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黄昏時の溜息・小話集  作者: 薄明
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誰よりも何よりも

「私としても無理を強いることはしたくないし、きみに対してこれでもかなり我慢しているつもりなんだ。だからたまに我儘を言うぐらい許してほしいな」

 そんな前置きをされ、警戒するなと言うほうが無理と言うものだろう。

 ユーフェミアは茶器セットを用意していおいたテーブルに向かっていた足を止めると、眉をしかめてそう言った男を振り返った。



 深夜。

 イヴァンジェリンに上品且つ冷酷な罵声を浴びながら手厳しい指導を受けていたところ、帰宅したディーンがほどなく言ったのが先程の言葉だ。

 心身ともにクタクタな上に、この精神的な追い討ちは一体何の嫌がらせなのか。

 怪訝な顔を向けると、話しを聞く対応を見せたことに気を良くした彼はゆったりと近づいてきた。

 彼が帰宅した後は、いつの間にかユーフェミアも休憩を取る習慣になっていた。わずかな時間だが、お茶ぐらいならと譲歩している。

 婚約者として同じ屋敷に住んでいるのに、一日に一度も顔を合わせないで平然としているのはさすがに周囲の目もある。ユーフェミアが勉強熱心なのも、使用人たちから見れば、ディーンの為に頑張っていると思われているらしいので、好都合とばかりに否定はしていない。

 だから、ユーフェミアとしてはこれ以上何をする必要があるのだろう、という心境だった。婚約者っぽく見えているならこれで十分ではないか。でないと、自分の心が落ち着かない。この距離でちょうどいい。十分だと思っていた。

 しかしながら先程の言葉から察するに、ディーンはそれでは不満があるようだ。近づいてきた彼は、いつもよりも半歩だけ近い距離で立ち止まった。

 その距離に、思わず身を固くして彼を見上げる。

「聞いてくれるかな?」

 ふわりと漂ってきた酒気に、何気なさを装って半歩下がる。

「――酔ってるの?」

 いつもより近い距離は、まるで心にまで踏み込まれるような気分になる。しかも下がった分だけ、距離を詰められる。

「いや、酔ってはないよ。それより――」

「嫌よ」

 言いかけた言葉にかぶせる様に、ユーフェミアは遮った。夜色の瞳から逃れる様に顔も背ける。

 酔っ払いの我儘など聞く気はない。

 背後でイヴァンジェリンが何やら刺々しいものを飛ばしてきているし、リックやドリーは何やら期待の眼差しを向けている。オールドリッジ夫妻は、穏やかに見守ってくれているが、この観衆の中、おかしな我儘を言われでもしたら、対応できる気がしない。

「ユーフェミア」

 艶やかな、でもどこか憐憫の滲んだ声に、胸の奥が疼く。

 確かにディーンは今まで自分に望んだものは何一つない。望むまでもなく、罠にかける様に舞台に引き摺り上げたのだから。

 だから聞いてやるいわれはないとはね退け、言い張ることはできたはずだった。だがこの距離が、日頃は見ようとしていなかった彼の落胆を捉えててしまう。

 いつもは余裕しか浮かべたことのない目元はどこか寂しげで、笑みを刷いた唇はどこか自嘲的だ。視界の端でその様子を捕らえたユーフェミアは、ずるいと思いながらも仕方なく深く息を吐き出すと、今度は正面から彼を見つめた。

 こんな笑い方をする人だっただろうか。

「……聞くだけよ。聞いたからってあなたの我儘が通るとは思わな――」

 全部を言い終わる前に、腕を引っ張られていた。あっと思った時には勢いよく彼の胸にぶつかって、そのまま背中に回された腕がしっかりと身動ぎを封じてしまう。

「ユーフェミア……」

 頭上から届く感情のこもった声と同時に、背後からの視線が突き刺さりそうな程の敵意となって襲いかかる。

「ちょっ、ちょっと、ディーン!」

 背中に回されたこの腕にも恐怖を覚えるが、それよりも本気でイヴァンジェリンが怖い。その怒りを煽るようなシンバルの音も、お願いだから止めて欲しい。

「きみはひどく警戒心が強いくせに、時々とても無防備になるね」

 その声が、気がそれているユーフェミアを責めているように聞こえて、胸を押しやりながら眉間に皺を寄せた。

「だってあなたが言ったのよ。無理強いしないし、信頼してほしいって……」

 完全に言い逃れをしている自覚はあった。いつも一定の距離を保ってくれている彼がいきなり踏み込んでくることを想定していなかったのは自分の落ち度だ。確かに、無防備だったと言ってもいい。

「だけど私はきみのことを誰よりも何よりも愛しいと思っているよ。そんなきみとせっかく同じ屋根の下に暮らしているのに、指一本も触れられないのはさすがにきつい」

「は? いや、何言っているの! それは、ムリでしょ!? 仮の婚約だし!?」

「私は最初にきちんと言ったよ」

 確かに覚えている。彼はこの茶番を本気にしようとしている。だけど。

「私も最初にきちんと言ったわよ!」

 結婚はしないと。

 慌てて叫ぶように彼の耳元で喚いていたが、一向に背中に回された腕はゆるむ気配はない。胸を押しても身をよじっても、びくりともせず、抵抗すると逆にその拘束は強くなる。

 ヒヤリとしたものがユーフェミアの心臓を撫で上げる。

 この状況は非常にまずくないだろうか。完全に拘束されているし、先程の台詞、指一本も触れられないって……。

 カァっと頭に血が上る。

 つまり、ディーンは触れたいと思っているわけで。その状態は一歩間違えたら取り返しのつかない状況になる、とか。

「っ、分かったわよ! 我儘って何っ? もちろん紳士的な我儘よね?」

 焦りながらも牽制の言葉を言えたのは上出来だったと思う。

 だけど、やはり彼は彼だった。

「もちろん」

 そう言ってやっと腕の力をゆるめた彼は、顔を覗きこむように甘い視線を落とす。

 その顔は、企み事が成功した子供のような顔で、ユーフェミアはハッとした。

 もしかして、彼はこれを最初から言わせたかったのか?

 唖然とするユーフェミアを尻目に、彼は笑みを湛えながら身を屈め、そっと頬に唇を寄せた。

 軽く押し付けられた唇はすぐに離れていく。

 身を固くし彼を見上げると、これ以上は何もしないとでも言うように、背中に回していた手をようやく離した。

「私が帰って来た時に、こうやって挨拶をさせて欲しいな」

「……え?」

 思わず瞬きを繰り返す。頬へのキスは親しい者ならごく普通にするものだ。紳士的、とか以前の問題で、初対面の人に握手を求められるぐらいの重さしかない。

「そんな、こと?」

 目を瞬くと、彼は悪戯っぽく微笑した。

「本当はこっちの方がいいんだけどね」

 そう言って、親指の腹で下唇を撫でられ、背筋をかけ上った震えに、思わず後ろに飛びずさっていた。

「ほ、頬よ! それ以外は駄目!」

「それで十分だよ」

 そう言ったディーンはとても満足げで。

 だけど、背後から飛んで来る殺気は、誰より何よりも恐ろしく、ユーフェミアは後ろを振り返るのに相当の勇気を必要とすることになった。

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