銀の砂の彼方へ
王都の南の大門を抜けるのではなく、アルサイ湖を迂回して北へ向かう経路を、サリエルは選んだ。
久方ぶりの旅装束に身を包んだ彼は、小さな荷物と布で覆ったヴィオルだけを持って、湖畔沿いをゆっくりと歩いていた。
道の途中で、ユージュが待っていた。
時刻は夕方、砂漠の強烈な太陽が残照を空一面に投げかけ、迫り来る夜の闇に対して最後の矜持を示す時間である。血色に染まった空と、同じ色を映した湖を背景に佇むユージュは、白い神官服を纏いながらも影法師のように見えた。
「旅に出ると聞きました」
見送りに来たらしい彼女は、無感情にそう言った。オドナス語ではない、彼ら独自の言語である。
サリエルは足を止めてそっとお辞儀をし、同じ言葉で答える。
「北の国境へ向かいます」
オドナスの北の果ては、急峻な山脈だ。雪を被った山々が高くそびえ立ち、砂漠と外世界を隔てている。
ユージュは黒々とした瞳で、覗き込むようにサリエルの美貌を見据えた。
「この湖の水源を探しに行くのですね」
東方の賢者からの指摘に、サリエルは密やかに笑う。白い顔が夕映えに染まっていた。
その表情で図星と確信し、ユージュはわずかに眉根を寄せた。
「それはあなたの役目を果たすのに必要だからですか? それとも――国王の、この国のため?」
「さあ、自分でもよく分かりません」
彼にしては珍しく、本気で戸惑っているような答え方だった。
「ただ少し……彼らに情が移ってしまったようです」
「そのような気紛れを起こされると、我々は対応に困ってしまうのですが」
ユージュは溜息をついたが、怒っているわけではなさそうだった。むしろ興味深げな表情になっている。
そのような曖昧模糊とした動機で、彼が行動を起こすこともあるのか、と。
吹いてくる夕風に髪を乱され、ユージュはうなじの辺りを押さえながらアルサイ湖を振り返った。彼女の顔もまた、落日の色に染められる。
「けれど、ここの水源を確定させることは我々の仕事にも役立ちます。夜の旅は危険ですよ。お気をつけて」
「ありがとうございます。でも、夜の方が進みやすいのですよ」
「そうでしたね。今は星で方角を把握するしかない」
ユージュは相槌を打って、またサリエルに向き合った。人形のように小作りな口元に笑みが浮かぶ。
「……最後のGPS衛星が落ちてから二千年になると聞いています」
「正確には、二千五十一年と二百四十九日前ですね」
サリエルは空の高みを見上げ、生真面目に訂正した。
「大丈夫ですよ、私はもう慣れていますから。必ずここへまた戻って来ます」
「朗報をお待ちしています、サリエル。あなたの旅がよい風と水に恵まれますよう」
砂漠でのはなむけの言葉を添えて、ユージュは深く頭を下げた。
力強く鮮やかに世界を染めた夕映えの色も、徐々にその領域を失いつつある。東の空から少しずつ、空の色は深く暗く染め変えられている。
昼と夜の境界を、サリエルは再び一人で歩き始めた。
世界から切り取られたようなその後ろ姿を見送るユージュは、胸の前で指を組み合わせた。神官長たる彼女が初めて見せる、それは祈りの姿に似ていた。
彼女の一族は、国王に雇われた技術集団である。神官の役職は彼女らの身分を保証するための隠れ蓑にすぎず、もとよりアルハ神への信仰心など欠片もない。
ユージュも国王と同じだった――多くを知るがゆえに、現実をあるがままにしか眺められない。人間を超越したものの意思を汲み取ることはできないし、その意思を勝手に解釈するのは無意味だと思っている。
彼女の生きる世界は無味乾燥で、そのぶん理知的な美しさに満ちていた。
だからこそなのか、今去りゆく楽師に対して何を想えばいいのか、ユージュには分からなかった。
あれは神聖なものでも邪悪なものでもなく、ましてや生きた人間に寄り添える存在でもない。ただの『墓守』だ。必要以上に親近感を持ってはならないと弁えてはいる。
だが全身から力を奪うような、この寂寞は何なのだ?
「ユージュ」
ふいに、サリエルが振り返った。
「あなたのお名前は、あなた方の言葉でどのような文字を?」
すでに二人の間にはかなりの距離ができていたが、彼の声はよく聞こえた。
ユージュは一瞬考える。こんなことを訊かれたのは初めてで、この先一生受けることもない質問に思えた。
少し、心臓の辺りが温かくなった。
「……『夕樹』……夕暮れの樹と書きます」
それは彼女の失われた故郷、東方の島国の言葉だった。
小さく答えた彼女の声は、サリエルの耳には正確に届いていたようだった。
サリエルは優しく笑った。ほぼ真横から差してくる落日の光は弱まって、彼の背後では星が瞬き始めている。
「あなたに相応しい、清々しくて綺麗なお名前ですね。どうぞ一族の皆様を大事にして下さい」
そう言い残して、彼は背を向けた。
彼はやって来た時と同じように、迷いのない足取りで豊穣の都を出る。
彼の行く先には、彼の瞳と同じ色をした砂の海が、冷たく静かに広がっていた。
歌声のような音を立てて吹きすさぶ風は、まだ昼間の熱気を含んでいる。それが凍てついた乾風に変わるまで、そう時間はかからないだろう。
夜の闇に沈んだ砂の大地は、そこに入ろうとする者をひたすらに拒んでいた。
だが彼の表情は不思議と安らかだった。白い石で作られたような頬には、郷愁に似た色さえ浮かんでいる。
その風景は、彼がやって来た場所とあまりにもよく似ていたから。
彼は空に目をやった。満天の星空である。
太陽が沈んで月のない夜がやってくるように、巨大な王国もいつか終焉を迎えるだろう。永遠に続くものがない以上、遅かれ早かれ、それは避けられない運命だ。
それでも今は彼らを見ていたいと思った。力強い彼らの人生に寄り添って、彼らがこの神なき世界をどう生きるか見届けてみたいと。
時折、こんなことが起きる。彼自身にも説明のつかない奇妙な心の動きであった。
彼は去ってゆく。
銀色の砂の彼方へ消える旅人の後ろ姿は、地上にたったひとり残された美しい迷子のように、孤独だった。
〈了〉
読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
これでいちおうの完結となりますが、同シリーズの「微睡む流砂の遺産」が続編作品になります。そちらもぜひご高覧下さいませ。




