王妃たちの秘めやかな娯楽・前編
国王と楽師が『デキている』という噂は、王宮中に拡散してしまっていた。
彼らの私生活を直接知る者――国王侍従や風紋殿付きの女官や後宮の王妃たち――はそれが噂にすぎないと経験的に理解している。
女好きで有名な国王が、いくら眉目秀麗とはいえ男に惑わされるとは考えられなかったからだ。それらしい光景を目撃した者もいない。近しい人間の間では、一笑に付されてそれで終わりだった。
しかし、王宮の中央から遠ざかるにつれて、逆に噂は真実味を持って語られていた。
曰く――国王はほぼ毎晩楽師を寝室に呼び、朝になっても手放そうとしない。だから最近、執務の開始時刻が遅れがちになっているらしい。
曰く――国王が楽師に執心するあまり、後宮への渡りが激減している。近々妾妃たちの大規模な人員整理が行われるらしい。
曰く――楽師にちょっかいを出した某官吏が国王の逆鱗に触れ、降格されて砂漠の端に飛ばされた。その後謎の事故死を遂げたらしい。
まったくもって根も葉もない与太話ばかりだったが、国王と直接口を利く機会がなく楽師とも接点のない者たちにとっては格好の娯楽になった。各々好き放題に脚色を加えて、まことしやかに触れ回ったのだった。
セファイド本人は、噂がそこまで広まっているとは認識していなかった。
もともとは、あえて放置しておいた噂である。深夜まで二人きりで酒を酌み交わしていたことが誤解を招いたらしい。
心外に思いながらもセファイドが火消しに回らなかったのは、予想以上にサリエルに夢中になる者が続出したからだ。そのうちによからぬ行為に及ぶ者も出てくるのではと危惧され、そういった不届者を牽制するために『国王の手付き』という疑惑を否定せずにおいた。
「王宮内の風紀の乱れを防ぐために、あえて汚名を着てるんだ、俺は」
なぜか偉そうなセファイドの口調は逆に言い訳じみていて、彼の頭を膝に乗せたタルーシアはくすりと笑った。
「嘘をおっしゃいませ。殿方はともかく、後宮の女がサリエルに靡くのが面白くないのでしょう?」
「俺がそんなに度量の狭い男に見えるか?」
「見えますわねえ」
若干乱暴に耳かきを動かされて、セファイドは顔をしかめた。周囲の侍女たちが声を潜めて笑う。
後宮の最奥、正妃の自室で、セファイドは長椅子に寝そべっている。久々に訪れた夫に膝を貸しながら、タルーシアは彼の耳掃除をしていた。傍目には仲睦まじい夫婦そのものの姿である。
「念のためにお尋ねしますが、本当にただの噂なのですね?」
「当たり前だろう」
「だったら放置せずに否定なさいませ。下々の間ではずいぶん面白おかしく広まっているようですわよ」
「詳しいな。女の情報網はあなどれない」
「あなたの女漁りですら十分みっともないのに、そのうえ男にまで手を出したなどと他国に知れ渡ったら、私恥ずかしくって外交の場に出て行けませんわ。オドナス国王は多趣味でいらっしゃる、奥方はよっぽど寛容なお方なのだ、なんて皮肉を言われるのは私なのですよ。本当にこういうことには無頓着なのだから、あなたは」
「みっともないって、おまえな……」
ぽんぽんと浴びせられる小言に対し、さすがに抗議しようとしたセファイドは、ふと、長椅子の前のテーブルに見慣れぬ本が置かれているのに気づいた。
本といっても分厚い書物ではなく、数十枚の紙を綴った冊子だ。赤い表紙がつけられた装丁は妙に丁寧だった。
何気なく手を伸ばそうとすると、
「はい、終わりましたよ」
と、タルーシアが彼の頭を膝から押しのけた。
セファイドは長椅子から転げ落ちそうになって、慌てて立ち上がる。不機嫌そうに睨むが、妻は澄まし顔だ。
「では陛下、おやすみなさいませ」
「何だ、俺は泊れないのか?」
「申し訳ないのですが、今日は生理痛が酷くて。あなたが隣でいると落ち着いて眠れません」
彼女は正妃にだけ認められた拒否権を行使した。
「じゃあ俺は今夜どこで寝ればいいんだ」
「ここをどこだと思ってらっしゃるの? お渡りを待っている女は山ほどいるでしょうに。さ、お見送りして」
丁重に、だが半ば強引に侍女たちに追い立てられて、セファイドは部屋を出ざるを得なかった。
タルーシアは決して怒っているふうではなかったが、その華やかな美貌に浮かんだ少女のような微笑みが、なぜか不気味だった。
さてどうしたものかと迷ったのも束の間、セファイドはその足で他の妻の元へ向かった。
昨年召し上げた妾妃である。物静かで穏やかな女で、ゆっくり眠りたい気分の彼にとっては丁度よかった。
普段ならば侍従が先触れに回る。だが今夜は急な行き先変更で、またいきなり現れて驚かせてやろうという悪戯心もあって、セファイドは予告なしに女の部屋を訪れた。
「まあ陛下! いかがなさいました!?」
突然の来訪に、女はひどく驚いたようだった。
「今夜は正妃様の所にいらっしゃるとばかり……」
「追い出されたんだよ。慰めてくれ――邪魔するぞ」
女の狼狽が引っ掛かったが、セファイドは躊躇なく部屋に入っていった。
部屋の中には五、六人の女たちがいた。長椅子や敷物の上で寛ぐ彼女らは、みな後宮の妾妃たちだった。その全員が手に本を持って、何やら熱心に読み耽っている。
セファイドは軽く驚いた。妾妃たちの仲が必ずしも良好でないのは彼も知っていた。時として諍いに発展するほど不仲な彼女らが、ひとつ部屋の中に集まっているとは珍しい光景である。
一人がセファイドの入室に気づき、途端に血相を変えて立ち上がった。他の者たちも次々に立ち上がって、慌ててお辞儀をする。
「楽しそうじゃないか。何を読んでいる?」
「あ、あの、これは違うんです。何でもありません」
妾妃たちが背中に隠した本には、赤い表紙がついていた。セファイドは目ざとく見咎めて、
「タルーシアの部屋にもあったな。それは何だ?」
「いいえ、ほんとに何でも……」
「それよりも陛下、お酒をご用意いたしますわ。どうぞお掛け下さいな」
「今夜は私たち皆でお相手をいたします。さあさあ、こちらへ」
彼女らは大袈裟にしなを作って、セファイドに纏わりついてくる。そのわざとらしさが、ますます彼の不審を煽った。
「いいから、見せなさい」
あくまで優しく、彼は命じた。
主人の命令は絶対である。妾妃たちは顔を見合わせ、それからおずおずと手にした本を差し出した。
「これ、王宮の女性の間で凄く流行ってて……でも、陛下がご覧になるほどのものでは……」
実に気まずげに言い訳をする女たちを尻目に、セファイドは本の頁を捲った。そこに書かれた内容にざっと目を通して――絶句した。




