国王侍従の鬱憤と羊
ロタセイの男子の成人年齢は、オドナスと同じく満十七歳である。
今年その年齢を迎えたナタレのために、成人祝いと称して学舎の仲間が宴席を設けた。街の小さな酒場を借り切って、留学生三十人近くが集まった。
「これでナタレも堂々と酒が飲めるようになったなあ」
酒宴の発起人であるフツが、隣に座ったナタレの杯に蒸留酒を注ぎながら笑う。フツは昨年成人したが、その前から平気で酒も煙草も嗜んでいた。
ナタレはきついアルコール臭に眉を顰める。
「堂々とって……今までもこそこそ飲んでたみたいに言うな。おい、これ水で割ってくれ」
「あかーん! 最初の一杯はそのまま飲めっ」
フツは自らの杯を高々と掲げた。他の者たちも一斉に乾杯する。
「成人おめでとう!」
「クソ真面目なロタセイ王太子に!」
飲み始める前から賑やかな仲間たちに苦笑いを浮かべて、ナタレは杯に口をつけた。
純度の高い酒精に、舌先が痺れた。
ヤローばっかの飲み会なんでぜひ華を添えに来て下さい――フツからそう誘われていたサリエルは、遅れてやって来た。さらに男が加わってもむさ苦しくなるばかりでは、という指摘はこの楽師には無縁だ。
昼間から夕方にかけて二件の仕事が入っていて、彼はついさっきまで某貴族の屋敷で演奏していたところだった。奥方が熱烈に夕食に招待するので、丁重に断るのに時間がかかってしまった。
彼が到着した時、貸切になった酒場は宴たけなわの様相を呈していた。
「遅くなって……」
すまなかった、と言いかけて、サリエルは戸口で立ち止まる。
五、六卓のテーブルに食べかけの料理と酒瓶が並んでいたが、集まった留学生たちは手に手に杯を持って、中央のテーブルを囲んでいた。皆を引き寄せるそのテーブルからは、澄んだ歌声が聞こえてくる。
サリエルは、珍しく驚いた表情をして、銀色の両眼を瞬かせた。彼らの前で歌っていたのはナタレだったのである。
今宵の主役は椅子から立ち上がり、よく通る声で独唱していた。
故郷の民謡であろうか、特徴的な旋律に乗せて羊を数える素朴な歌詞が謡われる。音程は正確で声は伸びやかで、特に中低音の響きが見事だった。もちろん節回しなどは玄人のそれではないが、逆にその素直な歌い方が曲によく似合っていた。
隣の席のフツをはじめ、留学生たちは一様に熱心に聴き入っているようだった。宴席の余興であるはずなのに、野次を飛ばす者は一人もいない。
サリエルは手近な椅子に腰掛けると、ヴィオルを膝に乗せた。
耳で覚えた旋律に合わせて即興の伴奏を始める。歌を妨げぬよう控えめな音量ではあったが、流れ始めた艶やかな弦の音色で、聴衆たちはようやくサリエルの入店に気づいた。彼らの口から感嘆の溜息が漏れる。
当のナタレは気づいていない様子で、堂々と歌い続けた。少し目元が赤らんでいる。
王都の片隅の小さな酒場で、当代一の楽師と属国の王子の協奏が演じられた。
それは奇妙な取り合わせではあったが、聴く者の心をなぜか温かくした。音楽の良し悪し以前に微笑ましい――そう感じさせる、ある意味貴重な協奏であった。
終いまで歌い切ると、ナタレはすとんと椅子に腰を下ろした。
留学生たちは一瞬静まり返り、それから歓声を上げて拍手をした。杯を持っているので拍手の音は小さいが、口々にナタレを誉め称える。
「おまえ実は歌上手いんだなあ! 知らなかったよ」
「俺ちょっと感動した!」
「いやー、やられたわ。貶してやろ思てたのに、参った」
フツは笑いながらナタレの髪を掻き回した。一向に酒の進まないナタレに対し、飲まへんのやったら歌でも歌えとしつこく絡んだ彼は、想像以上の結果に誰よりも驚いていた。
「サリエルさん、来てくれたんですね。こいつの歌聴きました? めっちゃ上手ですよね?」
「うん、上手だった。私も驚いたよ。音程が完璧なのは耳がいいんだね」
「ほらー、宮廷楽師が誉めてくれてんで。あれロタセイの民謡か? ……て、ナタレ?」
ナタレが無言で俯いたままなので、フツは怪訝そうに眉を顰めた。
肩がふるふると震えているのに気づいて、彼が顔を覗き込んだ時、ナタレは両手の拳を勢いよくテーブルに叩きつけた。振動で皿がガチャンと音を立てる。
「チャッピーに会いたいんだよ俺は!」
唐突な叫びに場の空気が固まる。
「……チャッピー?」
「チャッピーは羊だよ羊! 知らないのか? 俺はもふもふしたいの! 癒されたいの! もうあんな家族に顎で使われるのは嫌だっ……」
「お、おいナタレ?」
「父親は横柄だし、母親はおっかないし、兄貴は苛めっ子だし、妹は我儘だし、何で俺ばっか振り回されなきゃなんないんだよ……もうほんとに嫌だ……帰りたい」
ナタレはテーブルに突っ伏して、そのままシクシク泣き出してしまった。
驚きを通り越して、フツは呆然とした。優等生のあまりの豹変ぶりに、誰かがごくりと唾を飲む音がする。
そうとう溜まってるんだなあ、とその場の全員が同じことを考え、同情した。
見兼ねたサリエルが、ナタレに近寄ってその背中を擦った。
「気持ちは分かるよ。でもほら、こんな所で泣くんじゃない。君はロタセイの……あれ」
彼はテーブルに伏せたナタレの顔に耳を近づけ、首を振る。
「寝てる」
「マジか!?」
「君たち、ナタレにどれだけ飲ませたんだ?」
「いやいや、最初に注いだ一杯だけですって。ほら、まだ半分も残っとるし」
フツはナタレの杯を確認して他の者にも見せるが、ナタレは気持ちよさそうに寝息を立てていた。わずかな量の蒸留酒で気分が高揚して、あっという間に潰れてしまったらしい。
「こいつ、下戸なうえに、歌い上戸で泣き上戸やったんやな」
めんどくさっ、とフツは吐き捨てたが、普段は真面目な友人の意外な一面を目にして、満更でもなさそうだった。
次の朝、学舎の自室で目を覚ましたナタレは、昨夜の出来事をほとんど覚えていなかった。
大して飲んだ記憶はなく、頭痛や吐き気も残っていない。それなのに自分の行動だけが思い出せないのは気味が悪かった。参加した他の仲間に尋ねるも、みんな曖昧に笑ってはぐらかす。
遅れてやって来たというサリエルにも当たったが、ひどく優しい目で見詰められて、
「あまり無理をしてはいけないよ。たまには息抜きをしないとね」
と、労わられてしまった。
周囲の生温かい気遣いのせいで、結局何があったかナタレは知らずじまいだった。ただ、とんでもない醜態を晒してしまったとだけは直感した。
その後しばらく彼は『チャッピー』と呼ばれるようになり――金輪際、酒は飲むまいと自らに誓ったのだった。




