チューリップ-君と思いやりと博愛の気持ち-
夕方の混雑具合がピークの駅前。
改札を抜けた人の波は、一斉に色んな方向へ散っていく。待ち合わせの相手を探す者、急ぎ足でバス停へ向かう者、スマホを片手に立ち止まる者。
人の数だけ物語が交錯しているはずなのに、私にはそのどれもが遠い世界に思えた。
壁に寄りかかりながら流れていく人の背中を眺めていると、気づけば溜息が漏れていた。
ふと空を仰ぐと、数日前まで空を覆っていた入道雲は姿を消し、一面にいわし雲が広がっていた。オレンジ色に染まる空に、細かな雲が果てしなく連なっている。
夏は終わり、もう秋が来ている。
夏休みに立てた予定も、九月の文化祭も、どれも行けないまま過ぎてしまった。
心残りばかりが積もっていく、高校生活最後の夏。
***
「好きな奴がいるんだ」
そんな言葉から始まった君の告白。唐突すぎるその言葉に、足が半歩止まりかけた。
夏休み前の放課後。地元の住宅街を二人で歩く帰り道。
正面から射し込む夕日が視界を焼き、思わず目を細める。熱を逃がすように、手にした下敷きで顔へ風を送っていたときだった。
何の前触れもなく放たれた一言。もしその告白の前に“愛の”の二文字が添えられていたなら、どれほど嬉しかっただろうか。
胸の奥が一瞬だけ期待で跳ね上がり、次の瞬間には冷たい空気に沈んでいく。
私は、動揺しているのを悟られないように、声を整えて問い返した。
「い、今は恋とかじゃなくて……勉強に集中したいって言ってなかったけ」
あれは春、桜が舞っていた季節のこと。
五年間胸にしまってきた気持ちを、ようやく口に出そうとしたあの日。勇気を振り絞って「好きな人はいるの?」と聞いた私に、君は迷いなく答えた。
──行きたい大学があるから、今は勉強に集中したい。
その答えに、私は納得したつもりだった。恋よりも夢を選んだ君の横顔に、むしろ惹かれてすらいた。
けれど今、夏の夕焼けの下で告げられた言葉は、その約束を簡単にひっくり返してしまった。胸の奥で何かが崩れ落ちていくのを、私は必死に顔に出さないようにするしかなかった。
「しょうがないだろ……好きになっちまったんだから」
何が“しょうがない”のだろう。
私に“恋はしない”と言い切ったのは、君だったのに。私の想いを封じたその言葉を、どうしてあっさり裏切れるのか。
君は恥ずかしそうに俯き、耳まで赤く染めていた。日焼けした肌の上に浮かぶその赤みが、ただの照れではなく、本気で恋をしている証に見えてしまう。
そして、その顔が私にではなく“誰か”に向いているのだと突きつけられた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。こんな表情をする君を、私はずっと待ち望んでいたはずなのに。
そんな君を見て、ほんの僅かに思ってしまった。
──もしかして、その相手は私なのではないか。
胸の奥でこぼれた願いを隠すように、精一杯平静を装って問いかける。
「それって……誰なの?」
夏の暑さに包まれているはずなのに、指先だけが冷えていく。下敷きを握る手は震え、胃の奥がきゅっと縮む。吐き気とも期待ともつかない感覚が喉元をせり上げてきて、呼吸が浅くなる。
君はそんな私の様子など気にも留めず、嬉しそうに口を開いた。
「同じクラスのさ──」
その言葉の切れ端が落ちた瞬間、世界の音が一度消えた。
蝉の声も、遠くを走る車の音も、風のざわめきさえも。すべてが途切れて、君の声だけが真っ直ぐに突き刺さる。
次に耳に届いたのは──聞き慣れているはずなのに、刃物のように鋭い音を持った名前だった。
三年間同じクラスで、同じ部活で、笑い合ってきた“親友”の名前。
君はそれを照れくさそうに告げる。その笑顔が、私の胸を最も深く切り裂いていく。
もう、何も言えなかった。
なんで、どうして──私じゃないの。胸の奥でこだまする声は、君の表情を見た瞬間に凍りつき、喉まで届かない。
握りしめていた下敷きから、指先の力が抜けていく。
手から滑り落ちた下敷きが、アスファルトの上に静かに落ちる。中学の誕生日に、君から贈られたプレゼント。その一枚が、まるで私の恋を置き去りにするかのように、足元から離れていった。
始めようとした恋は、君に止められた。
待ち続けた恋は、君の告白で終わらされた。
「なんで……私に言ったの」
喉の奥が焼けるように痛み、声が掠れて震える。
卒業するまで黙っていてくれればよかった。君が遠くへ行ってから知った方が、まだ楽だった。
恋が始まらなかったなら諦められた。でも──叶わなかったと突きつけられるのは、ただただ残酷だった。
君は、私が落とした下敷きを拾い上げる。
表面の汚れを、何のためらいもなく手で払い落とす。その仕草は昔と変わらない優しさのはずなのに、今は鋭い刃のように胸に突き刺さった。
「お前の友達だろ?協力してくんねぇかな……って思って」
君は真剣な眼差しで、私に告げる──私に、道化になれと言う。
私の好きな人の恋を、私自身の手で後押ししろと。その願いは、残酷で、不条理で、納得などできるはずもなかった。
それでも。その目を見てしまえば、拒む言葉は喉の奥で絡まり、声にはならない。
「……ん、分かった。手伝うよ」
無理に笑みを作りながら答える。
君から差し出された下敷きを受け取ると、なぜか指先に冷たさを感じた。それはもう、思い出の品ではなく、痛みの証のように思えた。
私の返事を受けて、君は嬉しそうに笑った。その笑顔──私がずっと惹かれてきた笑顔。そのはずなのに、今は正面から見ていられなくて、思わず視線を逸らした。
君は楽しそうに、私の“親友”の話をし続ける。
頭に響き渡る蝉の合唱も、道路を駆け抜ける車の音も、すべてが遠ざかっていく。残るのは、隣から届く君の声だけ。
その声を聞くたびに胸が抉られるのに、耳は勝手に追いかけてしまう──好きな人の声を、聞き逃したくなくて。
その声が私に向けられたものでないと分かっているのに、どうしても耳を塞げなかった。
少しして、別れの二股に差し掛かる。君は右へ。私は左へ。
君は笑って、よろしくな!──と片手を上げ、無邪気に笑う。その笑顔に、私はきっと笑い返した……はずだ。けれど、どんな顔をしていたのか、自分でも覚えていない。
君と別れた途端、住宅街は急に静かになった。
蝉の鳴き声も、遠くの生活音も、確かに耳には届いている。なのに、胸の内は真空みたいに空っぽで、音はすべて膜の向こうに霞んでいた。
足だけが、自分の家へ向かって動いている。一歩、一歩。
心はその場に取り残されたまま、身体だけが惰性で進んでいく──そんな感覚だった。
気付けば、家の前に立っていた。カバンから鍵を取り出し、ゆっくりと回す。
玄関の扉を押すと、この時間はまだ誰もいない、しんとした空気が広がっていた。
靴を脱ぎ、リビングへ向かう。蝉の声も、車の音も、隣家の生活音さえも──すべてが遠のいて、ここだけが別の世界のように静まり返っていた。
その真ん中に一人で立つと、本当に世界から切り離されてしまった気がした。
誰もいない。誰も見ていない。誰も聞いていない。
そう思った瞬間、頬を伝った雫がぽたりと床に落ちた。その一滴が合図のように、次から次へと涙は溢れ、呼吸が乱れる。嗚咽がこみ上げ、もう抑えようとしても抑えられなかった。
誰もいな家で、子供のような泣き声だけが響く。
「どうして……どうしてよ……」
決して返ってこない問い。
付き合えなくても、せめてフラれて終わりたかった。せめて、始めることだけは許してほしかった。君のために抑え込んできた想い。それが報われることもなく打ち砕かれた事実に、胸が張り裂ける。
頬を伝った涙はとめどなく溢れ、視界を曇らせる。嗚咽が喉を震わせ、呼吸すら乱れていく。
もう堪えることなどできなかった。
声を上げ、みっともなく泣き崩れる。流れる涙の一粒一粒に、抱き続けた恋心を削り取られていくようで──。
***
空へ向けていた視線を、改札の向こうへ向ける。
制服姿の学生、疲れた顔のスーツ姿の大人。雑踏の中で、無意識のうちに君の姿を見つけてしまった。その隣には、私の“親友”が歩いている。数ヶ月前までは、確かに私がいた場所だった。
誰のせいでもない。ただ、少しの巡り合わせが違っていたら──そう思うだけで、胸の奥が静かに痛んだ。
もう、流れきった感情に別れを告げるように。私は人波に紛れ、君から視線をそっと逸らした。
駅前の喧騒が、何事もなかったように私を包み込んでいく──。
本日は、15時30分に次の話を投稿いたします。
今週の投稿できなかった月曜日分となります。
もしよければ、覗いてみてくださいm(__)m




