神奈川 遊行寺
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人にものを与える時は、無心でなければならないと思う。自分というものがあるとどうしても見返りを求める。自分の都合の悪いような、小さな言葉が返ってくると反応して、途端に手の裏を返したくもなる時がある。それは悲しいことだ。しかし、考えてもみれば、自分の歩んできた道は、そんな自分勝手の繰り返しである。良かれと思ってやったことは、今から考えてみれば、そんなことばかりだ。善と思ってやっていたことは、みんな「自分」から離れた行動にはなり得ていなかったりする。
自我意識というものがある内は、人に何かを与えて本当に幸せになれることなどないのだ。すぐに「あいつめ、私のおかげで今の状況があることを分かっているのかな。ああ、何だか分かっていなそうな顔してる。一言、注意しておこうかしら」という具合になって、もはや良い人なんだか悪い人なんだか分からない始末になる。そうなるとせっかく良い行いをして、心まですっきりと綺麗になったのに、またケチがついて、後味が悪くなってしまう。無心になることは大変に難しいことだが、無心でなければ、何を為すにも独善的になってしまうのが人の悲しさというものだ。
人に一度、何かを与えたら、もうそれは自分のものではないというものである。いや、むしろ、はじめっから自分のものなどどこにもないと思って、見返りなど一切求めないことである。いや、見返りをもらおうにも、もらうはずの自分はどこにもいないのだから。
それでは、真実の善とは何か。筆者は活動説を取る。それについては後々に述べることとする。
心をどこにおくか。今、心はどこにおいているのか。どこかに置き去りにしてきていないか。たった今、立っているこの場所にどかんと心をおかなければ、手放したはずのものや去った場所にも、心を残してしまうのではないか。
この場所とは、即今のことである。禅の回にはまだ入っていないが、重要なことだと思うので、かまわずに話し出してしまおう。さらに都合の良いことに、今回、問題となる一遍上人は浄土教の中でも、最も禅的な人であったと言えよう。
筆者は、とにもかくにも一遍上人が好きで好きで仕方のない人である。一遍上人は踊り念仏で有名である。踊り念仏は民俗学的には盆踊りのルーツだとか何だとか、先生が仰っていた。だけれど、踊り念仏のことはひとまず忘れて頂きたい。
筆者は、一遍上人の思想こそが大乗仏教の一つの到達点だと思っている。もう一つは禅だと思うが、それについては後の回に委ねたいと思う。
神奈川県の藤沢に時宗総本山の遊行寺がある。江ノ島のついでに訪れると良いのではないだろうか。しかし、筆者は一遍上人の熱狂的なファンなので、もちろん、メインは遊行寺だった。
多くの人は一遍上人のことを知らないかもしれない。教科書には書かれていると思うのだが、なぜか、あまり関係のない空也と結びつけられて説明されている。空也念仏のことはあまりよく分かっていないし、空也自体のこともあまり分かっていない。一遍上人にはあまり関係がないので、この場では忘れていただきたい。でもテスト等で必要な方は覚えておいた方がよいだろう。空也。読みは「コウヤ」ではなく「クウヤ」とするのが、教科書では一般的だったと思う。
一遍上人が空也を「先達」と仰いだとしても、歴史的な人物ではなく、それは宗教的な存在としての空也だろう。伝え聞くところによると、この空也が捨聖として踊り念仏のようなものを唱えていたとか、いなかったとかいう話である。
とは言いつつも、話は空也から始まる。江戸時代にまとめられた「一遍上人語録」から空也の名前を探す。すると、こんな話が出てくる。
昔、空也上人に「念仏はどのように申すべきでしょうか」と尋ねる人がいた。空也は一言。
捨てこそ
一遍上人はこの言葉を大絶賛している。智慧も無知も捨て、善悪の境も捨て、貴賎高下の差別も捨て、地獄を恐れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、諸宗の悟りも捨て、一切を捨てて申すのが真の念仏なのだと丁寧な説明を加えている。
おまけに、
よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。
と空也上人とはまるで関係のない思想まで、熱っぽく述べている。さすがは一遍上人である。筆者はここに日本人の土着の自然崇拝と仏教思想が合流したように思えて、思わず拍手をしてしまうのである。
この世のものは全て念仏だよ、風の音や波の音もよく聞けば念仏なのだよ、と仰っているのである、一遍上人は。
一遍智真は、伊予(愛媛県)の河野家に生まれた。それは鎌倉時代のことである。
一遍上人は若い頃、修行の旅に出て、元(モンゴル)の襲来で慌ただしい北九州に訪れたり、はたまた信州の善光寺に参詣したりしていた。それから、伊予に帰り、三年あまりの間、専修念仏をすることによってついに十一不二偈を悟ったのである。
それはこういうものである。十刧の昔、法蔵菩薩が悟りを得て、阿弥陀如来になった時に「念仏を唱えれば極楽に往生すること」が約束されたこと。さらに、衆生は一回だけの念仏によって、生きながらに阿弥陀の国に往生することができること。この、阿弥陀仏が如来になった時の悟りと、衆生が念仏で往生することは同じものであるというのである。
つまり、十刧の昔と今の一念が同じものになるのである。
さらに一遍上人は、四国山地の岩屋にこもった。岩屋とは簡単に言えば洞窟のことである。一遍上人はここで半年ほどしてから伊予を出て、大阪の四天王寺に参詣して、ここで賦算を始めた。
賦算とは、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書かれた札を配ることである。一遍上人は高野聖の「六字名号の札」にヒントを得て、往生の証しとしてこの念仏札をくばることにしたのである。
四天王寺の参詣の後、一遍上人は和歌山県の高野山を目指した。高野山を参詣後、今度は熊野三山へ向かった。その熊野三山で熊野権現に教示を受けたのである。そこで熊野権現が仰るには「君のやり方は間違いだよ。阿弥陀仏が悟りを開いて以来、全ての人が極楽に往生するのはもう決定しているんだよ。信じるとか、信じないとか、心が清らかとか、心が清らかでないとか、そういうことを選ばないでお札を配りなさいね」ということである。
一遍上人が「ははあ、阿弥陀を無理に信じさせようとしたり、念仏を唱えさせたりするんじゃないんだなぁ、へええ、他力本願っていうのはそういうものなのだなぁ」と感心したかどうかは知らないが、この教示を受けたことによって、一遍上人は、人を選ばず、とにかく、まず六十万人にはこの念仏札を配ろうと決めたのであった。
例えば「それまで優しそうな人にだけ配っていたポケットティッシュを、今度からは人を選ばずに、まずは六十万人に配ろうと目標を立てた」と考えれば、これがどれほど凄まじい決心かが分かるだろう。
この一大決心を固めた一遍上人は、諸国をめぐる遊行を開始する。まず京の都をめぐり、次には中国地方を旅して、一旦伊予に帰国した。その後、またしても九州に渡り、太宰府をたずね、九州一円をめぐった後に、後継者となる真教上人と出会ったそうである。そして、一遍上人の一行は四国に渡って中国地方へ移り、厳島神社を参詣して、またしても京の都へのぼった。そこから四十八日かけて信州の善光寺に赴いたのだという。
念仏を唱えると極楽に往生できると思って、嬉しくなって飛び上がる。念仏を唱えていると、つい踊りたくなってしまうものである。形式なんていらない。今の踊り念仏にはあるのかもしれないが、この頃は往生の喜びが体を自然と動かした。楽しそうなんで、まわりの人もつい踊りだす。いわゆるエクスタシーというやつである。楽しさに我を忘れてゆく。頭を振り、肩を揺らし、足をあげて、はだけても何も隠さず、食べ物をひっつかんで食べて、もはや滅茶苦茶になって踊り狂ったそうである。
一遍上人の一行は岩手県を目指した。その後、茨城県に入り、東京にゆき、神奈川県の藤沢に滞在した後に、鎌倉に入ろうとしたが許されなかったので、片瀬の御堂で断食をすることにした。そして、この片瀬に四ヶ月半、滞在している間に、大変に帰依者が増えたそうである。
ここでは板屋根の踊り屋を仮設させた。この片瀬でようやく、胸に鉦鼓をつけた僧たちが、叩いたり合唱したりしながら、勢いよく右回りに走り踊る、踊り念仏の形式が整えられたようである。
片瀬を出立した一遍上人の一行は、箱根・伊豆を越えて、東海道をのぼり、愛知、滋賀、今度は中国地方へと向かった。そうしてから、再び大阪の四天王寺へ……。
きりがないので、ここらへんで話を打ち切ることにしよう。
さて一遍上人の思想とは、捨てることである。何を捨てるのか。全てを捨てるのである。別願和讃の冒頭を見てみよう。
身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし
命をおもへば月の影 出入息にぞとどまらぬ
これは仏教の空を現している。別に新しいことは言っていない。「諸法無我」や「色即是空」と言っているようなものである。
心も身も捨ててしまって、何もなくなって、ただ一心に念仏を唱えることのみを感じる状態は、まさに無心と言わねばならない。
この時、仏とは自己であり、自己が仏となる。分けることがなくなって、仏も我もなくて、ただ無心なのである。無心とは本来の空なる心のことである。
そして、禅においては「仏」とは「無心」のことなのだという。いや、禅ばかりではない。大乗仏教の仏とは「空」のことを現したものである。それを禅語では無心だというのである。この仏と自己が同一になる瞬間を「無心」というのである。
この一心に念仏を唱えていて「無心」なる時こそ、自己が阿弥陀仏になる時だと一遍上人は語るのである。
称ふれば 仏も我も なかりけり
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
これだけでは分かりかねると思うので、妙好人(熱心な浄土教の信者)として有名な浅原才市の言葉も乗せよう。
わしが阿弥陀になるじゃない、
阿弥陀の方からわしになる。
なむあみだぶつ。
仏とはただ無心のことを言う。それは主も客もまだ分かれざる前のこと言う。
それでは、次回からは禅の話に移りたいと思う。




