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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第六章 故郷で待つもの
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弟の責任

 将軍と入れ替わりに入って来たイエパは、身なりを整え、王妃に相応しい凛々しい気品を身に纏っていた。『山羊の水場』で泣き崩れた女とは別人のようである。こちらの姿が本来の彼女なのだろう。

 そしてもう一人、彼女の背後に若い女が続いた。長い髪を編み上げた十代の少女である。思い詰めたように暗い表情だが、王都でもそうはいないほど綺麗な容姿をしていた。

 ハザンは母よりもむしろその少女の姿に、大きく目を見開いた。紛れもない驚愕――。


 イエパはハザンの姿を見て、その無事に安堵したようだったが、すぐに表情を引き締めた。本当ならばすぐにでも駆け寄りたいところであろうに。


「ハザン、おまえはナタレに何を言ったのです?」


 母から硬い声で尋ねられ、ハザンは我に返って顔を背けた。


「母上には関係ありません。出て行って下さい」


 ぶっきら棒な拒絶にも怯まず、イエパは二人につかつかと歩み寄った。


「長く人質の身分に耐えてきた弟を傷つける真似は許しませんよ!」


 それからナタレに向きなおって、ゆっくりと話しかける。


「……兄からどう聞いたかは知りませんが、父上はあなたを心から大切にお思いでしたよ。王都のあなたをいつもお気にかけていました」


 驚くナタレに、彼女は優しい笑みを浮かべた。母性とはこういうものかと、生みの母親の記憶を持たない彼に思わせる慈愛に溢れた笑みだった。


「母上! 余計な口出しを……」

「お黙りなさいハザン。ナタレ、父上はずいぶん前から目を悪くしておいででした。落馬なさったのもそのせいです。直前まで、あなたに会うためにオドナスの建国祭に赴くおつもりでしたのに……」

「父上は……俺に国王の暗殺を望まれていたのでは……?」

「それは大嘘です。あなたがロタセイのために我慢していたのと同じように、父上も人質に送ったあなたのために耐えていらっしゃったのよ。どんな仕打ちを受けようとも……」


 イエパはハザンを見た。

 彼女の実の息子は、痛みをこらえるように目を瞑り、口を引き結んでいる。


「ハザン、おまえはナタレに偽りを吹き込み、今回の武装蜂起の原因をすべて自分で引き受けるつもりだったのですね? そうして私たちを助けようと」

「それが真実です。父上がどうお考えであろうが、俺はナタレが国王を殺すのを待ち望んでいました。だがいつまでたってもそれが成せないから、父上が亡くなったのを機に反乱を起こした。それ以外の原因などあろうはずがない」


 ハザンは瞼を開けて、母親と弟と交互に眺めた。血と埃に汚れたその顔には黒ずんだ隅が浮いている。兄の背負った極限の緊張と疲労に、ナタレはようやく気づいた。


「ナタレの言う通り、一族を扇動したのはこの俺だ。だから俺が責任を取る。早くこの首を取れ!」

「もうおやめ下さい!」


 高い声が広間に響き渡った。

 イエパとともに入ってきたあの少女が、頭を抱えるようにして叫んだところだった。


「もういいのですハザン様……全部私のせいなのです……!」

「おいで、カザ」


 美しい顔を苦しげに歪める少女を、イエパが呼び寄せた。

 少女――カザは、ナタレもよく知る人物だった。ロタセイ一の美女と謳われる十六歳の少女である。傍系ではあるが王族の一員であり、将来はハザンかナタレの妻になると目されていた。兄弟とは幼馴染の仲でもある。

 涙で潤んだ瞳で見上げられ、ハザンは髪を掻き毟った。


「お一人で何もかも背負わないで下さい、ハザン様。私は……」

「黙れカザ。おまえは何も言うな」

「いいえ黙りません! このままあなたを死なせるなんて嫌!」


 カザはハザンの胸元にしがみついた。

 少女のか細い腕を、ハザンは振り払うことができなかった。顔を伏せてすすり泣く彼女の背中を、戸惑ったように撫でる。


 二人の様子を唖然と眺めて、ナタレは自分がひどく間違った行為に出ようとしていたと直感した。

 あのままためらわずに剣を抜いていたら、きっと今頃――。


 彼は改めて左手首を押さえ、イエパに尋ねた。


「いったい何があったのか、包み隠さず話して頂けますか?」


 イエパは覚悟を決めたように肯いて、そして、すべてを語った。





 話を聞き終えると、ナタレは深い深い溜息とともに肩を落とした。


「兄上……なぜそれを黙っていたのです?」

「話したところで結果は同じだ。国王は反乱を起こした属国を絶対に許さないだろう」


 ハザンはそう吐き捨てたが、それは本心ではないようにナタレには思えた。

 兄はカザを気遣っているのだ。彼女がこれ以上傷つかぬよう、何も喋らないつもりだったのだ。


「分かったらさっさと俺を処分して、この首を持って帰れ」

「兄上の首ひとつで事が収まるとお思いですか?」


 ナタレは目つきを鋭くしてハザンを睨んだ。


「本当に国王を怒らせたら、どんな謝罪も交渉も無駄です。反乱に加担した者全員が皆殺しにされます。だからこそあの人は二十年も王の椅子に座っていられるんだ」


 ナタレの言葉に、カザがびくりと身体を震わせた。


「だったらどうしろと……」

「俺にすべて任せてもらえますか――兄上には生きて責任を取って頂く」


 彼の口調は穏やかだったが、拒否を許さないような気迫があった。重責を引き受ける覚悟を決めた者の、鬼気ともいえる迫力だ。

 わずかに微笑みすら浮かべた弟を、ハザンは圧倒される思いで見た。

 王太子の意地と誇りだけで立っていた一年前からは想像もつかない。王都でどれほどの葛藤を経験したというのだろうか。

 ナタレの成長を目の当たりにして、彼を王太子に指名した父の判断は正しかったと、ハザンは改めて思い知った。





 その後、ナタレは兄とともに城の前庭に姿を現した。

 そしてそこに居並ぶロタセイの男たちの前で、正式に一族の長となることを宣言した。

 オドナスの軍事力を借りて祖国の反乱を鎮圧した王太子に、もちろん不満を持つ者は多かったが、その場では誰も反対の声を上げることはなかった。ハザンが全面的に弟を父の後継として認めたこともあるが、ナタレ自身の有無を言わせぬ堂々とした態度に誰もが気を飲まれたのである。

 これ以上誰も死なせない、ロタセイの血は俺が守る――若き後継者はそう言い切った。





 兄弟は並んで父の墓の前に跪いていた。

 ロタセイの墓地は定住集落の外側にある。墓地とはいっても、草の刈り取られた地面に円い石が並べられただけの質素なものだ。

 ロタセイ王家の墓は墓地の最も奥まった場所にあった。

 ザルトの葬儀はまだ正式に執り行われていないため、仮埋葬の状態だった。墓石に名前が刻まれておらず、代わりに生前愛用していた剣が一振り置かれている。


 知事府が解放されて三日の後である。ロタセイの混乱も収束し、父の墓参がようやく認められたのだった。

 しばらくの間、無言で亡き父を悼んでいたナタレとハザンは、ほぼ同時に立ち上がった。


「……謝るつもりはないからな」


 墓標代わりの使い込んだ長剣を眺めたまま、ハザンは言った。


「どんな理由があれ、俺が王都にいるおまえを見殺しにするつもりだったのは事実だ。故郷の状況を知れば、おまえは進んで犠牲になるだろうと思った」


 ナタレは肯いた。暖かな午後の風が彼の髪を揺らしている。


「分かっています。肉親の命よりも民の平穏を優先させるのが王族の責任です。俺もいざとなれば兄上を斬るつもりで帰ってきました」


 彼はハザンに目をやって、少し笑った。


「おあいこです」


 少し離れた所に数名のオドナス兵が待機している。ハザンは捕虜であり、国王の裁定が下るまで定住集落にある屋敷に軟禁されることになっていた。


「じゃあ……俺はもう行きます」


 ナタレは外して手に持っていた剣を腰につけ直した。


「屋敷には寄らないのか? 母上も他の者も待っているぞ」

「いえ、皆の邪魔をしてはいけないので」


 二ヶ月も無人で放置された集落はやはりあちこちが傷んでいて、戻ってきた住人が総出で修復にあたっているはずだ。戦は終わったが、ロタセイの暮らしが元に戻るまで今しばらくかかるだろう。


「ご助力したいところですが、他に行かなければならない所があります。これで失礼を」

「道中気をつけてな。俺には何もしてやれないが……」

「兄上にはこの地を守り、亡くなった者の葬儀を行う役目があります。しばらくオドナスの管理を受けますから、暴発する者が出ないよう皆を宥めて下さい。俺もやれるだけのことはやってみます」


 弟にそう励まされ、ハザンは目を細めた。

 家族思いで責任感の強い、ナタレが昔からよく知る兄がそこにいた。


「ナタレ、無理はするなよ。必要とあらば俺はいつでも命を差し出す」

「その時は俺も一緒です」


 彼らは固く手を結んで、それからお互いを抱き締め合った。

 同じ父の子としてともに暮らし同じように育った彼らは、同じ体温を持っていた。砂漠を隔てて離れ離れになってはいても、そんな相手が存在することを実感するだけで、彼らは満足だった。


 しばらくそうしていて、ナタレは身を離した。

 父の墓前に一礼した後、潔く踵を返す。

 兄に見送られて墓地を後にする彼は、一族を背負うべき長の顔をしていた。





 懐かしい定住集落には立ち寄らず、ナタレは草原を馬で駆け抜けてオドナス軍の野営地に向かった。

 見渡す限りの平地は、この季節背の低い草に覆われている。彼方に『山羊の水場』のある山々がそびえてはいるが、草原にはほとんど起伏がなかった。

 遮るもののない風がいっきに彼を追い抜き、ざわざわと草を薙ぎ倒してゆく。その風は乾燥して冷たかった。乾ききった灼熱の砂漠とも、湿潤で温暖な王都とも違う。生まれた時から彼が馴染んだ風であった。

 ナタレは厳しいが心地よい空気を肺いっぱいに吸い込みながら、馬に鞭を当ててさらに速度を上げた。

 この地がやはり自分の生まれ故郷だと思える。身体に溜まった澱がすべて風に攫われて、代わりに強い力が満ちてくるように感じる。

 青く高い空と広く緑の大地の狭間をひたすら駆けながら、彼は大声で叫び出したくなった。自分の引き受けた重責を吹き飛ばすほど、爽快で幸せな気分だった。


 日差しの眩さ、風の冷たさ、草の匂い――そのすべてを決して忘れない。これこそが自分の心と身体の根幹だ。


 たとえ、二度とここへ帰って来られなくとも。

ようやく次回から最終章です。

もうちょっと、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

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