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喫茶店-第九輪-

『お前のこと、幸せにするから』


 触れていた記憶が途切れると同時に、頭の奥に別の声が流れ込んできた。

 なんの捻りもない、クサい言葉。保証も根拠もない、たった一つの約束。

 その言葉が胸の奥で反響するたび、ぽっ──と小さな火が灯るように、あたたかい気持ちが広がっていく。

 どうしてこんなにも大切な言葉を、私は忘れていたんだろう。

 すぐに分かった。

 きっと私は、忘れないために、忘れたんだ。

 おかしな話なのに、不思議と腑に落ちる。矛盾しているはずなのに、心だけは納得していた。


 それでも、思い出したくない。心の奥で、誰かが小さく叫んでいる。

 きっと、いつかこの記憶は──喫茶店ここに置いていかなくてはいけない。そう分かっているからこそ、手放すのが怖い。


「あの……」


 私の声に、正面のマスターが顔を上げる。マスターはネモフィラの小さな鉢を撫でていた。

 優しく撫でる手が、少し前、私の手を優しく覆ってくれていたことを思い出してまい、胸がざわつく。頬が熱を帯びる。

 大切な記憶と言いながら、それを裏切るように目の前のマスターに惹かれかけている。


「少し、思い出せました。忘れてた記憶を……大切な、私の思い出を」

「おめでとうございます……は、少し変ですかね。でも、良かったです」


 まるで、自分のことのように笑ってくれる。その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 マスターは、静かにマグカップを持ち上げ、一口だけ口をつけた。ただそれだけの動作なのに、目が離せなかった。

 指の動き。口元の柔らかさ。視線の落とし方。気づけば、その一つひとつを追いかけていた。

 そうして浮かび上がった感情──惹かれている。まだはっきりとは認めたくない。でも、心のどこかがそう告げている。

 それは、大切な記憶を失う前提の、このやり取りから逃げるように。

 心の中で、あざけるように自分を笑う。


 ──私は、とっくに死んでいるのに。


 そうでなくても、大切な人を忘れてしまっている。たとえ、それに理由があったとしても──忘れたという事実は、裏切りと何も変わらない。

 そんな私が、誰かに惹かれている。思い出すために手を差し伸べてくれた人に。救おうとしてくれている人に。

 どれもこれも、あの人への裏切りに思えて、息が詰まる。一度浮かび上がった罪悪感は、もう止まらなかった。


「大丈夫ですか?」

「……はい、大丈夫……です」


 心が、痛い。

 マスターの声が、まるで壊れかけた私の心をそっと撫でるように優しくて──だからこそ、苦しい。

 勘違いしてしまいそうになる。その優しさが、自分だけに向けられたもののように思えて。

 寄りかかってしまいそうになる。この、温かな手のひらに。


 ──でも私は。記憶の向こうのあの人を、裏切っている。

 ──そして、今ここで私を助けてくれているこの人すら、裏切ろうとしている。


 ダメだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ。

 言い訳を許す前に、甘えてしまう前に──自分の指先に力を込めて、テーブルの下で腕に深く、爪を立てた。

 押し寄せる感情。それを、寸での所で誤魔化す。腕に走る痛みが、き止めてくれる。

 腕に走る痛みを誤魔化すように、私は無理やり言葉を紡いだ。


「マスター。他の花を──記憶を見せてください。自分の記憶を、早く思い出したいんです」


 最初は、自分が空っぽなのが怖かった。何も持たないことが、ただ不安で仕方なかった。

 けれど──色々な温もりに触れて、あの人を思い出して、心のどこかが確かに満たされていったのに。

 今は、思い出すことを逃げの手段としている。

 そんな自分が嫌いになりそうで。大切な記憶を侮辱しているかのようで。

 ずっと、ずっと、負の感情が止まらない。

 この気持ちから目を逸らしたくて。逃げ先として、誰かの温かい記憶を求めてしまう。


「マスター。早く、お願いしま──」

「──何か、勘違いされてませんか?」


 声の温度が、落ちる。今まで一度も聞いたことのないその声に、背筋が凍った。

 静かな店内に響いた言葉は、まるで刃のように鋭く、私の胸の奥を切り裂いていく。


「……え?」


 開いた口からは、何も出てこなかった。喉がひりつくほど乾いて、声にならない。


「私は、ここに来た方々の”大切な記憶”を預かっているのです」


 マスターの目が──モヤに隠れ、見えないはずなのに、まっすぐ私を見ている気がした。ゆっくりと、まるで重い扉が閉じるように、空気が変わっていく。

 今までと同じ、優しく落ち着いた声音──けれど、その言葉は明らかに拒絶の色を帯びていた。


「……それを、貴女は。”記憶”を何かの道具か何かと、勘違いしていませんか?」


 胸の奥に、冷たい水が一滴ずつ垂らされるような感覚。


「で、でも──!」


 声が上擦る。うまく言葉がまとまらない。

 私は、ただこの気持ちから逃げたいだけなのに。

 マスターに惹かれてしまっている、自分の感情から。

 記憶の向こうにいる”大切な誰か”を裏切っているという、罪悪感から。

 そして──そんな自分自身を、嫌いになりそうで怖いから。


 私に非があることは、理解している。それでも、逃げたかった。

 断片的とはいえ、私を”私”たらしめている記憶。すぐにでも思い出したい、大切な人との想い。

 きっと平凡で、何かを成したわけでもない記憶かもしれない。でも、それは私にとって──何よりも尊いもの。


「……私は、多くの方々の記憶を見て預かってきました。どれもが尊く、美しいものでした。でも、今の貴女を見ていると……貴女の記憶は──」


 マスターは、言い訳を重ねる私に、冷めた視線を向けながらゆっくりと口を開く。


「──大したことないのかもしれませんね」

「そんなことない!」


 私の記憶は、特別なんかじゃないかもしれない。

 でも、それでも──。


「あの人を……!私の中にいる、あの人を──笑わないで!」


 テーブルを叩いて立ち上がる。感情が、一気に噴き出した。

 握りしめていた拳が、ぶるぶると震えている。先ほどまで爪を立てていた腕には、赤い跡が残っていた。

 けれど、今はそんな痛みすら気にならなかった。


「……もしかしたら、マスターの言う通りかもしれない。私の思い出なんて、大したことないのかもしれない……!でも──それでも!私の中にいる、あの人だけは……マスターなんかより、ずっと、ずっと優しくて。私の隣にいてくれて、私を見てくれていたんです!」


 断片的な記憶。名前も、顔も、声も曖昧なままなのに──それでも、確かにそこにいた。私の大切な人。

 そんな人を知らない誰かに、見下されたようで、胸が焼けるほど悔しかった。

 でも……それ以上に、そんな人がいたことを忘れて、マスターに惹かれてしまった自分が、一番、悔しくて、許せなかった。


 声を張り上げたはずなのに、返ってきたのは──沈黙だけだった。

 テーブルを叩いた手のひらが、じんじんと熱い。

 足元がぐらつく。感情に任せて立ち上がったはずの身体が、今にも崩れ落ちそうだった。

 ……何してるんだろう、私。

 誰かを傷つけたくて叫んだんじゃない。

 ただ、自分の弱さを──あの人を忘れた自分を、見たくなかっただけなのに。


「思い出したいよ……ねぇ、返してよ……私の、大切な記憶……」


 震える声が、静かな店内に溶けていく。

 小さく揺れたカップの中で、波紋が広がり、静かに消えていった。その隣で咲くネモフィラだけが、何も知らぬまま、風に揺れていた。

 空気が、少しだけ重たく沈んでいく。

 置き去りにされた記憶と、伝えきれなかった想いを乗せて──それでも時間だけは、残酷なほどに、何も変わらず流れていった。


 ……ふと、視界の端に赤い葉が揺れるのが見えた。

 ポインセチアの花が、まるで私の心の奥を覗き込むように、静かに──どこか悲しげに、こちらを見つめているようだった。

もしよければ、

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よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
優しかったマスターがいきなり掌をクルンで驚きました。 しかも結構辛辣……。(^~^;)ゞ 弱さを指摘されて声を荒げるのは、後ろめたさの表れかな。 (´・ω・`)
追伸、もしかして榊様は「Shadow Corridor 2 雨ノ四葩」をプレイされた事がお有りでしょうか? 私はマスターの声と店内の雰囲気をこのゲーム基準で想像しているのですが
自身の暗い部分は見たくないし見せたくない、けれど自分の一部だからけして逃げることは出来ない 目を背けていた事を指摘されると感情が荒ぶる、正論なのに、自分が悪いのに… 身に覚えがあり過ぎて痛いです、こ…
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