奈良 興福寺4
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さて前回までに、重要なことは大方説明した気もするのであるが、今回は輪廻転生と阿頼耶識の関連について見解を述べたいと思う。その後に、自性清浄心と如来蔵思想について述べたいと思う。
このサイトでは輪廻転生論を展開することが、もしかしたら喜ばれるのかもしれない。しかし、どう見ても「なろう」の持つ輪廻転生は独特なものなので、ここで仏教の輪廻転生を語ることが、それほど重要なこととも思えないのではあるが……。
唯識仏教の唱える阿頼耶識は、一切の存在を生じさせる心そのもののことを言う。そして阿頼耶識は、一切の存在を生じさせる種子を備えていることから、一切種子識とも称されるものなのである。
その種子の中に業種子というものがある。良い行いをしたら良い業種子が、悪い行いをしたら悪い業種子が心の底に溜まってゆく。業は現世から来世に影響を及ぼす力のことである。これが業の相続である。悪い業種子が溜まれば、来世は悪い境遇に生まれるというものである。
仏教が批判される一因には、この輪廻転生の自業自得説というものがある。先天性の障害をもって生まれた人は前世の報いだと言うのだろうか。そのような考えは悪魔のものとしか思えないのである。まさにこの論理は悪魔のものとしか言えぬものである。
ところが、釈迦自身も輪廻転生については批判的だったのである。釈迦が生まれる以前から、インドの地には、アーリア人によって輪廻転生思想が定着していたのである。また輪廻転生思想によって下支えされたカースト制度は、バラモンたちの立場を安定的なものにしていた。その中で釈迦は王子とは言え、小国の王子、実際には行く末は分からぬ不安定な身であった。また当時のインドでは、カースト下位層の人びとの多くが苦しんでいた。これは現在でもインドの抱えている問題だろう。釈迦はそんな地で、平等思想を掲げて、バラモンとカースト制度に挑もうとしたのである。そして釈迦は、衆生を輪廻転生の苦しみから解脱させ、涅槃の境地に至らしめることを目指していたのである。
こうして見ると、輪廻転生は初めから悪であった。不条理そのものと言わねばならない。これを「善行をすれば来世こそ幸せになれる」と言い直したのは、それ自体が発想の転換だったのだと思われる。どのような方向性にせよ、この思想から脱することが重要である。
釈迦は、その頃「我」と「魂」の存在を否定した。正確には存在を否定したというよりも、分かりやすく言えば「自分とは五蘊ではない」と言ったのである。つまり「自分」は、物質、感受作用、イマジネーション、意志、認識の五つのいずれでもないと言ったのである。
釈迦によって、無我説というものが提唱されると、釈迦の入滅後、輪廻転生の主体は何か、という議論が活発化してゆく。
説一切有部によって提唱されたのは「刹那生滅の心の相続」というものである。心は刹那に生まれて刹那に消滅している。その時に次の新しい心を生む種子を残してゆく。次の刹那に、前の心と少しだけ異なる心が種子によって生まれてくる。このようにして心は次々と新しい心へと相続されてゆく、という考えである。
この説によって、心は永遠なものではなく、刹那生滅を繰り返しているということが主張されるようになったのである。
唯識仏教が提唱する阿頼耶識は、これと同じように刹那生滅である。それは濁流の如きもので、次から次へと心が湧き上がっては消えてゆくのである。ところが、その実体は空である。どこかにとどまり続ける心は実在していないのである。
唯識仏教はこのように、心が刹那生滅であること、心の実体は空であること、心は種子によって相続されること、の三つを根拠として無我説と輪廻転生の関係性を説明付けたのである。
このようにして見ると、決して自己の本体が来世に転生するのではなくて、自己が生前、貯えた業種子によって、あまり関わりのない来世の他者に、業というものが降りかかっているような気もする。だが、それよりも来世観はその後、浄土教によって新しく偉大な思想が生み出されていったように思う。
さて、この薄汚れた自らの阿頼耶識であるが、そんな阿頼耶識を心の奥底まで掘り下げてゆくと、そこに自性清浄心というものがあると言うのである。自性清浄心とは人間の本性である。それは大変に清らかなものであるという。
これこそが仏性なのである。仏になる素質、または仏の心そのものと言って良いかもしれない。これにたどり着ければ、自ずと仏の悟りの世界、華厳の世界に入るというものである。
唯識仏教だけ見てゆくと、自身の心は阿頼耶識と言って、妄念の溢れる根源のように思えてくる。しかし、阿頼耶識は取りも直さず如来蔵なのである。如来蔵と言うのは、仏性を秘めた自性清浄な心のことである。
人間の心の領域は、妄念ばかりの阿頼耶識から悟りの領域である如来蔵まで広範に行き渡っている。その阿頼耶識・如来蔵である自心から、自性清浄心を発掘することが仏教の次の目標なのである。




