大人の事情
セファイドがサイハングを召喚したのは翌日のことである。
謁見室ではなく執務室での面会となった。執務机を挟んで対面した従兄を前に、セファイドはゆっくりと煙管の紫煙を燻らせた。
「……困ったことをしてくれましたな、従兄上」
独特な香りのついた煙とともに、セファイドは言う。言葉こそ丁寧だが、従兄に対する敬意など微塵も感じられないぞんざいな口調だ。
向かい合って腰掛けたサイハングは、ぴくりと頬を引き攣らせた。知事府で解放された時に比べていくぶん太ったようだ。恰幅のよい体つきに豪奢な衣服を纏って、それなりに貫録がある。
「ど、どういう意味だ……?」
「従兄上が東部でしでかした不祥事の数々――証拠も証言も揃っていますよ。ロタセイの蜂起についても、あなたが王都に帰還してすぐに報告した内容とはだいぶ違っている」
椅子に浅く座ったセファイドは、机に積み重ねた帳簿と上申書にチラリと目をやった。
人払いをしているので、執務室には彼ら2人だけだ。ただし隣の続きの間には侍従と衛兵が詰めており、何か事が起こればすぐに飛び出していけるよう準備をしている。
サイハングは努めて冷静を装い、硬い笑みを作った。
「ふん、そのようなもの……私を陥れる罠だ。私に不満を持つ役人や、辺境国の首長のたわ言に決まっている」
「副知事と次官からも同じような証言が取れている。建国祭の時に、私が直接話を聞きました。あなたの素行には……今ひとつ信用が持てなかったものでね」
セファイドはもう一度煙を吐き出し、煙草盆の上に煙管を叩き付けて葉を捨てた。
カン、という鋭い音に、サイハングの背が震える。
サイハングの統治下で反乱が起きたと知り、セファイドは王都に来ていた副知事らを召喚した。そして、ここで喋らなければおまえたちも同罪だ、と強く迫って、知事の乱行を白状させたのである。
つまり、国王はナタレの帰還を持たず、ほぼ真相を掴んでいたと言える。
幅の広い顔を強張らせるサイハングの前で、セファイドは目を細めた。
「前々から悪い噂は届いていたんですよ、従兄上。それでも私が目を瞑ってきたのは、あなたがそれなりに使える男だったからです。余計な野心を持たず、分相応の待遇で満足し、王都からの命令には忠実だ。砂漠の東端で多少私腹を肥やすくらいは大目に見てやるつもりでした。だが――今回は調子に乗りすぎた」
「違う、セファイド、聞いてくれ……」
「あなたの人間性についてとやかく言うつもりはありません。私も他人を批判できるほど品行方正ではありませんからね。ただ問題はその結果だ。あなたは『緋色の勇兵』と謳われる民の恨みを買い、自分では事態を収拾できず、オドナスの一個師団を呼び寄せる羽目に陥った。これで知事の責任が果たせているとは言い難い」
「わ、私は……」
「そしてロタセイの王太子は命を懸けてあなたを告発した。ロタセイを辱めたあなたが処罰されれば、自分はどう裁かれても構わないと――たった十五歳の子供がです。恥ずかしくはありませんか、従兄上?」
ぐうの音も出ないほど畳み掛けておいて、蒼白になったサイハングを、セファイドは白い眼差しで見詰めた。
「わ……分かってくれ、従弟よ、私はこのような事態を招くとは……」
「身内の不始末の尻拭いはもううんざりなんですよ」
セファイドはそう吐き捨てて、完全に従兄を突き放した。
「で、どうなさいますか? 反論の機会が欲しいのなら裁判を受けて頂くことになる。その場合、さらなる証拠も証人も出てくるでしょう。背任罪と略奪罪が確定すれば極刑もあり得ます」
王都にいながら砂漠の果ての状況を把握していた従弟を、サイハングは腹の底から恐ろしいと思った。
この男は油断ならぬと分かっていたはずだ。遠く離れた東の地であれば目が届かないだろうと見縊った自分が愚かだった――。
すべての抵抗を諦め、力なく項垂れたサイハングは、ひと回り小さくなったように見えた。
「後生だから裁判にはかけないでくれ……罪人にはなりたくない。頼む」
「……まったく残念ですよ、従兄上のように分かりやすくて使い勝手のよい人間はそういないのに。惜しむらくは、もう少し自制という言葉の意味を知ってほしかった」
セファイドは皮肉を言って薄く笑ったが、サイハングは何も言い返さず、ただ頭を垂れて震えている。
国王の逆鱗に触れたらどうなるか、国土が広がっていく過程を見てきた彼は思い知っていた。
怯えるサイハングをしばらく無言で眺め、たっぷり恐怖を味わわせてから、セファイドは軽く息をついた。
「では今日付けであなたを解任します。公職からは離れ、すぐに隠居なさるといいでしょう」
「隠居……」
「今まで受けた賄賂は没収しますが、正当な私財は残してあげますよ」
「おお! 本当か! 恩に着るぞセファイド……おまえが肉親でよかった……!」
罪には問われないと安堵し、サイハングは強張った笑みを浮かべた。卑屈なくらい頭を下げて礼を言う。
だがセファイドは、その表情をすっと冷たいものに変えた。これまでのやり取りの中で最も冷ややかな空気が流れた。
「言っておくが、従兄上を助けるのは肉親の情ではありません。私が真に助けたいのはあなたではないが、あなたを裁くことで、その者をも断罪しなければならなくなる」
彼は背凭れに身体を預けて上体を反らした。ぎし、と椅子が軋む。
「私は彼の王太子とは違う。目障りな肉親を消すのに躊躇などしない。お分かりか?」
「あ、ああ……」
サイハングは凍りついた。
ようやく気づいた――正式に裁かれなくとも、この男はいつでも自分を殺せるのだ。どこにいようともオドナス全土にこの男の目は光っている。
喉元に、露が滴るほど冷たい刃を突きつけられた気分だった。
しかもセファイドに怒りの気配はなかった。あくまでも事務的に、国を束ねる者としての職責を果たそうとしているだけ――そこがまた、怖い。
裁判に掛けられる以上の恐怖だった。この先少しでも国王の機嫌を損ねれば、あっという間に暗殺者がやってくるのだろう。首を処刑台の上に載せたまま、いつ刃が振り下ろされるかと怯えながら彼は生きていかねばならないのだ。
「二度と俺の前に顔を出すな」
犬でも追い払うかのごとくそう言われて、サイハングは逃げるように執務室を出て行った。
執務の終了した夜になって、セファイドは王宮の礼拝堂でユージュと面会した。
「それで、あの少年にはお咎めなしなのですね?」
ユージュはそう言って、薄い唇に笑みを刷いた。
神官長が珍しく嬉しそうな顔をするのを、セファイドは実に意外そうに見返す。この女とナタレにそれほど深い関わりがあっただろうか?
そんな彼の反応に気づいたのか、ユージュはすぐにいつもの無表情に戻った。
「何か?」
「いや……おまえでもそんなふうに笑うことがあるんだなと」
「私とて生身の人間です。あのような子供が、為政者の都合で犠牲になるのは好みません」
「何だ、俺のせいだと言うのか?」
「そもそもあの方を知事に選んだのも、領地で好き放題させて調子づかせてしまったのも陛下です。任命責任と管理責任を問われて当然です」
為政者本人を前にして恐れ気なく言ってのける彼女に、セファイドは苦笑せざるを得なかった。彼に対してここまで歯に衣着せぬ物言いのできる女は、ある意味とても貴重な存在だ。
「まあ今回は痛み分けだ。それに、王太子を生かしてロタセイに貸しを作っておいた方が国益に叶うからな。奴らは強い――使い方を間違わなければ役に立つ手駒だ」
彼は実に冷静に、淡々と告げた。大国の支配者の冷徹な物言いに、ユージュの細い眉根がわずかに寄った。
壁に設置された燭台では、広々とした室内全体を照らすには少ない。薄暗い礼拝堂には、彼ら二人以外の人影はなかった。
セファイドが単身でユージュと会うのには理由があった。
「今月分の結果です。どうぞご覧下さい」
ユージュは脇に抱えた紙の束を差し出した。十枚ほどの紙を紐で綴った、簡易な冊子のようなものである。セファイドはそれを受け取り、中身にざっと目を通した。
「変化は?」
「特に。北岸付近でわずかに透明度が落ちていましたが、これは周辺の農場を耕作したことによるもので、数日で元に戻ると思われます。水質に異常はありません」
「そうか、ご苦労」
彼は月に一度、神官長からこの報告書を受け取っている。時により、その場所は中央神殿であったり彼の執務室であったり様々だが、他の者を交えずに直接受領するのが常だった。
セファイドは祭壇に凭れて、少しの間冊子のページを捲った。神殿の礼拝堂にあるのと同じ造りの装飾の少ない祭壇で、今は祭具が片付けられて白い布が掛けられているため、余計に簡素に見えた。
神聖な祭壇を背凭れ代わりに使う罰当たりな振る舞いを咎めもせず、ユージュはじっとセファイドの反応を窺っている。これは彼女に課せられた大事な役目であった。
「農地面積をあと一割ほど増やしたい。必要水量の試算ができるか?」
「かしこまりました。近日中に。ですが……」
「分かっている。これでほぼ限界だな。来月以降も引き続きよろしく頼む」
セファイドは信頼の籠った眼差しを若い神官長に向けた。低いけれど明朗な声が、天井の高い礼拝堂によく響いた。
安堵の気配を見せるでもなく、ユージュは丁寧に頭を下げて、それからくるりと踵を返した。彼女の仕事はこれで終わりだ。
出口に向かって数歩進んで――何に引き止められたのか、彼女はふいに立ち止まった。
身体は斜めに向いたまま、顔だけをセファイドに向けて、
「……本当は国益など後付けの理由でしょう、陛下、僭越ながら」
「どういう意味だ?」
「陛下があの少年の命を助けたのは――ご自分とは正反対の選択をして、恥じ入ることなく戻ってきた彼を、率直に見事だと思われたからではないのですか? 自らが犠牲になるのも厭わず肉親を庇おうとした彼の態度に、感じ入ったからでは?」
こんなふうにユージュが立ち入った質問をするのは初めてのことだった。理知的に光る黒瞳が、肩越しに相手の反応を探っている。
「もっと言えば……ご自身にもその選択が可能だったのではないかと……」
「本当に僭越だな神官長よ。憶測で国王の心中を語るなど、誰が許した?」
セファイドは口元を厳しく引き締める。恫喝しているわけでもないのに、暗がりの密度が増したような威圧感が空気に満ちた。
ユージュは軽く目を閉じ、すぐに開いた。身体ごとセファイドに向き直る。
「あなたが後悔などなさらないお方だということは存じておりますが、必要以上にご自身を非情に見せなくともよいはずです。偽悪は偽善よりもたちが悪いですよ」
ひんやりとした礼拝堂に相応しく、彼女の声は白い石のようだった。飾り気がなく、そのぶん硬い芯を持っている。そこに含まれているのが、温かい気遣いであるはずがない。
「陛下は、例え他者を欺くことはあっても決して己を偽らない強いお方――だからこそ私たちはあなたにお仕えしています。一族の命運を委ねています。あなたにわずかでも弱さや矛盾があっては困るのです。過去の選択に今さら迷わないで下さい」
セファイドは兄を切り捨てて王になることを選んた。ユージュはそんな彼を認めてこの国と命運をともにすると決めた。だからユージュは、セファイド個人の心中には興味がなくとも、国王の態度については遠慮のない指摘をする。
オドナス国王は傷ひとつない完璧な宝玉でなくてはならないのだ。
自らの内面のわずかな歪みを刺すような、二十歳近くも年下の神官長の言葉を、セファイドは沈黙して聞いていた。
だがおもむろにユージュに近寄ると、その滑らかな曲線を描く頬に手を触れた。端正な顔立ちに猛禽類を思わせる鋭い表情を浮かべて、至近距離から彼女を凝視する。
一方、ユージュは動揺の気配もなく彼を見返す。国王の怒りなど恐れていないのか、あるいは、不興を買うはずがないという自信があるのか。
しばし時が止まったように、薄闇の中で二つの人影は身じろぎひとつしなかった。
先に動いたのはセファイドの方だった。
「本当に可愛げのない女だ」
ユージュの短い黒髪を、そっと指で梳く。優しげなその仕草とは裏腹に、声音には聞く者が総毛立つほどの暗い響きがあった――憎しみに似た。
「だからこそ俺はおまえを気に入っているのだが」
「あなたが欲しいのは我々の知識だけでしょう」
ユージュは一歩退いた。セファイドの手はそれを追うことなく下ろされた。
「ご安心下さい、ご希望通り、我々はあなたとこの国のために働きます――あなたが信頼に足る王である限り」
「心に留めておこう」
答えるセファイドは、もう平素の通り穏やかだった。
ユージュは身を屈めて一礼して、今度こそ身を翻した。
神官服の背中を、生ぬるい汗が伝い落ちてゆく。自分が緊張していたのにようやく気づいて、礼拝堂を後にする彼女は、自嘲混じりの溜息をついた。




