邂逅
前半から2/3はホラーです。苦手な方はご注意ください。
まさに、凍てつく、という表現がしっくりくるような真冬の夜だった。
吐く息が白く煙り、視界を霞める。足元から這い上ってくる冷気に自然と早足になりながら、暗い石畳の家路をユーフェミアは急くように歩いていた。
原稿が仕上がったのは今朝のこと。納品のために王都クライトンまで足を運んだ午後、晴れやかな天気も手伝って賑やかな街並みについ心が弾んでしまい、膨らんだ懐具合をいいことに、気づくと予定していた乗り合い馬車に一本遅れてしまったのだ。
ただでさえ冬の日暮れは早く、次の馬車にはどうにか間にあったものの、バルフォアの街に着く頃にはすでに夕闇どころか夜の帳までが下りていた。日中は見慣れた街並みも、広すぎる間隔で灯る街灯では闇に染まる道は当然足元もおぼつかなく、まるで知らない街に迷い込んでしまったかのように心細さが襲いくる。
「おじいちゃん……、心配しているよね?」
じわりと心の隙をついて忍び寄ってくる恐怖心を追い払うように、わざと声に出して言ってみたが所詮は気休め。答えのない問いは闇の中に吸い込まれて消えたが、恐怖心まではあいにくと消えてくれなかった。
しかしこの家路を選んだのはユーフェミアだ。
乗合馬車の到着する市庁舎広場から自宅までの家路は二通りある。遠回りにはなるが街灯が灯り、馬車も通ることが出来る程度の道幅のある通りと、近道ではあるが街灯もなく、路地端に建つ家から漏れ出るわずかな明りだけが頼りの細い路地。
ユーフェミアが迷わず選んだのは後者だった。
半年前に亡くなった祖父との生活は、最初こそ生前との生活の違いに戸惑うこともあったが、今では日暮れ以降になると現れるナフムの存在こそがユーフェミアの心の支えだ。
自分のことが心配で眠りにつく事ができないナフムに少しでも安心してもらうためには、一人の生活に慣れることが何よりも祖父の眠りにつながると頭では分かっていたが、実際には側にいてくれることに安心して、心のどこかでは頼ってきっていた。
吹き荒ぶ北風に、防寒も兼ねた帽子を思わず押える。リボンを顎の下で結んではいるが、先ほどからあまりの風の強さに、突風が吹くたびに足を止めせざるを得なかった。
舞い上がった埃が目に入らないように細めていた目を開け、帰路を急ぐ。
コツコツと響く足音が狭い路地に響く。自分の立てる足音と微妙にずれる靴音に、再び恐怖心が増してくる。誰かが背後を付いてくるような気配に思わず立ち止まると、勢いよく振り返った。
止めた足に響く足音も消えている。
「やっぱりね」
当然そこに人影などいない。自分の足音が反響しているだけだろうと思ったが、あまりにもビクついている自分に対し、知らず小さな笑い声が漏れる。
「バルフォアって治安いいから」
恐怖を振り払うように、わざと陽気な声を出すと、大丈夫、と呟き身体の向きを変えた。
その瞬間、自らの動きにつられるように煙草のにおいが鼻をかすめた。思わずもう一度、周囲を見渡してみたが、先ほど同様人のいる気配はない。もしかして、どこかの家から流れ出てきたのかもしれない、ときっちりと窓の閉まった周囲の民家を見渡す。
生憎、風は強く、窓の開いた家など見当たらない。
首を傾げ、気のせいか、と気にも留めずユーフェミアは帰路を急いだ。
それから、ほどなくのことだった。
吹き付ける風に、煙草のにおいが不意に強くなった。
目を閉じて強風をやり過ごし、思わず肩に入ってしまった力を抜きながら道の先を見つめる。
「あぁ、そうか」
先ほども正面からの風を受けた時だった。単に風上で誰かが吸っていたのだ。ごく自然に納得すると、再度歩調を早めながら見慣れた三叉路にさしかかる。三叉路とは言っても、道は正面と右にそれる、いわゆるY字路だ。
自宅へと早く帰るには右に進めばいいのだが、ユーフェミアはわずかばかり歩調をゆるめると道の先に目を凝らした。その先にはぼんやりとだが黒い人影が見える。ただ、その人物が男なのか女なのか判別はつかない。気味が悪いといったら失礼にあたるかもしれないが、一応、自分の身が可愛いならば、危険なものを避けるべきだという認識はある。
ゆっくりと歩を進めながら、さてどうしようと一考する。
実のところ左の道に進んでも、家の近くの通りには出るのだ。ただ、少しばかり戻らなければならなくなり、近道をした意味はなくなってしまうが。
それほど悩むまでもなく、ユーフェミアは決断を下し、左の道へと足を向けた。
「あれ?」
おかしいと思ったのは、しばらくしてのことだった。
見慣れた場所であるはずなのに、先程も同じ場所を通った気がする。いくら暗くて視界が悪いとは言え、生まれ育った自宅近くの道を誤るはずはない。
ただ向かい風が強くて何度も足を止めたから思ったよりも時間がかかっているのかもしれない。そう言い聞かせながら、身震いを一つする。
コートの上からも凍み入るほどの冷気が身を凍らす。すでに寒さを通り越して寒気がしていた。
「帰ったら、ホットワイン作って飲もう」
震える声をどうにか絞り出す。
風邪を引いては、仕事にならない。
心のどこかに引っかかっている何かに気づかないよう、いつの間にか独り言が増えていた。
突如吹いた突風に、文句を言いながら何度目かの足止めを食い、ユーフェミアは凍みる北風に細めていた目を、次の瞬間、見開いた。
ふと鼻先にかすめた煙草のにおい。
ゆっくりと顔を上げた先には、見慣れたはずの三叉路。
そして右に伸びる道先に佇む黒い影。
コクリ、と息を呑む。
先程と寸分たがわぬ状況は、まるで時間が巻き戻ったようだ。強烈な既視感に、一瞬、夢でも見ていたのだろうかと思った。
だが、左の道を行っても、このような三叉路にぶつかることはない。記憶の中をどう探っても、市庁舎から家へと向かう三叉路はここだけなのだ。
乾いた風が喉をカラカラにする。
おかしい、とは思ったものの、だからと言って自分の記憶が絶対に正しいと言えるわけではない。
きっと、家路を急ぐあまり通った気になっていたに違いない。そう思ったユーフェミアの足は、今度は右の道へと向かっていた。
コツコツと響く足音に、暗闇の中、一軒の玄関先の段に腰かけていた人影が顔を上げた。
すぐ側でポゥっと赤い熱を帯びた小さな光が点る。強い煙草のにおいに、ほらね、とユーフェミアは心の中で呟いた。
やっぱり風上で吸っている人がいたんだ、という安心感が込み上げる。相手も不審者ではないという意思表示の為だろうか。中年の男の声が、影の中からした。
「こんばんわ、お嬢さん」
どこにでもある挨拶。
ユーフェミアも安堵感も手伝って、その言葉を口にした。
「こんばんわ」
軽く頭を下げ、通り過ぎる。
ただ、これだけのことに、何を怖がっていたのだろうとユーフェミアは口元に笑みを浮かべた。
「あれ?」
おかしいと思ったのは、それからしばらくしての事だった。
見慣れた場所のはずなのに、先程も同じ場所を通った気がした。いくら暗くて視界が悪いとは言え、生まれ育った自宅近くの道を誤るはずはがない。
ぞわりと、震えが走る。
コートの上から冷気が凍み入る。これは、寒さ――ではない。
目の前に続く道に、ポゥっと赤い小さな光が点る。先程と同じ風景。同じ匂い。
喉の奥で、風が渦巻いたように息が詰まる。
この時なって、はじめて気づいた。
死者彼らだ――。
しかも完全に、取りこまれてしまった。挨拶をしてしまった。どうしようと、小さく口から言葉がこぼれ落ちる。
昔から感覚は鋭い方だったが、ここまで完全に気づかせないとは、油断した。
浅く息を繰り返し、歩調をゆるめる。
このまま進むべきなのか、三叉路まで戻って左の道にもう一度進むべきなのか。それとも――。
ゆらりと、今まで動かなかった赤い小さな光が動いたような気がした。ポゥっと点ったかと思うと、ふわりと消える。
それを繰り返しながら、ゆっくりと、だが確実に、ユーフェミアに考える時間を与えないかのように、足音もなく――近づいてきた。
寒さも風の強さも周囲から消え失せ、一つ息を飲み込むと、咄嗟に身を翻したユーフェミアは駆け出していた。
走り始めたばかりなのに、心臓が早鐘を打っている。
三叉路まで戻って、どこへ向かうべきなのか。
すでにユーフェミアは決めていた。
高い靴音が、路地裏を駆け抜けていく。
もうすぐ――……。
街灯の明かりを視界に捕らえる。
乾いた喉はすでに飲み込んだ唾液で潤うこともなく、痛みさえ伴っている。しかし足を止めるわけにはいかなかった。
ユーフェミアは市庁舎広場へと引き返していた。
あの場所が安全と言うわけではない。ただ、明かりも点り、人通りがまだあるのだ。運良ければ夜警と出会えるかもしれない。この際、痴漢にでも会ったことにして、家まで送ってもらうのも一つの手だ。
闇を切り裂くように路地に差し込む明かりが、ユーフェミアに向かって手を差し伸べていた。
切り取られた視界に市庁舎が正面にそびえる。
記念碑の向こうに、ぽつりぽつりと人影が見えた。あの近くまでいけば大丈夫だと、理由もない確信を頼りにユーフェミアは駆け続けることしか頭になかった。
今は怖くて振り返れない。ただ、鼻についたのか煙草のにおいがどうしても消えない。
もう少し……。
何度目かの息を飲み込み、機械的に足を動かす。
周囲に反響していた足音が消え、やっと路地を抜け出し、街灯の明かりに包まれる。遠くの人影が何事かと振り返ったような気がしたが、それを確かめる間も、ホッと息を吐く間もユーフェミアにはなかった。
一瞬、煙草のにおいが異様に強くなった。ハッとした時には、背中をありえないほどの強さで突かれていた。
駆ける勢いに、足がもつれる。反射的に身体が強張ったが、体勢を整えようと一歩を踏み出した先に、スカートの裾が邪魔をして、アッと思った時には、身体は路上へと投げ出されていた。
ましてお決まりのように耳に届く馬車の車輪の軋む音と、馬の嘶きに、頭の中が空白になる。血の気の引く音と、視界が捕らえた光景があまりにも現実感がなくて、ただ身を固くして、来るべき衝撃に身構えた。
だが実際には、何が起こったのか、わずかに離れた路面にいつの間にか座っていた。
「――大丈夫か?」
声をかけられ、びくりとして振り向くと、そこには息を切らした中年の紳士が同じように路面に座りこんでいた。
驚きのあまり何も言葉を発せずにいると、その男は黙って立ち上がり、ユーフェミアを冷たい路面から立たせてくれた。
腕を支えられながら、震える足にどうにか力を入れて立つと、漸くこの人物が助けてくれたのだと気づく。
「あの……、――ありがとうございました」
茫然としながらもどうにか頭を下げると、次第に頭ははっきりとしてくる。
顔を上げて改めて目の前の男性を見ると、白いものが混ざっている為かもともとの艶なのか、街灯の明かりを浴びた淡い金髪が鈍く輝き、紳士然とした風格をまとっていた。
「何かあったのか?」
そう尋ねながら、黒いコートを着た紳士は、いましがたユーフェミアが飛び出してきた路地に険しい目を向けた。その目が微かに細められたような気がしたが、ユーフェミアは気づかなかった。
「あ、いえ……――大丈夫です」
一瞬言葉に詰まったが、死者が見えるなど説明のしようもなく、曖昧に言葉を濁すと、ようやくユーフェミアも恐る恐る、路地に視線を向けた。
そこはただ暗闇があるだけで、明るい場所にいる為か、その先は見えない。赤い小さな明かりもない。先程までまとわりついていた煙草のにおいも今は完全に消え、気配すらなかった。
助かったの? と思うと今更ながらに足が震えてくる。
「……大丈夫じゃなさそうだが」
かくりと力の抜けた身体を、歳の割に強い力で支えられ、ユーフェミアは見ず知らずの人なのに、よりかかる事しかできなかった。
「すみません。あの、ありがとうございます」
恥ずかしくなって消え入りそうな声で呟くが、紳士はきちんと声を拾ってくれた。
「ちょうどいい。先程の馬車は知り合いだから、もし良かったら送っていこう」
言われて、はたと気づく。
そう言えば、馬車の存在をすっかり忘れていたが、どうなったのだろうと頭を動かすと、すぐ先に止まった一台の馬車がいた。どうやら馬も車も無事のようだったが、何やら御者が車内に向かって何かを話している。おそらく何があったのかを説明しているのだろう。
「あ……。謝らないと……」
元を糾せば原因はアレだが、事故を起こしそうになったのはユーフェミアのせいだ。
ふらつく足にどうにか力を入れて立つと、紳士は軽く笑った。
「私が説明してこよう。ついでに送ってもらうよう頼んで来るから少しの間待っていてくれ」
そう言って、もう一度路地を振りかえると、紳士は馬車に向かって歩いて行った。
「いえ、近くですから、これ以上ご迷惑をおかけするわけには――」
先程から問答の末、馬車の扉の前まで来てなおユーフェミアは辞退の言葉を口にしていた。
「近くなら尚更、迷惑じゃないだろう。――あぁ、だが、あいつは女に節操がないからな。名は名乗らないほうがいいだろう」
車内にまで聞こえているのではないだろうか思いつつ、小声で思わず聞き返す。
「はい?」
一体何を言い出すのだろう。
「ついでに、家もはっきりと教える必要はないか……」
最後の方はどこかひとりごちるように呟くと、ふとその紳士は顔を上げた。
「若い女性が一人で暗い夜道を歩くのは感心できない。もしきみが私の娘だったら、しばらく外出禁止にするところだ」
そう言った男は馬車の扉に手をかけると、開ける前にもう一度念を押す。
「いいか。決して名を名乗ってはいけないよ」
小声で呟いた男は、そう言ってユーフェミアに返事をする間も与えず扉を開け、腕を掴むと問答無用で馬車に押し上げた。
「え……?」
てっきり男も乗るものだと思っていたが、背後で閉じられた扉に驚いて振り返る。窓から見ると男はどこか穏やかな瞳をこちらに向けていた。その瞳は空色で。どこかで、見覚えがあるような懐かしさを覚える。
どこで、と記憶を辿ろうとした時、ふと暗い車内から男の声が思考を遮るように促してきた。
「座って」
先ほどの紳士の知り合いとのことだったので、てっきり同年代の人だと思っていたが、その声は意外と若い。
言われたとおり座ると、すぐに馬車は動き出した。慌てて視線を外に向けたが、すでに先程の紳士の姿はそこになかった。
まだそれほどの時間が経ったわけでもなく、広場を探そうとしたが、正面の男がそれを阻むように声をかけてきた。
「さて、はじめましてだけど、なんだか大変な目に会ったんだってね?」
柔らかい口調で言われた内容に、途端、ユーフェミアは自分が何をしてしまったかを思い出し、頭を下げた。
「あの、先程はすみませんでした。その上、ご迷惑をおかけしてしまい――」
だが、何を思ったのか男は謝罪を遮ると、なぜだか楽しげな口調で話し出した。
「いや、きみみたいな若い女性と話せる機会ができたことは喜ばしいことだと思っているよ。先程のちょっとした事故も、幸運の女神の悪戯なら許せるというもの。でも、まあ、そうだね。こうして折角知り合えたのだから、きみの名前を教えてくれると尚ありがたいな」
軽やかな口調に、ユーフェミアは馬車の中が暗闇で良かったと思いつつ、眉間に皺を寄せたまま、幼馴染の名前を口にした。
「――……ケイトです」
微妙な間を何と思ったのか、彼はそれでも楽しげに、暗がりの向こうで頷いたようだった。
「まぁ、そう言うことにしておこうか。……まったくあの人も、余計なことを」
最後の言葉は聞かなかったことにして、その後ユーフェミアは紳士の忠告通り行動したのは言うまでもない。




