ネモフィラ-許すと言った可憐なその姿-
その夏の日は、近年でも一番の猛暑で。
耳に焼き付く蝉の鳴き声は、なぜかあの年の音色だけ、今も記憶の奥にこびりついている。ただ暑かっただけのはずなのに、その景色だけは色褪せることなく、胸の片隅で鳴り続けていた。
***
「あっつ……」
田んぼの真ん中を縫うように流れる小川のそば。なだらかな斜面に腰を下ろし、自販機で買ったお茶を口に含む。
部活を引退した俺は、暇を持て余して祖母の家に連れてこられていた。
気温は都会とそう変わらないはずなのに、走り回っていた部活の暑さとは別物で、手持ち無沙汰な分だけ堪える。
「……帰るか」
このあたりは、まさに”田舎”。
カラオケもファストフードもなく、あるのは田んぼとまばらな家と遠くの山。
都会っ子じゃないつもりだったのに、この景色の中でやることを見つけられない自分は、やっぱり都会の人間なんだと思う。
整備の甘い道路を、草に触れないよう真ん中を歩く。
頭上からは容赦ない日差し、足元からは熱の反射。蝉の声を意識の外に追いやりながら、最近見る”夢”のことを思い出す。
それは、幼い自分が主人公の断片的な夢。
いつ、どこで、誰と──その輪郭は曖昧なのに、「謝らなくては」と胸を締めつける後悔だけがとても鮮明で。記憶か妄想かも分からない。けれど、一度見てしまってから離れない夢。
中身が半分になったペットボトルを片手に歩いていると、後方から自転車のベルが鳴る。
「おーい!こんな真昼間から、君は何してるのさ」
「……何かしてるように見えます?」
「うーん、散歩?」
高い位置で結んだポニーテール、デニムのショートパンツ、半袖のTシャツ。目のやり場に困る姿で、俺の歩調に合わせて並走してくる。
母親の妹の娘──つまり従姉だ。大学二年らしい。
「そっちは、逆になにしてるんですか」
「やることなくてさー。君の部屋に行ったら外出中って聞いて、探してたんだよ」
「……そっすか」
軽口を叩きながらも、その笑顔は夏空みたいに屈託がない。
東京の実家より、圧倒的に広い祖母の家。
それでも同じ屋根の下に異性の従姉がいることが、変に落ち着かないのを察してくれるわけもなく、平然と話しかけてくる。
そんな男子高校生の気持ちも知らず、楽し気に話すその姿。そんな姿を見てしまえば、文句すら言えず。
「はぁ……」
思わず溜息が漏れる。
「どうしたの?悩み事ならお姉さんが聞くよ!」
「いや……」
同じ空間に貴女がいることが悩みです──なんて言えるわけもなく。
適当な言い訳も思いつかず、口を開く。
「変な夢、見るんすよ」
「異世界転移系!?」
「……もういいです」
歩みの速度を上げると、後ろから慌てた声が追ってきて、自転車が並ぶ。
「ごめん、ごめん!ちゃんと聞くから!」
「……大した話じゃないですよ」
「いいから、いいから!姉の威厳を見せたいから!」
意味不明な理由で意気込むその顔に、話さなきゃ引き下がらないだろうと観念する。
「小さい頃の夢、なんですよ──」
今見る景色より低い視線の高さ。
誰かと、何かを約束して、でも叶えられなかった。そんな小さな頃の後悔。
記憶か夢かも分からない、文字通りの夢物語。
男子高校生が見るにはどこか乙女チックで、自分でも可笑しいと思う夢だが、横を見ると真剣に聞いてくれている。
「ふーん……子供の頃の夢かぁ」
彼女がふと視線を外し、ペダルを回す足の動きが少しだけゆるむ。
その目が、一瞬だけ寂しそうに揺れた。
「去年も来たんだけどね……」
呟きは暑い空気に紛れて消えたが、耳に残る。
真面目に聞いてくれるのは嬉しいが、真に受けられるとむず痒くなり、慌てて繕う。
「全部、俺の想像かもしれないですけどね」
彼女は上の空でペダルを漕ぎ続けていたが、ふいに声を落とす。
「小さい頃の、約束を守れなかったことを後悔してるってことだよね?」
「まぁ……そうですね」
「そっかそっか」
その表情は、笑っているのにどこか影があった。
「なんなんすか」
「なんでも」
その奥にあるものが気になり、声を掛けるが軽く流される。少しの沈黙のあと、彼女がぽつりと言う。
「──その女の子も、約束を憶えててくれてたって知ったら、きっと嬉しいと思うよ」
「……慰めて、くれてるんですか?」
「そーゆー訳じゃないけどさ」
彼女なりに、俺を励まそうとしてくれているのだろうか──と、少し先を走る後ろ姿を眺める。
先を走る背中を見つめながら、ふと気づく。
「俺……夢の子が”女の子”って言いましたっけ」
問いかけながら、口にした記憶がないとハッキリと自覚する。
俺の問いに反応し、太陽を背にこちらを振り向いた姿に既視感が胸を打つ。
「何も言ってこないから、約束忘れてるのかと思ってたよ」
その言葉に胸が跳ねる。蝉の声が遠のき、汗とは違う熱が頬に広がる。
「……俺は、何を約束したんですか」
「ほら、あの橋の上でさ。『大きくなったら、僕が結婚してあげる』って言ってくれたじゃん。私、あの日の麦わら帽子まで覚えてるよ」
胸が跳ねる。蝉の声が遠のき、汗とは違う熱が頬に広がる。
満面の笑み。それでも瞳の奥に、少しの寂しさが残っている。その視線に、今まで感じなかった罪悪感がこみ上げた。
「小さい頃の、話ですよね?」
「私は、ずっと覚えてたんだけどね。君は、なんでか私のこと避けてるし……置き去りにされた気分だったよ」
初めて知る、その時間の重さ。喉が詰まる。
初めて見る、ほんの少し寂しそうな横顔。視線が絡む。逃げられない。
「……でもね」
彼女は一呼吸おいて、口元をわずかに緩めた。
「今こうして会えたし、もういいかなって。一応、覚えてたみたいだし」
目が細められ、真っ直ぐに射抜かれる。
「だから──許す!」
その言葉は、叱るでもなく、ただ優しく。その言葉と共に、こちらに向けられた笑顔に、ドキッ──と惹きつけられる。そんな自分を自覚して、戸惑ってしまう。
こちらのそんな気持ちなど気にもせず、自転車を漕ぎ出し、少し先で止まる。
「私はねー!毎年、君に、会いに、来てるんだよー!ばっかやろー!」
真っ赤な顔で叫ぶ声が、夏空に溶けていく。
陽射しの白さも、蝉の声のうるささも、心臓の高鳴りも、すべてが背中を押してくる。
その背中を見た瞬間、足が勝手に地面を蹴った。
「まだ……間に合うかな!」
叫ぶ声が熱い空気を裂く。
走り出す俺に気づき、彼女の目が驚きから笑みに変わった。その一瞬の笑顔が、夏の光を受けてまぶしく弾けた。




