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京都 龍安寺

 龍安寺の石庭を見る。これが無だというのだが、何のことか分からない。分からないなぁと思った記憶しかないので、それ以上のことは書けない。しかし、何もないのでなくて、あの石が何個かある方が無なのだと鎌田茂雄先生は著書の中で語っていた。余計に何のことか分からない。

 僕が龍安寺に訪れたのは、はじめて京都に旅行した日のことで、雨が降ってきて、外国人が多勢、雨宿りしていた。よく分からないのは、外国人は禅寺に来ると縁側で柱に寄りかかって、ゆっくりし始める。リラックスしている。日本人はあまりゆっくりできないで、そわそわしている。動きまわって、さあ、次行こう、次行こうと落ち着きがない。



 さて、禅のはじまりがいつなのかはよく分からない。なんでもお釈迦さまが蓮の花をくるっとひねったら、弟子の迦葉がニコッと笑ったのが禅の始まりだとか言う。ここに、言葉や概念では伝えられない教えを伝えようとする禅の以心伝心が始まったのだという。

 またインドから中国にやってきた達磨(だるま)禅師が、弟子の慧可に禅を伝えたのが、中国の禅の始まりという。

 達磨さんと言うと、日本人には親しみ深い存在である。達磨さんは九年間の座禅で、手足が腐って無くなってしまったという伝説で、あのように手足のない人形があるのである。

 達磨禅師は大変な方で、梁の武帝がある時、達磨を招いて「わしは今までに無数の寺や塔をつくってきたが、どんな功徳があるのかね」と尋ねた。まさにこの頃、仏教は立派な伽藍を建立したり、とにかく豪勢にやっていたものなのだ。

 達磨禅師はそんな武帝の言葉に一言「無功徳!」と答えた。功徳なんてありやしないよ、と言うのだ。ご利益がほしいから何かをするという好意は、本来仏教とは無縁の道である。目的が先に立ってしまって、行為そのものを見失っているのである。むしろ、その行為をすることによって、無心となるのとが求められるのである。

 武帝はこの返答に大変に怒った。貴様は天竺から来た偉い僧侶のはずじゃないか、それをこんなに仏教興隆に熱心なわしに向かって無功徳とは一体なんだ、と思って「お前は一体何者だ!」と尋ねた。

 その言葉に、達磨禅師は「知らぬ!」と答えた。この言葉は正確には「不識」である。自分とは空そのもの、であり、無我であるから、自分とは何かなどはじめから知りようもないのである。



 この話からも分かるように、達磨禅師は仏教とは無心となることだと考えていて、まったくご利益など考えていなかったようである。

 その後、達磨禅師は嵩山少林寺にて九年間、壁を見ながら座禅を続けた。そこに慧可が自分の肘を切り取って持ってきて、達磨に決意を見せ、弟子入りをしたそうである。

 とにもかくにも、達磨さんのことはよく分からない。



 中国禅には、まずインドの座禅が入っている。そして、般若思想と唯識思想が入っている。そして、中国の老荘思想が入っている。東洋思想の到達点とも考えられている華厳思想も入っている。その上「維摩経」「円覚経」「首楞厳経」の三経が重んじられる。

 一つ目の「維摩経」は、もっとも重要なお経で、出家界の文殊菩薩と在家界の維摩居士が論争を繰り広げて、煩悩即菩提を明らかにするものである。

 次の「円覚経」は、それまでの仏教思想をまとめて、中国でつくられた偽経である。インドでつくられたお経だって、別にお釈迦さまが本当に言ったこととも限られないのだから、大体が偽経だろうという気もするが、中国でつくられると偽経ということになる。末法、如来蔵、円融、本覚など、特に目新しくもない思想が述べられているようである。

 しかし、悟りの境地とは「円」であると述べられている。円満なる教えであるというのである。この円という概念が非常に重要となってくる。

 最後の「首楞厳経」には、月を指差した時には人は月そのものを見ないで、指先を見ているという有名な話が出てくる。月は悟りの境地のことであり、指先は言語のことである。悟りの境地を言語によって伝授することが不可能であると説かれているのである。



 ところで、無心の話で一つ。人間の煩悩には嫉妬の念と、高慢の念というものがある。現代人はものごとが上手くゆけば高慢になり、ものごとが上手くいかなければ嫉妬に苛まれるのが、むしろ普通というものである。嫉妬もなく、高慢にもならずに生きていくのはよほどの精神の鍛錬が必要であり、もはや達人の域だろうと思われる。

 特に嫉妬の念を有する人はよく見受けられるし、自分もそうだと思うわけである。高慢の念というのは、嫉妬の念の裏返しであるから、まず嫉妬の念があるわけである。この嫉妬の念というのが、世間には溢れていて、現代人が煩いやすい煩悩の代表のように思われる。それは持っている本人の方がよっぽどつらいのだが、無心にならないと楽にはなりはしないのだな、とこの頃、よく思う次第である。

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