第九十三話『オレなんだ』
アガリア王国は三方を海で囲まれていて、南部には世界三大湖の一つに数えられているアザレア湖があり、おかげで海水魚と淡水魚を両方味わう事が出来る。
魔法を用いた調理技術の発展によって、近年では生魚が食卓に並ぶ事も珍しくなく、オレはこの世界でも寿司や刺し身を食べる事が出来ている。
個人的にはわさび醤油が最強なのだけど、カルパッチョソースも捨てがたい。
「美味しいですね、ヴィヴィアン!」
「貴女、本当に美味しそうに食べるわよね。確かに美味しいけど……」
わさび醤油やカルパッチョソースはあるけれど、鯛やマグロはいない。代わりにキラキラと光沢のある白身が絶品のアルガーリモルという魚がいる。これがまた美味しいのだ。
サラダのドレッシングも絶品だ。ほのかに酸味がある。これはレストイルカ公国で取れるクロケルというリンゴに近いフルーツを材料に使っていると見た。
「おや?」
しばらくスプーンやフォークを動かしていると隣の子が料理に一切手を付けていない事に気がついた。
「どうしたのですか? 美味しいですよ?」
これほどの絶品料理を前に食指が動かない事などあり得まい。
アレルギーや宗教的な理由があるのかもしれないが、そういう事は前もって報せるようにと入学の際の書類に記されている。
それを怠っていたとしても一つか二つは食べられる物がある筈だ。それなのに一口も食べないとなると心配になってくる。
「もしや、体調がよろしくないのではありませんか? でしたら……」
「……え? あ、あの……」
「どうしました?」
その子は心底困惑した様子で呟いた。
「た、食べていいのですか?」
言っている言葉の意味がすぐに理解出来なかった。
彼女以外は全員が既に食事を始めている。声が聞こえてくる範囲に座っている新入生達の口からもわざわざ許可を求めるような言葉は出ていない。
「……もちろんですわ。アレルギーはありますかしら? このシチューなど絶品でしたよ」
分からないけれど、この絶品料理を食べないのはあまりにも勿体ない。
特に美味しかったビーフシチューを小皿によそって彼女の前に置いた。
「あ、あの……」
「許可が必要だと言うのならばわたくしが許可します。自己紹介がまだでしたわね。わたくしはフレデリカ・ヴァレンタインです」
「……フ、フレデリカ・ヴァレンタイン」
彼女はポカンとした表情を浮かべた。そして、あわあわと口元を震わせ始めた。
「じ、じじ、次期王妃様!?」
「ええ、そのわたくしが許可を出しました。さあ、一緒に食べましょう。美味しいですよ」
「ひゃ、ひゃい!!」
ようやく食べてくれた。一口食べると彼女はやみつきになった様子でビーフシチューを一気に平らげてしまった。すると、食べ終わった皿を哀しげに見つめている。
オレはついつい笑いそうになりながらサーモンに似た赤身魚のスープとハンバーグを彼女の前に置いた。
瞳をキラキラさせながらおずおずとオレを見つめる彼女に「許可します」と言うと再びがっつき始めた。
「ちょ、ちょっとフリッカ。周りの目を気にしなさい」
「え?」
ヴィヴィアンに注意されて周囲を見るとオレ達は好奇の視線に晒されていた。
オレが視線を向けると慌てて視線を逸したけれど、中には敵意のようなものを抱く者までいた。
完全には把握出来ていないけれど、恐らくはオレと彼女のやり取りが気に食わなかったのだろう。
美味しい食事に浮かれ過ぎた。軽いやり取りのつもりだったけれど、オレは次期王妃として彼女に食事をする許可を与えた。その光景が周囲にどう映るかを考えるべきだった。
「気にすんなよ、お姫様」
「え?」
その声に振り向くと赤毛の少年がいた。
「あなたは?」
「ザイリンだ。今のやり取りに難癖つけてくる奴なんざ、何したって難癖つけてくるような輩だ。気にしたって意味がねぇよ」
その通りなのだろうけれど、歯に衣着せぬ物言いは要らぬ敵を生み出してしまう。現にオレの方を向いていた視線が彼に集まっている。
「ザイリン」
それは彼の意図通りの事なのだろう。だけど、これはオレのミスだ。その肩代わりを初対面の相手にさせるなど情けないにも程がある。
「これはわたくしが受けるべきものです」
「へぇ、意外と頑固者なんだな」
面白がるように彼は笑った。
「けど、アンタが今気にするべきはオレ達じゃない筈だぜ?」
「え?」
「ほら、そっち」
「あっ!」
ザイリンが指した指の先で彼女がもじもじと何かを訴えかけるような目をしていた。
よく見るとさっき盛り付けた皿がすっかり空になっている。
「ああ、ごめんなさい! すぐに別の料理を――――」
「あ、あの……」
「は、はい! なんでしょう?」
「……あの、わ、わたしのせいで王妃様が」
涙を零し始める彼女にオレは自分の愚かさを呪った。
軽はずみな言動と行動の結果がこれだ。
「ねえ、貴女の名前を教えてくれませんか?」
「ふえ!?」
だけど、落ち込んでいる暇なんてない。
「ロ、ローゼリンデです。ローゼリンデ・ナイトハルトです……」
「ローゼリンデ。では、ロゼとお呼びしても?」
「ひゃ、ひゃい!」
彼女に罪悪感を抱かせるわけにはいかない。だって、彼女は何も悪くない。
だから、周りに示す。オレがしたかった事が何なのかを。
「ロゼ。美味しいごはんは美味しく食べるべきなのです。わたくしは貴女に美味しく食べて欲しい。この料理を作った人も食べる人に美味しいと言ってもらいたいと思っている筈です。だから、食べましょう!」
「……は、はい!」
スタートで躓いてしまったけれど、これはこれで悪くないのかもしれない。
これからの五年間、次期王妃としての完璧な仮面を被り続ける事は現実的じゃない。実際、王宮に移り住んでからもボロを出す事が何度もあった。それでも、みんなはオレを認めてくれた。
嘗て、王妃様に言われた言葉を思い出す。
―――― あの子が王なら、貴女はとっくに王妃だったのよ。だから、わたくしが貴女に教える王妃教育の第一歩は『貴女が貴女らしく在る事』よ。それが何よりも大切な事なの。
似たような事をライにも言われた。
その為の第一歩を踏み出そう。それまでフレデリカ・ヴァレンタインという少女との間に引いていた一線を乗り越える。
オレが言いたい事ではなく、フレデリカ・ヴァレンタインが言うべき言動を口にして来た。
オレがやりたい事ではなく、フレデリカ・ヴァレンタインが行うべき行動を取って来た。
公爵令嬢として、次期王妃として、在るべき姿を勝手に妄想して、それに合わせようと生きて来た。
だから息苦しかった。その反動で兄貴に甘えたし、アルがオレを受け入れてくれた時、嬉しくて仕方がなくなった。
その歪さを王妃様やライは見抜いていた。だから、何度も忠告してくれていた。
「このコロッケ、美味しそうですね! ロゼはどれが好きですか?」
「え、えっと、わたしはその……、あの! さっきのビーフシチューが美味しかったです!」
「まあ! そう言われたらまた食べたくなってしまいますわね!」
オレがやりたい事をやろう。オレが言いたい事を言おう。
それでも大丈夫なのだと認めてもらえたのだから。
「……へえ、そんなに美味いのか? じゃあ、オレも!」
ザイリンも近くのビーフシチューを皿によそって食べた。すると、彼は「こりゃ絶品だ!」と笑った。
「美味い料理は良い! 最高だぜ!」
「ロゼのお墨付きですからね! ねえ、ザイリンのオススメはどれかしら?」
「このフライだな! 魚のフライは初めて食べたんだが、こりゃ美味い!」
「えっと、これですね。白身魚のようですね。ちなみにソースですか? それともお塩?」
「そのまま食べてみな!」
「では、そのままで」
何も付けずに食べてみると一口で彼の言葉が真実である事を実感した。
サクサクの衣と白身魚の旨味が口いっぱいに広がる。
「うーん、美味しい! ロゼ! これ、これ食べてみてください!」
「は、はい! わわっ!? 美味しいです!」
「ですよね!? ザイリン、良い舌を持っていますね!」
「お褒めに預かり恐悦至極に御座います」
ちょっと羽目を外し過ぎかと思ってヴィヴィアンを見ると彼女は微笑ましげな表情を浮かべていた。
怒っていない。それでいいと認めてくれている。それが凄く嬉しい。
これがオレなんだ。




