逸話
ユーフェミアは決して料理が出来ない人間ではない。好きかと聞かれれば「得意ではない」と答えるだろうし、嫌いなのかと聞かれても「得意ではない」と答えるだろう。
というのもユーフェミアにとっての料理とは、単に食欲を満たす為に行う過程の一つであって、決して他人の口に入れる為のものではない。もともと料理自体できなくても生活する上で問題はない。単に身体に栄養を取り入れる為であれば、何かを口に出来れば味の良し悪しなど二の次だ。だが、調理をせずに生のままで食べられるものなど限られているから調理をするのであって――つまり、ユーフェミアにとっての料理とは「必要であるからする」ただそれだけなのである。
「……おいしい」
どこから調達してきたのか、脂のしっかりとのった鴨肉と野菜をただ煮込んである料理にもかかわらず、素材自体が上質なのか、それとも調理方法がいいのか、見た目の脂っぽさの割に思いのほか後口はさっぱりとしており、先程口に運んだじゃがいもも、ホクホクしながらも舌の上でざらりとした食感を残しながらもほろりと溶けた。それは玉ねぎも同様で、十分な甘みを感じさせるほど煮込んであるにもかかわらず、ほどよい食感を残しその他の野菜も、食材そのものが持っている旨味を最大限に引き出されている。
フォークを握りしめ、ユーフェミアは声にならない呻きを上げ、眉間に皺を寄せた。
ここは一階で骨董品店を営む、ユーフェミアの元持ち家だ。現在の家主から、家賃代わりに店を手伝うことを条件に二階に住まわせてもらっているが、ちなみに今、目の前に座っている人物が家主兼雇用主以外の何者でもない男で、一応この街一番の金持ちと言われている人だ。
そして何故か、この男――ディーン・ラムレイは、店ばかりかユーフェミアの生活圏にも頻繁に顔を覗かせ、なんやかやとユーフェミアの手を焼く――いや、世話を焼きたがる。
目の前に広げられた料理の品々も、親切の押し売り……いや、彼曰く、気分転換ということらしい。料理自体はユーフェミアの舌を満足させるには十分すぎるほどなのだが、必ずしもその親切が喜ばれるばかりではないと言うことを彼には知ってもらいたい。
それにしても、いつものことながら素朴な食材を使った料理であるにもかかわらず、この出来栄えを何と言ったらいいものだろうか。毎度のことながら敗北感は拭いきれない。調味料も日頃使っているものばかりで仕上げたことは、自らの目の前で手際よく実証されたことで疑いようもなかった。もちろんこっそりと――という隙もなかったと思う。
同じ食卓に着いたディーンは、本日持ち込んだワインを、同じくいつの間にやら持ち込んでいたグラスに注いで、色味を確かめながらも、ユーフェミアの思わずこぼれ落とした感想に口の両端を持ち上げた。
「口に合うようで良かったよ」
これがこの男でなかったなら素直に受け取れたかもしれない。
ユーフェミアの自宅にある調味料を使ったにも関わらず、自分が作ったものとどうしてこんなにも味が変わるのか。何が違うのか。
グラスを掲げ、色や香りを試していたワインは、どうやら彼の目に適ったらしい。ユーフェミアのグラスにも注がれ、視線だけで促された。
これがまたいつもながら料理と絶妙に合うのだ。
「ん、甘い……?」
甘みの強いワインは、食後酒としてデザート代わりに供されることが多いということを、つい先日ディーンに教えてもらったばかりだった。甘さが強いと満腹感を早く感じさせ、折角の料理の香りも消してしまう、という事だったはず。
しかしながらグラスの中で黄金色に揺らぐ液体は、果実の甘い香りと舌にはさわやかな後味を残す。料理からかすかに香るハーブとの相性も悪くない――ような気がする。
意外な相性の良さに驚きつつもテーブルに置かれたボトルの銘柄に視線を走らせると、それに気づいた彼の口の端が微かに持ちあがった。
「このワインは、大陸南方にあるヤドヴィガ山脈のさらに南側でしか作られない品だよ」
ボトルのラベルには見知らぬ文字が印字されており、それでもユーフェミアはかろうじてその地名を読みとろうとした。
「ザクサ……リュー?」
もちろん聞いたこともなければ、どこの国なのかも分からない。ヤドヴィガ山脈と言えば、エリュシカ大陸を南北に分ける尾根である。大陸北西にあるこのフェアクロウから遥か彼方の地だ。彼の仕事柄、他国のこういうものも手に入れることができるのだろうか。
「ザクスリュム――現在は、ルーヴェルフェルトの地方都市……とは言っても片田舎だけど、このアイスワインは古くからそこでしか作られていない。いや、作れないんだよ」
微妙に引っ掛かりを覚える言い回しに、ユーフェミアは片眉を上げた。
作れない?
ここは素直に聞いてあげるべきなのだろうか。
食事時には会話を楽しむ方がいい、と言うのは頭では分かっているつもりだが、だからと言って、別段この男と仲良くしようと思っているわけでもない。何度か試してみたが、ユーフェミア自身が黙々と食べていても勝手に話してくれるし、適当に相槌を打っているだけでも、なんとなく話題は途切れることもない。それに沈黙が落ちたとしても、悔しいことに料理だけは美味しいのだから、気まずさを感じることもないのだ。
だけど、この口溶けのよいワインはかなり心擽るものがある。
自分で買うことはできないだろう値段は想像に難くないが、もしも――いつか飲みたいと思った時に手にするべき情報を持っていたら?
心の天秤が小さな音を立てて傾く。
「……作れないって、何か、条例とかそんな約束事のようなものがあるの?」
どこまでも素っ気なさを装い、温めなおしてふわふわになったパンを千切った。こうばしい香りが周囲に広がる。
「ところできみはアイスワインがどうやって作られるのか知ってるかい?」
質問への答えがないまま、逆に質問で返され、ちょっとだけムッとしながら首を横に振った。知るわけがない。料理酒としてではなく、まして身体を暖める為のものでもなく、純粋に酔うことを楽しむ為だけの嗜好品としてこんな高級な酒を口にする機会が庶民にあるだろうか。
有名と言われている銘柄さえ聞いたことがないのだ。ワインの作り方など当然知る由もない。
「知るわけないでしょう」
目を細めて、冷ややかな視線を送る。だが視線が完全に合う前に、皿の上の料理へと視線を戻した。
口では当然のように言ってしまったが、単に冷やしたワイン――というわけではないだろう。
ディーンが持ち込んだワインは、彼が料理をする間、暖のない部屋に置かれているが、季節が冬である今、それらはかなり冷えている。そんなものをすべてアイスワインとはさすがに言わないだろう。と言って、今飲んだばかりのワインが、凍っていたほど冷たかったわけでもない。いつもより甘いと思ったが、あとは普段と変わりなかった。
「この国も冬は厳しく寒いけど、夏は海に面しているため雨も多く汗ばむ日が続くだろう? だけどザクスリュム地方は空気も乾燥していてとても夏が短いんだ。初秋の朝には霜が降りるほどで、酷い時には葡萄の収穫前に折角実った果実が凍ってしまうほどにね」
「あ……まさか」
頭の中で描かれた葡萄の姿に、目の前の男が言わんとしていることを察して思わず視線を上げると、満足げな笑みを浮かべた男と視線があった。
「そう。この甘さは実を凍らせることによって引きだされるんだ。そこからアイスワインと呼ばれるようになった。近年では樹を品種改良して、収穫時期を遅らせることによって生産量を上げているようだけど、それでも自然に左右されるものだからね」
年によってはまったく作れない事もあるらしい。
そのようなワインを、手に入れることなどまず無理だと早々と諦めようとした矢先、
「しかしきみが気に入ったなら、また手に入れてくるけど?」
いとも簡単なことのように言われ、思わず睨む。
こういうところが気にくわないのだ。
庶民の生活に慣じんでいる素振りを見せながら、格の違いを見せつけられる。もともとの生活基準が違うのだ。それなのに無遠慮に人の生活に入り込んでくる。羨ましくないわけではない。倹しい生活を強いられている庶民を憐れでいるかのようなその態度が気にくわないのだ。
「結構よ」
今、こうして飲んでいるワインでさえ、本来は贅沢なものなのだ。
よく考えれば、このボトル一本で、一体どれほどの生活が出来るのだろうか。一気に酔いが冷めていく。喉元が苦しくなって胃の辺りが詰まるような気がした。
「ねえ」
フォークを皿の上に置くと、ユーフェミアは今までに何度となくしてきた件を口にする。
「もう、こんなことは止めて欲しいのよ」
「こんなことって?」
見るからに分かっていそうな表情で、ぬけぬけと聞いてくる。
「――単に雇用関係しかない者同士が、夕食を一緒にとるなんておかしいわ」
傍から見たらどう思われるか。いや、それに関しては思うところもあるから気にはしていない。ユーフェミアが引っ掛かっているのはそんなことではないのだ。
目の前の料理も決して美味しくないわけではない。食材も鴨肉以外は簡単に手にはいるものばかりだが、持ち込まれたワイン一本でも、贅沢以外の何ものでもない。
ディーンは自分が金持ちであることを誇示してはいないつもりなのだろう。だが、料理の仕方一つにとっても、その知識は庶民が知っているレベルのもではない。
そう、知識――。
それがいかに重要で、お金にかえ難いものであるか。ナフムが生前、「できるなら世の中、全ての本を読んでみたい。だからと言って知識を得る為に本を買ってばかりいると生活することができなくなってしまう」と嘆いていた。知識を手に入れる為には、ある程度のお金が必要ということも。つまり、上流社会の人間は、望めばいくらでもそれを手に入れることができるのだ。
ここにもユーフェミアはディーンとの差を感じて、乗り越えられない壁を目の前にして敗北せざるを得ないのだ。
負けるのは必然。
だから、彼がこうして自分に関わるのはどうしても、優越感にひたる為としか思えないのだ。いや、そうは思っていなくてもユーフェミアが負けを感じてしまう。
そんな思いを目の前の男は知ってか知らずか、それでも迷惑という感情には気づいていないはずもないのに、うっすらと口元に笑みを湛えたまま、ワインのボトルを手に取るとさらに蘊蓄を語り始めた。
「このアイスワインを最初に造り出したのは、自然の偶然の産物……と言いたいところだが、ある一人の女性の功績だといわれているんだ」
ジッとボトルに視線を注ぎながら話は続く。
「当時のその地を治めていた小国と長い間敵国の関係にあった国から嫁いできた王女が、それを提案したと言われている」
「政略婚だったのでしょう? 王女サマも大変ね」
その時代の、その国の背景などまったく知らない。だけど、ユーフェミアが生業とする写本の中の物語は、政略結婚に愛情が附随しているものなど稀でしかない。まして結婚に夢や希望を持てるほど、ユーフェミアもまた若くはなかった。
ディーンの語った昔話にしても、その王女はさぞかし聡明な姫として伝えられているのだろう。だが現実として、どうだろう。ザクスリュムの人々は、簡単に姫の提案を受け入れられたのだろうか。村人たちは余所から来た姫に反発しなかったのだろうか。
少なくとも、ユーフェミアは現在の自分の生活に満足しているならば、引っかき回されることなどごめんだった。
つっけんどんな言い方に、ディーンはちらりと視線を上げる。
「確かに、王女は大変だっただろう。しかし後に王妃となった彼女は、幾度となくかつては敵国だった嫁ぎ先の国をその聡明な頭脳をもって救ったそうだよ」
「……へぇ。で?」
結局、何が言いたいのだ、この男は。
冷めた眼差しのまま促したが、男はあっけらかんと言った。
「で? この話は終わりだよ」
と言って、肩を竦めて見せた。
当然、一気にユーフェミアの苛立ちは湧き上がる。が、こういう時、怒りをぶつければぶつけるだけ彼は面白がるのだ。それが余計にユーフェミアの怒りが増す原因になるのだが、結局疲れるのはユーフェミアの方なのだ。
それが分かっているだけ、感情を出来るだけ抑えようすると、声まで低くなってしまった。
「終わりって――。……わけが分からないわ。私があなたと一緒に夕食を食べる必要があるかどうかと、その王女サマとどう関係があるのよ?」
その質問に、ディーンは片眉を上げ、諭すような口調で言った。
「私が言いたいのは、きみの生活はとても閉塞的だということだよ。つまり、同じく閉塞的だった村人たちと同じように私という人間を受け入れてみるのもいいんじゃないか。得るものがあるかもしれないだろう」
「余計なお世話よ。私は今の生活で満足しているわ」
別に今の生活に不満を感じているわけではない。これでも十分、幸せなのだ。
こちらの考えを知ってか知らずか、ディーンはそれでも食い下がった。
「うん。悪くないとは思う。だが、きみは若い。もっと外の世界に目を向けた方が、顧客層も広がり、もっと豊かな生活だって出来る。欲しいものだって買えるし、おしゃれだって楽しむことができるだろう?」
「私は! 食べていけるだけの収入があればいいと思ってるわ」
まったくもって、余計なお世話というものだ。
しかし思いのほか真剣な眼差しが、ユーフェミアの反論を止めた。
「それは職人としての誇りがそう言わせているのかい? 確かにきみの職種は昔はなくてならないものだっただろう」
でなければ、古の書物が現存する可能性が激減したはずだ。
書に写された賢人の知は宝だ。
だが――
「これからはきっと印刷の技術が向上し、果たしてきみが食べていけるだけの職として残るかどうかは分からない」
突き付けられた現実は、容赦なかった。
「……分かってるわ」
ユーフェミは軽く目を伏せた。
今まで考えたことがなかったわけではない。
言い包められるかのように言いたい放題言われ、思わず唇をかみしめる。先の事など分からない。でもだからと言って問題の趣旨がすげ替えられるのに気づかないユーフェミアではなかった。
「でも、それはそれ。あなたと食事をする必要がどこにあるのよ」
煙に巻かれそうになった問題を冷ややかな声で口にする。
「私の事を気づかってくれるのはありがたいわ。でも、慈悲を受けるほど私は貧しくもないし、見返りをあなたに返す気もない」
はっきりと告げたつもりだった。私は一人で生活していることに、矜持を持っていると。ディーンの行為は、その矜持を傷つけていることなのだ。
「だったら、私がここで夕食を一緒しても、かまわないじゃないか」
「は?」
一体、この男の思考回路はどうなっているのだ。
眉間に皺を寄せ、じっと見つめると、彼は唇の両端を持ち上げた。
「私はきみを哀れんでいるわけではない。まして見返りを期待しているわけでもない。先ほどの王女の話ではないが、おそらく王女も村人たちに何か見返りを期待してたわけではないだろう。発展する見込みがあり、自分に出来ることがある。だから手を貸した。ただ、それだけだよ」
さも当然のように言って、ディーンは、まあ、と声の色調トーンを落とした。
「全く下心がないとは言えないけどね」
「……?」
下心? とは、何を言っているのだ。
ユーフェミアはディーンをじっと見つめると、その不仕付けな眼差しが痛かったのか、それともほんのわずかな良心が痛んだのか。ディーンは言い訳のようなものを口にした。
「先行投資のことだよ。まあ……あえて見返りを期待していると言えば、女性と食事をした方が断然、楽しいって事かな」
果たして、彼の口から語られることは真実なのか、どうなのか。
その女性が自分じゃなくてもいいじゃない、とこれ以上、譲りそうもないディーンに、ユーフェミアは胸中で呟いたのだった。




