第百十七話『オレがわたしになる日』
「君を必ず幸せにする」
その言葉を聞いた途端、フレデリカの心は不可思議な感情に支配された。
それまで抱いていた感情が綺麗サッパリ洗い流されてしまった。熱に浮かされたように思考がぼんやりとしている。頭の奥がジンジンして、体の力が抜けていく。
自分の体の事なのに、何が起きているのかサッパリ分からない。
「……フリッカ?」
倒れないように縋りつくフレデリカをアルヴィレオは心配そうに支えた。
自分の言葉が彼女を追い詰めてしまったのではないかと罪の意識を感じている。
そうではないと示したい。けれど、その為にはこの不可解な感情の正体を突き止める必要がある。
難しくはない筈だと思う。密着していると感情の正体が少しずつ見えて来た。
「ああ、そうか……」
幸せにする。その言葉をフレデリカは生まれ変わる前の世界で何度も見た。何度も読んだ。何度も聞いた。
それは恋愛ゲームであり、それは恋愛小説であり、それは恋愛ドラマだった。
それらの登場人物達は一様に同じ意図の下でその言葉を口にしていた。
「……まるで、プロポーズみたいだなぁ」
「フ、フリッカ!?」
フレデリカとアルヴィレオの関係は婚約から始まった。
お互いに相手への好意は何度も伝え合って来たけれど、よくよく考えてみるとプロポーズの言葉は交わしていなかった気がする。
「へへっ」
「……フリッカ」
そもそも結婚する間柄にある以上、その言葉は必要が無かった。
けれど、近しい言葉を聞いただけで喜んでいるフレデリカを見て、アルヴィレオは後悔した。
必要がない。それは言わない理由にはならない。結婚が決まっているからと言って、伝えるべき言葉を伝えない事は怠慢だ。
今更かもしれないけれど、キチンと言葉にしよう。
「フリッカ、バルコニーに行こう」
「え? う、うん」
アルヴィレオはフレデリカの手を引いた。部屋には出入り口の他に三つの扉があり、左の扉はベッドルームに通じていて、右の扉はシャワールームに通じている。そして、奥の扉を抜けた先にはバルコニーが広がっていた。
「わお!」
そこは予想よりもずっと広々としていた。どうやら、塔をぐるりと囲むように作られているらしい。そして、手摺りの向こう側にはアザレア学園の全貌が広がっていた。
陽が出ている時はまた違った絶景が広がっているのだろうけれど、夜だからこその風景にフレデリカは圧倒された。空に浮かぶ星の海や闇の中にぼんやりと浮かぶ灯火の明かりだけではない。それだけでも息を呑むほどに美しかった事だろうと思うけれど、それだけではないのだ。
「……あれ、精霊だよな?」
精霊達が色とりどりに光っている。眩しいほどの強い光ではないけれど、だからこそ儚げで美しく感じた。
「そのようだね」
「精霊って、光るもんだっけ?」
「常に光を帯びている精霊もいるみたいだけど、それ以外の精霊はあまり光らないと聞くね」
「だよな? じゃあ、あれは?」
「精霊達の思い遣りだよ」
アルヴィレオは言った。
「精霊は不可視になる事も出来るし、こうして光る事も出来る。灯りがあっても、夜は暗いからね。迷子の生徒がいたら直ぐに助けを求めてもらえるように彼らは自ら光を帯びてくれているのさ」
「……優しいな」
「ああ、彼らはとても優しい。彼らの王も」
「精霊達の王様……、風王の事だよな?」
「うん。風の谷に棲まう精霊の王、バイフー」
パシュフル大陸の南西にある『風の谷』に棲むという精霊の王、それが風王バイフーだ。
ゲームでは『ザラクの冒険』のシナリオで登場する。旅の途中、ブリュートナギレスへ向かう一行は一匹の子猫を保護するシーンがあり、その子猫を親元に返す為に駆けずり回る事になる。そして、彼らは霊王レムハザードに助言を求めて、その子猫がバイフーの眷属である事を知る。
バイフーは巨大な白い虎だった。その姿を見た時、バイフーという名前の意味も分かった。英語圏の言葉に該当するものがなく、レリュシオンやメルカトナザレ同様にゲームのオリジナルネームだとばかり考えていたけれど、そうではなかった。中国語だったのだ。バイフーとは白虎を意味している。
白虎とは、中国の神話に登場する四神と呼ばれる神獣の一体だ。それまで西洋をモチーフにした世界観の中でプレイしていたから、突然の東洋要素に心底驚かされた。けれど、考察サイトによると、そもそも世界を最初に統治していた四王であるレリュシオン、メルカトナザレ、ルミナス、バイフーは四神をモデルにしていた節があるとの事だった。
東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武。そして、中心に四神の長たる黄竜。竜王メルカトナザレが見た目通り黄竜であり、炎王レリュシオンが朱雀、森そのものとも例えられる妖王ルミナスが青龍、そして、バイフーは名と見た目通りの白虎。玄武は何処に行ったんだ? という疑問に対する答えもある。最北の大陸であるポティファル大陸に朱雀であるレリュシオンがいて、最南の大陸であるイリイヤ大陸を支配するのが黄竜であるメルカトナザレならば、北に位置するべき玄武は何処にいるのか? 考えられるのは北と思われている方角が本来南であり、レリュシオンとメルカトナザレの支配領域の位置関係から南極地点と思われる場所こそ、玄武に相応する王の支配領域があるのではないかと言われている。ただ、ザラクのシナリオでも魔王が現れた北極圏には行っても、南極点には向かわなかった為に触れられなかっただけではないかと。
「……バイフーかぁ」
ゲームだったら、単純に制作者の趣味であったり、ネタ切れであったりと理由が思いつく。けれど、ゲームの事情を取り払うとバイフーの存在はとても奇妙に感じる。
他にも神話や伝承に存在する怪物や霊獣をモチーフにしたと思われる魔獣は存在している。例えば、極地でゼノンに襲いかかっていたシャムスという魔獣は伝承の八咫烏の姿と能力そのままだった。けれど、名前は違っている。だから、似て非なる別物と考える事も出来た。けれど、バイフーだけは名前までしっかり白虎なのだ。
「ん? 彼らの王もって……、会った事あるの?」
「あるよ」
「マジで!?」
風の谷はパシュフル大陸の南西部に位置している。アガリア王国はオズワルドの結界のおかげで魔物による被害が少ないけれど、王国の外には結界などない。
空にも、海にも、大地にも、この世界には魔物が溢れている。どんなに万全を期しても王国の外を歩く事は大いなる危険を伴うのだ。実際、同じ大陸内でありながらもアルヴィレオはエリンの街で命を落としかけた。あの時は獣王の怒りによって迷いの森の魔物達がスタンピードを引き起こした事が原因だったけれど、魔獣の脅威自体はさして珍しくもないのだ。まして、異大陸に皇太子が赴くなど、あまりにもリスクが大き過ぎる。空にしろ、海にしろ、地上とは比較にならないほど危険なのだから。
「叔父上に連れて行ってもらったんだよ」
「オズワルド猊下に……、なるほど」
それならば納得がいく。彼はどうやら初代魔王の側近であるアルトギア・ディザイアが転生した存在らしい。初代や二代目の勇者との交戦歴もある人だ。彼ならば異大陸にも皇太子を安全に送り届ける事が出来るのだろう。
「でも、なんでまた? バイフーに用事があったの?」
「ううん。ただ、叔父上が何事も経験だからと会わせてくれたんだ。どうやら、叔父上とバイフーは古くからの友人らしくてね」
「そうなんだ……」
「うん。交わした言葉はそう多くはなかったけれど、バイフーはとても大きくて、とても暖かくて、とても優しい王様だと感じたよ」
彼がそれほどまでに語る風王にフレデリカもいつか会ってみたいと思った。
ゲームでも彼はザラクを『優しい子だ』と言って、無償で力を貸し与えてくれた。他の王は戦闘になったり、クエストを課されたりする中であまりの呆気なさに拍子抜けした事を覚えている。けれど、それは風王の優しさだったのかもしれない。
「いずれ、フリッカも会う事になるよ」
「え?」
「アガリア王国の王と王妃の結婚は精霊達にも祝われる。そして、精霊の王たる風王からも祝福を与えてもらえるそうなんだ。父上と母上も婚姻の際に不可思議な力によって風の谷の風王の御前に招かれて祝福の言葉を掛けられたそうだよ」
「そうなんだ……」
「うん。だから、フリッカ」
アルヴィレオはフレデリカの頬に手を当てた。
「アル……?」
「一緒に風王の祝福を受けよう」
そう言って、彼は彼女にキスをした。触れる程度の軽いキスにフレデリカはもっと欲しいとせがみそうになったけれど、彼がまっすぐに向けてくる情熱的な眼差しに言葉を引っ込めた。
「改めて、言葉にしておきたい。ボクは君と生涯を共に過ごしたいと思っている。始まりは父同士が交わした契約による婚約だったけれど、今は違うんだ。言わなくても分かってくれているのかもしれないけれど、それでも聞いて欲しい」
「……うん」
フレデリカは心臓が高鳴っていくのを感じた。静かな夜闇の中、あまりにも音が大き過ぎて眼の前の彼に聞かれてしまうのではないかと不安になる程だ。
何を言われるのか、頭の中では分かっていた。それでも彼の口から聞きたかった。聞かせてもらえたら、それ以上の幸せなどないと確信出来る。その言葉を彼は言おうとしてくれている。だから、固唾を飲みながら彼の言葉を待った。
「結婚して欲しい」
それだけの言葉がフレデリカの心を天にも登らせる程の幸福感で満たした。
「愛しているんだ。王子としてではなく、アルヴィレオとして、ボクは君を心から愛している。君と結婚して、君に子供を産んでもらって、君と一緒に歳を重ねて、君と同じ墓に入りたい。だから、どうかボクと結婚してくれ、フレデリカ」
掛けられた言葉があまりにも嬉しくて、フレデリカの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「結婚したい」
その言葉を口にした。
「オレも君と結婚したい。君を愛してる。君の子供を産みたい。一緒に育てたい。一緒に生きていきたい。叶うなら、同じ時に死にたい。アル……、アルヴィレオ……、どうか……、どうか!」
フレデリカは彼にキスをした。そして、自分の願いを口にした。
「わたしと結婚してください!」
その瞬間、決定的にフレデリカの中で何かが変わった。それは絶対的なものであり、もう二度と自分の事をオレと呼ぶ事は無くなるだろう。けれど、それは悪い事ではない。人間は常に変わり続ける生き物だ。どんなに変わる事を拒んでいても、変わらずにはいられない生き物だ。
男だった過去は変わらない。彼女の心には彼であった頃の記憶が残っている。そして、彼の頃から変えられない性分はそのままだ。それでも彼女は『オレ』から『わたし』へ変化した。それは彼の花嫁として生きていく事を心から望み、心から決意を固めたからに他ならない。
生まれ変わった時、男だった頃にはあった物を失った。男だった頃はなかった物を得た。
女性として扱われた。女性らしさを教えられた。女性として生きて来た。
それでも彼女の心は彼だった。その心が今、愛を得て彼女へ変わっていく。
それは彼女が心から望んだからだった。
男性である彼に愛される為に女性になりたいと。




