喫茶店-第八輪-
空一面に広がるオレンジ色。その輝きは、地平線まで続く海へと溶け込んでいる。
その光景を、私は海辺で”誰か”と一緒に眺めていた。横に立つ人の横顔を感じながら、それでも視線はずっと海の向こうを見ていた。
けれど──瞬きをした次の瞬間、その人はまるで煙のように、跡形もなく消えてしまった。
この不思議な記憶が、私に何を伝えようとしているのかは分からない。ただ、たったひとつだけ言えるのは──曖昧な記憶の向こうで見たはずの、あの夕焼けが、どうしようもなく綺麗で。どうしようもなく、心に残っていたこと。
「何か思い出されたようですね」
「はい……でも、本当に一部だけで。どんな記憶なのかも、正直おぼろげで……」
おぼろげな記憶。それでも──あの夕焼けの中、隣にいた”誰か”の姿だけは、不思議と温かく胸に残っている。
花畑のあの瞬間も。病室で、私が横たわっていた時も。あの人──彼は、ずっとそばにいてくれた気がする。名前も顔も思い出せないのに、私の中の何かが、彼の存在を”かけがえない”と囁いていた。
「ごめんなさい……まだ、全然思い出せなくて」
「気に病まないでください。──あ、カップが空いてしまいましたね。おかわりをお持ちします」
そう言って、マスターは私のマグカップと、タイサンボクの入った花瓶をそっと持ち上げ、静かにカウンターの奥へと歩いていった。花の香りと一緒に残る、あの人の言葉。どこまでも静かで、どこまでも温かい。
おぼろげな記憶ばかりの私にも、こうして微笑んでくれる人がいる。
──このまま、思い出さなければ。ずっとここにいられるのではないか。
そんなふうに思ってしまう私は、やっぱり……少し弱いのかもしれない。
でも、それは──マスターを裏切ることだと、分かっていた。一瞬でも、そんなふうに思ってしまった自分が、情けなくなる。
思い出したいと願っているのに、手に入るのは断片だけ。自分の記憶なのに、どうしてこんなにも遠いのだろう。
マスターの優しさに甘えるたび、足を引っ張っている気がしてくる。
弱音を吐けば、その気持ちに呑まれてしまいそうで──だから、ただ黙って俯いた。
「大丈夫ですよ」
コトン、とマグカップが置かれる。
湯気と一緒にふわりと立ち上ったのは──チョコレートの、甘くて優しい香り。沈みかけていた私の気持ちを、やわらかく包み込んでいく。
「ココアです。よければ、どうぞ。落ち着きますよ」
「ありがとうございます……」
両手で包み込むようにマグカップを持つ。
口元へ近づけると、ほんのりとしたぬくもりが唇に触れた。熱すぎないのは、きっと牛乳で調整してくれたからだろう。
一口。喉を伝って、あたたかさが身体の芯へと届いていく。氷のように凍えていた心が、ゆっくりと溶けていく──そんな感覚がした。
マスターが、静かに私の正面に座る。そして、目を合わせたまま、優しく語りかけてきた。
「ゆっくりで大丈夫ですよ。貴女の心は、ちゃんと思い出そうとしていますから」
「でも……」
言いかけた言葉を、マスターの手がそっと遮る。私の手の上に、マスターの手が重なる。
その手は、思っていたよりずっと温かくて──そして、どうしようもなく懐かしい温もりだった。
「思い出した記憶は、小さな一歩かもしれませんが……それでも、貴女はちゃんと歩けてますから」
「そう、ですかね……」
「はい。私が保証します」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
何が嬉しかったのか、上手く言葉にはできない。けれど、確かに──心が温かく満たされていく感覚があった。
気づけば、頬を伝って涙が零れていた。
「あれ……別に、悲しくないのに……」
目元を拭っても、絶え間なく涙が流れてくる。拭っても、拭っても──止まる気配はない。
そんな時、そっと差し出された紺色のハンカチ。
「マスターは、優しすぎますよ……ありがとうございます」
「いえ……これぐらい」
受け取ろうとしたその瞬間、小さな声で、私なんて──と聞こえた気がした。
気のせいだろうか。視線をマスターに向けるが、表情は相変わらずモヤに包まれ、読み取れない。
わずかに頭を振り、気持ちを切り替える。こんな時に、余計な詮索をしてしまう自分が恥ずかしかった。
受け取ったハンカチで目元を拭いながら、静かになった空間にふと気づく。どこか気まずくて、その空気をごまかすようにマスターの傍らにある小さな鉢植えに目を向ける。
「それ、知ってます。”ネモフィラ”ですよね」
「ええ、そうです」
青く可憐な花。中心に向かって、淡く白みを帯びていく。
マスターは、この花についてどんなことを教えてくれるんだろう──気がつけば、私は自然とマスターを見ていた。
花の話を聞くのが、楽しみになってきている自分に気づいて、思わず小さく笑みがこぼれた。
「ネモフィラは……実はですね、あまり語れることがなくて……。あえて言えば──ギリシャ神話にちょっとだけ登場する、くらいでしょうか」
どこかバツが悪そうに笑うマスター。その表情に、思わず肩の力が抜けた。
プレッシャーをかけてしまったかな──なんて思いつつも、そんなマスターの姿がなんだか可笑しくて、口元が緩んでしまう。
「花言葉、教えてください」
「先ほどのギリシャ神話に関連して『あなたを許す』。そして、こちらは私が好きな花言葉でもありまして──『可憐』」
──”可憐”
ドキッとした。
マスターは花言葉を言っただけなのに。なぜか、マスターの視線が私を見ているような気がして。
少し熱くなる頬から意識を逸らして、ネモフィラへ静かに手を伸ばす。誰かの、その人にとって大切な記憶へと。
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