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東京 湯島聖堂

★★★

 禅の話を始める前に、ひとつばかり禅に限らず、仏教全般に対して批判しておきたいことがある。

 筆者はこれ以前から、教団の権力主義に基づく宗派対立や形骸化を批判し、かえって、市井の(ひじり)や在家仏教信者である妙好人の活躍を絶賛しようと考えていた。それがもっとも肝心なことに思えてきて、禅を最終回に持ってくるのが、はたして順番としてふさわしいのか否かと悩むようになった。それに、禅には浄土教の如き人間の情が感じられない。もちろん、禅には情も慈悲もあるのだが、特に理知的な面が強調されたのが禅なのである。むしろ、親鸞上人や一遍上人の回を最終話に持ってきた方が、自己の主張に合っているのではないのか、ということをこの頃、たらたらと考えている次第である。



 禅に進む前に、湯島聖堂のことを書きたい。神田明神の手前にあり、何度か訪れたことがある。秋葉原に近いので、神田明神に寄るついでにちらっと訪れたのである。筆者は儒教というのが、思想として劣っているとは見ないけれど、どうも本能的に好きになれないのである。どうしてだろうかずっと考えてきた。仏教にも儒教的な要素が入ってくると、何か違う気がするのである。

 儒教は人を縦に見るのである。それは社会的な仕事や役割を担当する中では、当然ながら理にかなっている。つまり合理的なのである。そうでなくて日本の社会が成り立つだろうか。アメリカの会社は、個人主義、能力主義だからそういう風にはできていないのかもしれない。

 しかし、仏教においては、それはあくまでも社会的なものであって、生命や精神のレベルの本質を見れば、人間は生まれてから死ぬまで、みな「無位」である。位のないのが本質で、こうして位を分けているのは、あくまでも社会への合理的な適応というものである。

 人間の生命や精神の本質を論じる場合は、赤子から老人に至るまで、貴賎高下の差別(しゃべつ)はなしとするが仏教である。



 このように古くから仏教には儒教に対する批判が充満している。というのは、似た者同士ながらも仏教と儒教は、肝心なところでそりが合わない。仏教とキリスト教もそりが合わないのだろうと思われるが、これはそんなにぶち当たることがないのである。二元論と不二説がまったく違うのと、疑わずに信じることと自分で思索することを良いことする違いが大きいくらいである。

 以前から仏教学者たちは、儒教を行為主義、形式的という理由で批判してきた。言うなれば「罪を恨んで人を恨まず」というのが儒教である。これは法律の言葉であるが、元をたどれば、儒教かキリスト教かのいずれかの言葉になるらしい。人を恨むのは良くないから、行為を恨もうというのが儒教である。

 善人、悪人というのはあまりにも安易な考え方である上に、完全な悪人とか、先天的な悪人というものに思考が固定されてよくない。さらに私情を交えてしまい、復讐心に苦しめられることにもなるので、善人、悪人という思想は選ばない方が良いだろう。それで儒教では、行為に善と悪があるだけなんだ、と言うのだが、これにも疑問がある。

 歴史学を学ぶ人はみな学ぶのが、歴史学者のE・H・カーの歴史学論である。そこには「歴史学では過去の出来事の善悪を論じない。ただ出来事の原因を探ることが歴史学である」という意味合いの文章が書かれている。その説明を簡単にまとめれば「その時代の善悪とは、その時代の社会の価値観において規定されるものである。価値観の異なる過去の時代の出来事を、現在の我々の社会の価値観に基づいて善悪を論じるということはナンセンスである」というのである。確かに聖徳太子が一夫多妻であったのを、我々が現在的な感覚で非難しようとしても成り立たないのである。そういう観点で見ると、どの行為が善であり悪であるか、というのは、あくまでも時代や社会によって規定されたもので、時代を超えたものではないというのである。

 また人間の社会には、善か悪かの答えの出せない問題が溢れている。死刑問題などが分かりやすい例だろう。また「盗む」という行為にしても、人間が盗むのとネズミが盗むのとでは罪が違ってくるであろう。単純に行為そのものをとって、善であるとか、悪であるとかを論じることはできないのである。



 儒教道徳は、倫理学的には権力説と言われるものであろう。

 儒教では「忠」と「孝」を重視する。「忠」は主君に対する忠誠、「孝」は親に対する忠誠である。このように権力に順従であり、反乱の起こさないことがもっとも良いことだと孔子は語る。特にこの点を強調しているのが朱子学である。孔子は「仁」に主眼があったのだが、それも朱子学となるともうよろしくない。林羅山の如きは「上下定分の理」などというとんでもない思想を述べている。このように、師父の教訓、法律、制度、習慣などのような権力に善の根拠を見るものを権力説という。善と悪とが権力者の命令によって定まるというのが権力説である。

 しかし、インドの理不尽なカーストに反対することが原動力であった仏教は、こうした権力説は取らなかったのである。その為に仏教は平等主義を掲げたのであった。確かに、善とはいかなる権力に背いたとしても存在することができるもののはずである。反乱を起こした勢力が正当な主張をもっていたことも、歴史では大いに見られる現象である。思想の中身を見なくて、ただ権力という形式にばかり従おうとばかりすれば、そこには大きな過ちが生まれるというものではないか。それが善だというのだろうか。

 江戸幕府が、儒教の朱子学を学問としたのは、「忠」というものを利用して、権力を磐石なものにする為だった。仏教やキリスト教などは、とかく権力に弾圧されてこそ真の信仰だ、という考えがあって、一度そうなるとどうにも一揆の収まりがつかないから、江戸幕府は儒教の朱子学を利用したのである。

 儒教は「家」を守ることを第一とする。これも江戸幕府の好むところだ。「家」を守ることが大切だから「出家」などはとんでもない「親不孝」だということになる。出家とは親や家を捨てて、ひたすらに衆生の為に仏門に生きることであるから、儒教からしたらとんでもない話である。しかし、仏教からしたら「家」に居着くことは「執着」以外の何ものでもない上に、救済する人を選り好みしているといつ話にもなる。たとえ親を一時的に捨てたとしても、この世の人々を選り好みせずに救済することが、最終的には親への報恩になるのだ、と力説するのが仏教である。

 こうしてみれば、「孝行」なり「執着」なりと、現代人が普段気にもせずに道徳的に語っていることは、ほとんど宗教が作り出しただけの価値観であり、これらの言葉を上手く転がせばまったく、自分の都合の良い理屈が簡単に出来てしまうのである。

 だから宗教を勉強すると詭弁が上手くなる。嫌いな相手が、一大決心をして東京に出てきたと言えば「親不孝だな、親御さんは寂しいだろう」と儒教道徳を転がし、家を守ろうと実家に住んでいれば「家にこだわりすぎじゃない? もっと外に出た方がいい」と仏教思想を転がす。兎にも角にも、すべて言葉の響きだけで、本当に正しいことなどこれっぽっちも言っていない。

 こういうことを考えると、合理説も間違いである。合理説とは、善と悪とが数学のようなもので、論理学に基づく合理的なものであるというのである。しかし、論理的判断と意志とは別物である。平たく言えば、頭で考えて理解するような善は、心の善、つまり衝動や意思として湧き上がってくる善には、いつまでたってもなり得ないということである。また合理説をとる場合、善とは後天的なものとなり、先天的には知りうるものでないことになってしまう。この為に、合理性に善と悪の根拠があるとするのは難しいのである。

 それでは、善人だとか悪人だとか言わずに、またこの行為に善と悪が付随しているものでないとしたら、善と悪とはどこから生まれてくるのだろうか。またそもそも善と悪とは何のことを言うのだろうか。



 仏教はとにかく善を自己の外に求めようとしない。人間は外側からの影響で真実に「知る」ということができない。何事か言葉で注意されても、それは理屈であるから、頭の中の論理となってしまい、経験にならないので、本当に精神が変わるということがないのである。

 だから、禅は言葉では教えない。教えても意味がないからである。月を指差そうとしても、人はその指し示している指先を見ているだけで、月自体を見ていることにはならない、というのが禅の有名な教えである。その指し示している指先とは言葉のことである。理屈を教わって、その時は分かった気がしても、それは単に頭で理解しているだけで、心に染みるということがない。それを自分の内側から分からせる、こういうのが禅の悟らせ方である。否、悟らせようとしているわけでもない。修行者は勝手に悟るのである。

 だから、善とは心の内側にあるものと考えなければならないのである。

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