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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
おまけの小咄集
55/57

国王侍従の鬱憤と羊

 ロタセイの男子の成人年齢は、オドナスと同じく満十七歳である。

 今年その年齢を迎えたナタレのために、成人祝いと称して学舎の仲間が宴席を設けた。街の小さな酒場を借り切って、留学生三十人近くが集まった。


「これでナタレも堂々と酒が飲めるようになったなあ」


 酒宴の発起人であるフツが、隣に座ったナタレのさかずきに蒸留酒を注ぎながら笑う。フツは昨年成人したが、その前から平気で酒も煙草も嗜んでいた。

 ナタレはきついアルコール臭に眉をひそめる。


「堂々とって……今までもこそこそ飲んでたみたいに言うな。おい、これ水で割ってくれ」

「あかーん! 最初の一杯はそのまま飲めっ」


 フツは自らの杯を高々と掲げた。他の者たちも一斉に乾杯する。


「成人おめでとう!」

「クソ真面目なロタセイ王太子に!」


 飲み始める前から賑やかな仲間たちに苦笑いを浮かべて、ナタレは杯に口をつけた。

 純度の高い酒精に、舌先が痺れた。





 ヤローばっかの飲み会なんでぜひ華を添えに来て下さい――フツからそう誘われていたサリエルは、遅れてやって来た。さらに男が加わってもむさ苦しくなるばかりでは、という指摘はこの楽師には無縁だ。

 昼間から夕方にかけて二件の仕事が入っていて、彼はついさっきまで某貴族の屋敷で演奏していたところだった。奥方が熱烈に夕食に招待するので、丁重に断るのに時間がかかってしまった。

 彼が到着した時、貸切になった酒場は宴たけなわの様相を呈していた。


「遅くなって……」


 すまなかった、と言いかけて、サリエルは戸口で立ち止まる。


 五、六卓のテーブルに食べかけの料理と酒瓶が並んでいたが、集まった留学生たちは手に手に杯を持って、中央のテーブルを囲んでいた。皆を引き寄せるそのテーブルからは、澄んだ歌声が聞こえてくる。

 サリエルは、珍しく驚いた表情をして、銀色の両眼を瞬かせた。彼らの前で歌っていたのはナタレだったのである。


 今宵の主役は椅子から立ち上がり、よく通る声で独唱していた。

 故郷の民謡であろうか、特徴的な旋律に乗せて羊を数える素朴な歌詞が謡われる。音程は正確で声は伸びやかで、特に中低音の響きが見事だった。もちろん節回しなどは玄人のそれではないが、逆にその素直な歌い方が曲によく似合っていた。

 隣の席のフツをはじめ、留学生たちは一様に熱心に聴き入っているようだった。宴席の余興であるはずなのに、野次を飛ばす者は一人もいない。


 サリエルは手近な椅子に腰掛けると、ヴィオルを膝に乗せた。

 耳で覚えた旋律に合わせて即興の伴奏を始める。歌を妨げぬよう控えめな音量ではあったが、流れ始めた艶やかな弦の音色で、聴衆たちはようやくサリエルの入店に気づいた。彼らの口から感嘆の溜息が漏れる。

 当のナタレは気づいていない様子で、堂々と歌い続けた。少し目元が赤らんでいる。


 王都の片隅の小さな酒場で、当代一の楽師と属国の王子の協奏が演じられた。

 それは奇妙な取り合わせではあったが、聴く者の心をなぜか温かくした。音楽の良し悪し以前に微笑ましい――そう感じさせる、ある意味貴重な協奏であった。





 しまいまで歌い切ると、ナタレはすとんと椅子に腰を下ろした。

 留学生たちは一瞬静まり返り、それから歓声を上げて拍手をした。杯を持っているので拍手の音は小さいが、口々にナタレを誉め称える。


「おまえ実は歌上手いんだなあ! 知らなかったよ」

「俺ちょっと感動した!」

「いやー、やられたわ。貶してやろ思てたのに、参った」


 フツは笑いながらナタレの髪を掻き回した。一向に酒の進まないナタレに対し、飲まへんのやったら歌でも歌えとしつこく絡んだ彼は、想像以上の結果に誰よりも驚いていた。


「サリエルさん、来てくれたんですね。こいつの歌聴きました? めっちゃ上手ですよね?」

「うん、上手だった。私も驚いたよ。音程が完璧なのは耳がいいんだね」

「ほらー、宮廷楽師が誉めてくれてんで。あれロタセイの民謡か? ……て、ナタレ?」


 ナタレが無言で俯いたままなので、フツは怪訝そうに眉を顰めた。

 肩がふるふると震えているのに気づいて、彼が顔を覗き込んだ時、ナタレは両手の拳を勢いよくテーブルに叩きつけた。振動で皿がガチャンと音を立てる。


「チャッピーに会いたいんだよ俺は!」


 唐突な叫びに場の空気が固まる。


「……チャッピー?」

「チャッピーは羊だよ羊! 知らないのか? 俺はもふもふしたいの! 癒されたいの! もうあんな家族に顎で使われるのは嫌だっ……」

「お、おいナタレ?」

「父親は横柄だし、母親はおっかないし、兄貴は苛めっ子だし、妹は我儘だし、何で俺ばっか振り回されなきゃなんないんだよ……もうほんとに嫌だ……帰りたい」


 ナタレはテーブルに突っ伏して、そのままシクシク泣き出してしまった。


 驚きを通り越して、フツは呆然とした。優等生のあまりの豹変ぶりに、誰かがごくりと唾を飲む音がする。

 そうとう溜まってるんだなあ、とその場の全員が同じことを考え、同情した。

 見兼ねたサリエルが、ナタレに近寄ってその背中を擦った。


「気持ちは分かるよ。でもほら、こんな所で泣くんじゃない。君はロタセイの……あれ」


 彼はテーブルに伏せたナタレの顔に耳を近づけ、首を振る。


「寝てる」

「マジか!?」

「君たち、ナタレにどれだけ飲ませたんだ?」

「いやいや、最初に注いだ一杯だけですって。ほら、まだ半分も残っとるし」


 フツはナタレの杯を確認して他の者にも見せるが、ナタレは気持ちよさそうに寝息を立てていた。わずかな量の蒸留酒で気分が高揚して、あっという間に潰れてしまったらしい。


「こいつ、下戸なうえに、歌い上戸で泣き上戸やったんやな」


 めんどくさっ、とフツは吐き捨てたが、普段は真面目な友人の意外な一面を目にして、満更でもなさそうだった。





 次の朝、学舎の自室で目を覚ましたナタレは、昨夜の出来事をほとんど覚えていなかった。

 大して飲んだ記憶はなく、頭痛や吐き気も残っていない。それなのに自分の行動だけが思い出せないのは気味が悪かった。参加した他の仲間に尋ねるも、みんな曖昧に笑ってはぐらかす。

 遅れてやって来たというサリエルにも当たったが、ひどく優しい目で見詰められて、


「あまり無理をしてはいけないよ。たまには息抜きをしないとね」


 と、労わられてしまった。

 周囲の生温かい気遣いのせいで、結局何があったかナタレは知らずじまいだった。ただ、とんでもない醜態を晒してしまったとだけは直感した。


 その後しばらく彼は『チャッピー』と呼ばれるようになり――金輪際、酒は飲むまいと自らに誓ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新情報に上がってきていてびっくりして、思わず読み始めてしまいました。リリンスもナタレもサリエルも懐かしい!! いきなりのチャッピーに王族達への素直な感想?に思わずクスクス笑ってしまいました…
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