表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/38

喫茶店-第十三輪-

 チン──と澄んだ音が喫茶店に広がった。その響きが妙に遠く、終わりを告げる鐘のように胸に沁みた。思わず振り向けば、カウンター越しに見えるのはマスターの背中。戸棚に食器をしまう仕草が、いつも通りの静けさを保っている。それが逆に、この時間が終わりに近づいていることを告げているようで──胸がざわめいた。

 記憶のない私に、ずっと寄り添い優しく微笑んでくれた人。声には出さず、目を閉じ、心の中で感謝を伝える。今、口に出してしまうと、なんだかそれが最後になってしまう気がしたから。

 そっと瞼を開けると、視線の先──テーブルの上に、いつの間にかカフェオレが置かれていた。白い湯気が立ちのぼり、ほろ苦さと甘やかな香りがふわりと鼻をくすぐる。

 両手でマグカップを支える。手に伝わる、優しいあたたかさ。

 気付けば、頬を伝った雫がテーブルに落ち、小さな斑模様が広がっていた。


 ──これで、お別れなんだ。


 ずっと朧気だった私の記憶。走馬灯のように断片ばかりだった生きていた頃の出来事が、今はまるで昨日のことのように鮮明に蘇る。

 思い出したいと強く願いながらも、心の奥では思い出したくないと拒んでいた。その矛盾に満ちた記憶を、今はっきりと思い出せる。

 喫茶店ここを去る時は、どんな感じなのだろう。マスターと言葉は交わせるのだろうか。最後に、ちゃんとお礼は言えるのだろうか。

 それは、悲しみを帯びた少し先の物語。それでも、不思議と心は前を向いていた。


 手に伝わる温かさを感じながら、マグカップをそっと口元へ運ぶ。

 口の中に広がる苦味と甘み。喉を通っていく感触。そして、お腹の中で徐々に広がっていく温もり。

 初めてここに来た時にも感じた、理由のわからない落ち着きを与えてくれる味。その味すら、これが最後だと思うと──行儀が悪いと知りながらも、つい口の中に留めて舌の上で転がしてしまう。

 マグカップの底と目が合い、惜しいと思いながらテーブルへと置く。その瞬間、視線の先に──いつから置かれていたのだろう、透明な花瓶に生けられた一輪の黄色い花が目に入った。


「これは……彼岸花?」


 喫茶店ここに来た時、初めて触れた記憶()──けれど、目の前にあるそれは、あの時とは違う色をしていた。

 これが──私の花(・・・)、なのだろうか。

 ゆっくりと、黄色い彼岸花の花弁はなびらへと手を伸ばす。けれど、触れる寸前で、その指先はぴたりと空中で止まった。

 触れてしまえば、私の記憶が見える。そして、きっと、それが最後になる。

 この落ち着きに満ちた喫茶店。コーヒーの苦みや、果物の甘い香りが漂う空間。そして、カウンターの向こうで、変わらず背を向けて立つマスター。

 花に向けていた視線を、カウンターに向ける。


「結局……マスターの顔、見れなかったな」


 あのモヤの下に、顔があるのかは分からない。けれど、何度も確かに感じた優しい視線。せめて最後くらいは、目を合わせてお礼を伝えたい──そんな気持ちが込み上げてくる。

 でも、こうやってウダウダ理由を並べているのは──結局、私がマスターに惹かれてしまっているから。だから顔を見たいのだろう。

 これは、記憶の向こうにいる“あの人”への裏切りだろうか──と考えるが、首を振る。マスターへの気持ちは『愛してる』とか『恋してる』ではなくて。ふと、先程まで触れていたマーガレットに目が止まり、自分の感情に当てはまる言葉が浮かぶ。


「──友愛」


 私は、マスターの人となりに惹かれているのだ。恋とかそんな感情じゃなくて。

 これは、“あの人”への裏切りではない。むしろ、“あの人”とマスターを引き合わせてみたいとさえ思う。

 きっと、二人は話が合うだろう。その光景を隣で眺めながら、私はマスターが入れてくれたカフェオレを味わう。もしかしたら、二人の話が盛り上がって私が放置されて。それに対して、私が文句なんか言ったりして。


「残りたい理由ばっかり湧いてきちゃうなぁ……」


 後ろ髪が引かれる。きっとマスターを困らせてしまう。

 マスターの困り顔も見てみたい──そう思って、ふっと唇の端を上げる。そんなこと出来るはずもないと、自分が一番わかっている。

 両手を天井へと高く伸ばし、ぐっと背筋を伸ばす。よし──と気合を入れ直し、目の前の“黄色い彼岸花”へ手を伸ばす。

 これが最後。

 私の休憩時間はこれで終わり。いつまでも休んでいては、マスターに笑われてしまうから。


(行ってきます)


 誰に向けるでもなく、その別れの挨拶を心の奥でそっと呟いた。

 花弁の優しい肌触りが、指先にそっと触れる──。

もしよければ、

【評価】【ブックマーク】等して頂ければ幸いです。


よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
あら? マーガレットのは主人公の記憶では無かったんですね。 早とちりしていましたよ。 (・–・;)ゞ 次が真のラストですか。 彼岸花に戻ってくる感じだったんですね。 ラストの恋バナも楽しみです。 (…
曼珠沙華、彼岸花でお馴染みの繊細な花弁が美しい花 お墓に植えられていた事が多く縁起の悪い花とされている、毒草であり、特に球根部の毒性が強い為にモグラの害を防ぐために田畑や墓地に植えられていたためそう言…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ