――― 帰りたい。

 

 それは誰かの声だった。

 聞き覚えがある筈なのに、どうしても思い出す事が出来ない。

 ズキンズキンと痛みが増していく。


 ―――― 帰りたい。 


 ナニカが……、流れ込んでくる。

 記憶。記録。過去。現在。未来。クレア。満月の家。ロスリム。アギト。剣帝。

 ゾディア。救世王。名もなき剣。アルモニ。メゼィーラ・ウルフェシオン。神剣アリエル。

 ウェスカー。アルトギア手記。竜王の娘。アガレス教。竜装騎士。ラグランジア王国。

 創造神バルサーラ。殺人。クリムゾンリバー号。地球。クリフ。ルルキア。赤い屋根の家。

 結晶の館。ルナ。アルテミス。ユズリア。ルイーズ。悪意。第八聖典。滅びの都。生贄。守護者。海の悪夢。

 誘拐犯。神の力の結晶体。霊王レムハザード。錬金術師。ブライス。厩舎。アナスタシア。

 ヴァイク。レオ。十字剣。公開処刑。アガリア王国。ロディーム・カサレム大聖堂。アルメリア・ギャリオン大渓谷。

 ギャリオン王国。カサンドラ。黄金郷。魔法。ガイス・レヴァリオン。アルトギア・ディザイア。ラミタルア。鷹の目。

 異界。招かれざる者。オルネウス。ジュラマウンテン。ジュリア。追跡者。選定の剣。

 精霊の森。アジール。アルコストル・ジェラベール七世。合衆国。祐希。

 平等。暗殺者。権能。黒い棘。剣王。親友。シャロン。約束。森羅万象。

 シャロンの篭手。世界。カノン。ギロチン。魔女。弓。冒険。海賊。格闘家。紫の瞳。


 ―――― 帰りたい。


 知らない光景が次々に浮かんでは消えていく。知らない言葉や知っている言葉が脳裏を(よぎ)る。

 頭の痛みは酷くなる一方だ。吐き気が込み上げてくる。それなのに吐き出す事が出来ない。

 立っている事も出来なくなった。倒れ込み、それでも止まらない。


 ―――― 帰りたい。


 懐かしい気がする知らない声が耳を塞いでも聞こえてくる。

 誰かの顔がチラつく。

 それが誰なのかを気にする余裕もない。

 痛い。苦しい。気持ち悪い。それだけが脳裏を満たした時、ようやく声は消え去り、風景も元の森に戻った。


「大丈夫?」

「……え?」


 誰かに手を差し伸べられた。ぼやけていた視界がはっきりすると、そこには白い髪の美しい女性がいた。


「えっと……」


 戸惑っていると、彼女は強引にわたしの手を掴んで引っ張り起こした。

 

「わわっ!?」

「ほら、しっかりと立ちなさい」


 おっとりとした見た目に反して、口調はとてもキビキビしている。


「えっと……」

「ジュリアよ」

「……エ、エルフランです。エルフラン・ウィオルネ」

「エルフラン。そう、いい名前ね」


 こんな不可解な状況で、怪しさ大爆発な相手だと言うのに、アンゼロッテに付けてもらった名前を褒められると、どうしても嬉しくなってしまう。


「ウィオルネって言うと、アンゼロッテの縁者かしら?」

「アンゼを知ってるんですか!? わ、わたしの……あの、その……、お、お母さんみたいな人です!」


 別に照れる事ではない筈なのに、どうしても顔が赤くなってしまう。

 

「……そうなんだ」


 ジュリアは何だかとても複雑そうな表情を浮かべた。


「ど、どうしたの?」

「なんでもないわ。それにしても、まだ生きてたのね……」

「え?」


 ジュリアの声には哀れみの感情が滲んでいた。


「ど、どういう意味?」

「強過ぎる権能は人を人非(ひとあら)ざる者に変えてしまう。望まずに得た権能は特に……」


 権能という言葉は何度か耳にした事がある。だけど、それがどういうモノなのかはよく分かっていない。

 アンゼロッテに聞いても『説明するのが難しい。どうせ学校に通うんだから、学校の教師に聞け』と教えてもらえなかった。ただ、断片的に聞き齧った限りだと、どうにも不穏なものに思えて仕方がない。


「あらゆる命は死ぬ為に生きているの。その死を奪われる事はとても残酷な事だわ」


 よく分からなかった。死ぬ事は怖い事だと思う。少なくとも、わたしは死にたくない。生きられるなら、生きていたい。だから、彼女の言葉を理解する事が出来なかった。


「……ねぇ、あなたは幸せ?」


 前にも同じような事を聞かれた覚えがある。


「幸せだよ」


 わたしはハッキリと言った。


「だって、わたしには帰る場所があるもの」


 アンゼロッテとヴァイクがわたしを待ってくれている。

 だから、わたしは幸せだ。


「……そう」


 ジュリアは瞼を閉じた。まるで、何かに耐えているかのようだ。


「どうしたの?」

「……あと五年」

「五年……?」


 何の事だろう?


「エルフラン。学園でよく学び、よく遊びなさい。そして、あなたの権能を手に入れなさい」

「わたしの権能を……?」


 さっき、人を人非ざる者に変えてしまうと脅かしたばっかりなのに、何を言っているんだろう?


「今は分からなくてもいいわ。ただ、覚えておいてね」


 急に彼女の声が遠くなっていく。


「それがあなたの為であり、世界の為でもある」


 その言葉と共にわたしの意識は闇へ沈んだ。

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