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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
エピローグ
53/57

銀の砂の彼方へ

 王都の南の大門を抜けるのではなく、アルサイ湖を迂回して北へ向かう経路を、サリエルは選んだ。

 久方ぶりの旅装束に身を包んだ彼は、小さな荷物と布で覆ったヴィオルだけを持って、湖畔沿いをゆっくりと歩いていた。


 道の途中で、ユージュが待っていた。

 時刻は夕方、砂漠の強烈な太陽が残照を空一面に投げかけ、迫り来る夜の闇に対して最後の矜持を示す時間である。血色に染まった空と、同じ色を映した湖を背景に佇むユージュは、白い神官服を纏いながらも影法師のように見えた。


「旅に出ると聞きました」


 見送りに来たらしい彼女は、無感情にそう言った。オドナス語ではない、彼ら独自の言語である。

 サリエルは足を止めてそっとお辞儀をし、同じ言葉で答える。


「北の国境へ向かいます」


 オドナスの北の果ては、急峻な山脈だ。雪を被った山々が高くそびえ立ち、砂漠と外世界を隔てている。

 ユージュは黒々とした瞳で、覗き込むようにサリエルの美貌を見据えた。


「この湖の水源を探しに行くのですね」


 東方の賢者からの指摘に、サリエルは密やかに笑う。白い顔が夕映えに染まっていた。

 その表情で図星と確信し、ユージュはわずかに眉根を寄せた。


「それはあなたの役目を果たすのに必要だからですか? それとも――国王の、この国のため?」

「さあ、自分でもよく分かりません」


 彼にしては珍しく、本気で戸惑っているような答え方だった。


「ただ少し……彼らに情が移ってしまったようです」

「そのような気紛れを起こされると、我々は対応に困ってしまうのですが」


 ユージュは溜息をついたが、怒っているわけではなさそうだった。むしろ興味深げな表情になっている。

 そのような曖昧模糊とした動機で、彼が行動を起こすこともあるのか、と。

 吹いてくる夕風に髪を乱され、ユージュはうなじの辺りを押さえながらアルサイ湖を振り返った。彼女の顔もまた、落日の色に染められる。


「けれど、ここの水源を確定させることは我々の仕事にも役立ちます。夜の旅は危険ですよ。お気をつけて」

「ありがとうございます。でも、夜の方が進みやすいのですよ」

「そうでしたね。今は星で方角を把握するしかない」


 ユージュは相槌を打って、またサリエルに向き合った。人形のように小作りな口元に笑みが浮かぶ。


「……最後のGPS衛星が落ちてから二千年になると聞いています」

「正確には、二千五十一年と二百四十九日前ですね」


 サリエルは空の高みを見上げ、生真面目に訂正した。


「大丈夫ですよ、私はもう慣れていますから。必ずここへまた戻って来ます」

「朗報をお待ちしています、サリエル。あなたの旅がよい風と水に恵まれますよう」


 砂漠でのはなむけの言葉を添えて、ユージュは深く頭を下げた。


 力強く鮮やかに世界を染めた夕映えの色も、徐々にその領域を失いつつある。東の空から少しずつ、空の色は深く暗く染め変えられている。

 昼と夜の境界を、サリエルは再び一人で歩き始めた。

 世界から切り取られたようなその後ろ姿を見送るユージュは、胸の前で指を組み合わせた。神官長たる彼女が初めて見せる、それは祈りの姿に似ていた。


 彼女の一族は、国王に雇われた技術集団である。神官の役職は彼女らの身分を保証するための隠れ蓑にすぎず、もとよりアルハ神への信仰心など欠片もない。

 ユージュも国王と同じだった――多くを知るがゆえに、現実をあるがままにしか眺められない。人間を超越したものの意思を汲み取ることはできないし、その意思を勝手に解釈するのは無意味だと思っている。

 彼女の生きる世界は無味乾燥で、そのぶん理知的な美しさに満ちていた。


 だからこそなのか、今去りゆく楽師に対して何を想えばいいのか、ユージュには分からなかった。

 あれは神聖なものでも邪悪なものでもなく、ましてや生きた人間に寄り添える存在でもない。ただの『墓守』だ。必要以上に親近感を持ってはならないと弁えてはいる。

 だが全身から力を奪うような、この寂寞は何なのだ? 


「ユージュ」


 ふいに、サリエルが振り返った。


「あなたのお名前は、あなた方の言葉でどのような文字を?」


 すでに二人の間にはかなりの距離ができていたが、彼の声はよく聞こえた。

 ユージュは一瞬考える。こんなことを訊かれたのは初めてで、この先一生受けることもない質問に思えた。

 少し、心臓の辺りが温かくなった。


「……『夕樹』……夕暮れの樹と書きます」


 それは彼女の失われた故郷、東方の島国の言葉だった。


 小さく答えた彼女の声は、サリエルの耳には正確に届いていたようだった。

 サリエルは優しく笑った。ほぼ真横から差してくる落日の光は弱まって、彼の背後では星が瞬き始めている。


「あなたに相応しい、清々しくて綺麗なお名前ですね。どうぞ一族の皆様を大事にして下さい」


 そう言い残して、彼は背を向けた。





 彼はやって来た時と同じように、迷いのない足取りで豊穣の都を出る。

 彼の行く先には、彼の瞳と同じ色をした砂の海が、冷たく静かに広がっていた。

 歌声のような音を立てて吹きすさぶ風は、まだ昼間の熱気を含んでいる。それが凍てついた乾風に変わるまで、そう時間はかからないだろう。

 夜の闇に沈んだ砂の大地は、そこに入ろうとする者をひたすらに拒んでいた。


 だが彼の表情は不思議と安らかだった。白い石で作られたような頬には、郷愁に似た色さえ浮かんでいる。

 その風景は、彼がやって来た場所とあまりにもよく似ていたから。


 彼は空に目をやった。満天の星空である。


 太陽が沈んで月のない夜がやってくるように、巨大な王国もいつか終焉を迎えるだろう。永遠に続くものがない以上、遅かれ早かれ、それは避けられない運命だ。

 それでも今は彼らを見ていたいと思った。力強い彼らの人生に寄り添って、彼らがこの神なき世界をどう生きるか見届けてみたいと。

 時折、こんなことが起きる。彼自身にも説明のつかない奇妙な心の動きであった。


 彼は去ってゆく。

 銀色の砂の彼方へ消える旅人の後ろ姿は、地上にたったひとり残された美しい迷子のように、孤独だった。




                                              〈了〉

読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。


これでいちおうの完結となりますが、同シリーズの「微睡む流砂の遺産」が続編作品になります。そちらもぜひご高覧下さいませ。

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― 新着の感想 ―
[一言] ロタセイの反乱の一連の話は面白かったです。一気読みしてしまいました。ナタレ成長してますね。リリンスとの絡みも順調に進んでいますね。続編は更に盛り上がるのがわかっているので安心して読みに行けま…
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