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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第七章 黎明の残月
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目覚め

 眠っている間、夢を見ていた。


 幼いナタレは、背丈ほどの草が生い茂る夏の草原で、父の背中を追いかけている。

 柔らかいはずの緑の葉が、なぜか鋭く身体を掠める。頬や腕にかすかな痛みを感じながら走って走って、それでも父にはいっこうに追いつけない。

 父上、と呼びかけたかったが声が出なかった。

 早く追いつかなければ、父がどこかへ行ってしまう。自分の手の届かないどこかへ。

 父を見失うのが理由もなく恐ろしくて、ナタレは懸命に走った。しかし焦れば焦るほど足が思うように動かず、彼はついにその場に転倒した。


 後方に引っ張られるような感覚に足元を見ると、草の間から伸びたたくさんの手が、彼の足を掴んでいた。

 血塗れの手や、干乾びた手や、骨が見えるほど腐った手が、どれも物凄い力で彼を引き摺ろうとしている。

 なぜおまえは国王を殺さなかった、とそれらは呻く。

 王太子でありながらなぜ自らの命を惜しんだのだ。

 ナタレは声にならない叫びを上げて、必死にもがいた。だが手は彼の足に腰に背中に腕に次々と纏わりついて、彼の身体を茂った草の中へ連れ込もうとする。


 飲まれる――そう思った時、ふと、温かいものが額に触れた。

 顔を上げると、父が、目の前にいた。

 父は大きな力強い掌でナタレの頭を撫でて、微笑んだ。彼が初めて見る優しい笑顔であった。

 よく頑張ったな――おまえを誇りに思うぞ。

 全身の呪縛が解けた。自分が真に欲していたものがようやく分かった。


 ナタレはとても幸せな気分で、父さん、と呟いた。





 目を開けてまず見えたのは、明るく白っぽい天井だった。

 揺らめく影のようなものが視界の隅に入り、ゆっくりと頭を動かすと、薄緑色の麻布が幅の広い窓際で揺れていた。日除けの布が暖かい風を孕んで動いているのだ。

 ナタレは自分が柔らかい布団に寝かされていると気づいた。

 気分は悪くない。頭痛もない。ただ全身がひどく重かった。ずいぶん長いこと眠っていたのではないだろうか……。


 彼は緩慢な動きながら身体の向きを変えようとして――ぎょっとした。

 仰向けになった彼の右腕は、掛布団の上に出ている。その肘の内側の辺りから細長い針のようなものが生えていたのだ。

 驚きがいきなり意識を覚醒させ、彼はそれを引き抜こうと身を起こした。


「ああ、それ抜いちゃ駄目だよ!」


 焦った声とともに横から手が伸びてきて、肩を押さえつけられた。

 ナタレの動きを止めたのは、柔和な顔立ちの青年だった。困ったように眉をひそめて彼の腕を取る。


「ほら肘は真っ直ぐにして。中で針が曲がっちゃうだろ」

「な……何……?」

「もうすぐ終わるから大人しくしてて」


 混乱したナタレにも、青年に敵意のないことは分かって、とりあえず身体の位置を元に戻した。

 青年はナタレの腕に刺さった針を確かめ、その針から伸びた細い管に異常がないか調べている。管はナタレの寝かされた寝台の枕元まで続いて、先には硝子瓶がついていた。逆さまに吊り下げられたその中では透明な液体が揺れ、管に少しずつ流れ込んでいる。


「これ……何ですか?」


 掠れた声で尋ねるナタレに、


「点滴。君、丸二日も眠っていたからね、栄養を血管から入れてたんだよ」


 と答えた青年が着ているのは白い神官服だった。


「意識が戻ってよかった。うん……もう熱も下がったみたいだね」


 武人とは違う柔らかい手がナタレの額に触れた。


「ええと……あなたは……」


 青年の顔には見覚えがあったが、名前が出てこない。まだ少し頭がぼんやりしている。


「僕は神官のカイといいます。ユージュ神官長の副官ね。印象薄いだろうけど」

「カイ……さん、俺は二日も眠ってたんですか? ここは?」

「王宮の東の離れだよ。君は謁見室でぶっ倒れたって聞いた。完全に過労だね」


 以前にナタレが軟禁されていた場所だ。よく見ると確かに見知った部屋だった。

 カイは肩を竦めた。頭もいいが人もよさそうな、ほわんとした雰囲気の青年だ。神官長の副官といえばずいぶん職位は高いだろうに、そうは思わせない気さくさを持っている。


「君の看病をするように国王が神官長に依頼して、神官長は僕に命令したってわけ。僕の専門は医療だから」

「中央神殿の神官は、皆さん特別な技術をお持ちだと聞きます……ほんとだったんですね」


 ナタレはしげしげと腕の点滴針を見詰めた。血管に針を刺すなんて気持ちのいいものではないが、別に痛くはないし、今はこの神官を信じるしかない。


「なかなか熱が取れなくてね……ずっとうなされてた。君の事情は聞いてるけど、あんまり無理しちゃ駄目だよ。いくら若くてもこんなに身体を痛めつけてたら……」

「そうだ! ロタセイは……ロタセイへの処分はどうなりました!? 何かご存じじゃないですか……!?」


 カイの言葉を遮って、ナタレは噛みつくような勢いで尋ねた。ようやく意識と記憶がはっきりしてきたのだ。

 若い神官はびくっと肩を震わせて、首を振る。


「いや……まだ動きはないと思うよ。何かあればここにも知らせが届くと思うけど……とりあえず落ち着いて。安静にしてないと治るものも治らない」

「いいんです……俺はどうなっても。命と引き換えにしても守りたいものがあるから」


 咎めるようなカイに、ナタレは掠れ声ながらきっぱりと言い切った。

 二日間の昏睡から覚めたばかりの少年の表情は、すでに清廉だ。

 カイは溜息をついた。


「何でそう融通がきかないかな。若いんだからさ、簡単に命がどうこうとか言うもんじゃないよ」

「簡単に言ってるわけじゃないです」

「あのね、命はひとつしかないからね、一回捨てたら後がないんだからね。生きていた方が絶対に賢い。何度失敗してもやり直せるんだから」

「それでも……」


 正論すぎるカイの意見に言い返そうとして、ナタレは、部屋の空気が動いたのに気づいた。


 枕の上で顔を逆側に向けると、窓際に置かれた長椅子の上に、リリンスが横たわっていた。

 彼女は長い黒髪を身体の下に垂らし、長椅子に横向きに寝そべって目を閉じている。小さく規則正しい呼吸が聞こえ、眠っているのが分かった。

 びっくりして声も出ないナタレに、カイが説明した。


「少し前に国王と一緒にお見舞いにみえてね、君が目を覚ますまで待ってるとおっしゃって……陛下のお許しが出たんで、ここに残られたんだ」

「そうですか……」 


 待ちくたびれて眠ってしまったのだろう。初めて見るリリンスの寝顔は、安らかで幼い。午後の日差しの下で心地よさげに、少し笑っているような表情だった。

 無礼とは思いつつも、ナタレはつい凝視してしまった。

 カイは寝台の脇の机で、薬らしき粉末を混ぜ合わせながら笑った。


「君が命を粗末にしたら、悲しむ人が多いみたいだねえ」


 優しい口調に、ナタレは何と答えていいのか分からなかった。


 その時、リリンスの睫毛が小さく震えた。

 彼女はゆっくりと瞼を開け、とろんとした目で寝台を眺めて――いきなり跳ね起きた。

 長椅子の前に立ち上がって、乱れた髪と衣装を気にするでもなく、まじまじとナタレを見詰める。


 ナタレは身を起こそうとしたが、それより先にリリンスが飛びついてきた。


「目が覚めてよかった!」


 彼女は寝台の横に跪いて、ナタレに覆いかぶさるようにして言う。喜びと安堵が声を震わせていた。

 柔らかな皮膚が髪が、緩く開いた寝間着の胸元に触れ、ナタレは身動きが取れなかった。


「あのう、姫様、あまりそういったお振る舞いは……隣室に女官も詰めていることですし……」


 カイが遠慮がちに窘めるが、リリンスはまったく聞く耳を持たなかった。


「心配したわ……ナタレがずっと眠り続けたらって…」

「姫様……」

「よかった……無事に戻ってきてくれてよかった!」


 彼女は笑いながら泣いていた。大きな黒い瞳から次々と涙の粒が零れ、ナタレの首筋に滴り落ちる。自分の本心を押さえ、ナタレの背中を押して王都から送り出してから、ずっと我慢していた涙だった。

 それが痛いほど分かって、ナタレはリリンスの震える肩に手を添えた。点滴針の刺さっていない左手である。


「姫様……ご心配をおかけしました。姫様のおかげで戻ってこられました」

「ううん、私は何もしてないよ……ナタレが頑張ったから……」

「いえ、姫様のおかげなんです。これを……」


 ナタレはそろそろと上半身を起こした。二日間も寝ていたからさすがに力が入らず、ふうと息をついて枕に凭れる。

 涙で頬を濡らしたリリンスに、左腕を出して見せる。その手首には、黒髪で編んだ鎖が嵌っていた。


「頂いたこの御守が、俺と兄を守ってくれました」

「持ってて……くれたのね」

「俺は兄を斬ろうとしたんです。それですべて解決しようと。でも姫様が俺の手を押さえた気がして……思い留まることができました」

「お兄様を助けることができた?」

「兄も、俺も、救われました」


 兄弟の間にギリギリの命のやり取りがあったのだろうということは、リリンスにも想像がついた。それでも吹っ切れたようなナタレの清々しさに、彼女はほっとした。

 熱が下がったとはいえ、まだ疲労の残る彼は、ゆっくりと頭を下げた。


「俺が絶望せずにロタセイへ赴く決心がついたのも、兄を前に自制できたのも、あなたのおかげです。姫様、ありがとうございました」

 リリンスが緊張するほど、真摯で丁寧な口調だった。


「この御守は……まだ俺が持っていてもいいでしょうか?」

「え、ええ、いいけど、どうして?」

「この先も選択を迫られた時、間違わないように、真実を見誤らないように、自分への戒めとしたいんです」


 真剣で強い眼差しを向けられて、リリンスは鼓動が速まるのを感じた。

 2ヶ月余り会っていなかった少年は、ずいぶん大人になったようだった。

 彼女は自分の顔を擦って、


「よし、じゃ一個貸しにしといてあげるわ。小出しにして返してもらうからね」


 と、冗談めかして笑う。ナタレもようやく微笑んだ。


「おかえりなさい、ナタレ」


 リリンスは改めて彼の首に抱きついた。

 戸惑いながらもナタレは彼女の背中に左手を回した。少女の華奢な身体は温かくて優しい。迷いなく自分に寄り添って、心からの親愛の情を伝えてくる。


 彼はようやく王都への帰還を実感した。


 ――隣室へ続く間仕切りの麻布が開いた。

 入って来たキーエは二人の様子を見て、まあ、と声を上げ、物凄く怖い目でカイを睨んだ。あなたがついていながら何てことを、と言わんばかりだ。

 カイは唇を歪めて頭を掻く。どうやら自分は女性にばかり責められる宿命らしい。


「姫様、ナタレ様はまだご病気ですのよ。お話はそのくらいにして、休ませて差し上げましょう」

「そうね」


 リリンスはけろりとして身体を離した。


「また来るわね。お見舞いの許可はお父様からもらってるの」

「は……はい」


 腕に残った体温と匂いに、ナタレはまだちょっと動揺している。

 リリンスは照れ臭そうに潤んだ目元を拭った。


「ナタレが寝てる時にお父様も来てたのよ」

「伺いました。畏れ多いことです」


 いちおう謙虚にそう答えながらも、彼は内心悔しがっていた。

 国王の目の前で昏倒するなんて無様なところを見せてしまった。しかも当のセファイドの見舞いまで受けてしまうとは……。


 リリンスはからかうように笑みを深くして、


「あなたのこと心配してたわ。凄くうなされてたから、頭なんか撫でちゃってた」


 ナタレは思わず自分の頭に手をやった。

 夢で見た父を思い出す――温かい掌の感触は、夢とは思えないほどの現実感をもって、まだ額に残っていた。

 あれは、セファイドだったのか。

 夢の中とはいえ、国王と父親を混同してしまうとは不思議だった。自分の中で、あの二人は対極にいたはずなのに。それとも、無意識に同じ匂いを感じ取っていたのだろうか。


 名残惜しげに部屋を出ていくリリンスを目礼で見送り、ナタレはいつまでも考え込んでいた。

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