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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第五章 東へ
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潜入作戦

 王宮の東端にある離れは、普段めったに使用されることのない建物であった。

 先王の時代までは賓客の随行者などの宿舎に当てられていたが、数年前の大幅な改築により王宮の中央部が広がり、不便な離れを使う必要がなくなったのである。今ではよほど大規模な使節団が訪れた時くらいにしか開放されず、使用頻度はめっきり減っていた。


 その離れが、今日は十数人の衛兵に警備されていた。

 外からの侵入に備えるというより、中から出て行かせないための守りのようだ。ここも他の建物と違わず壁の少ない開放的な造りだから、入口と窓だけでなく棟全体を取り囲むように配置されている。

 とはいえ衛兵たちは重武装しているわけではなく、物々しい雰囲気はない。中にいる人物がそれほど危険ではないと判断されているのだろう。


 若い衛兵のハトウは、いささか手持ち無沙汰で通路に立っていた。

 今日は建国祭の最終日で、衛兵隊の全員が王宮の警備についている。その中から人数を割かれて急遽この離れの警備に借り出されていて、当然交代もない。彼らは今朝の明け方から正午を迎えようかというこの時間帯まで、ここに張り付きっぱなしなのだ。

 しかも中にいるのは子供一人だよ――ハトウは建物の中に目をやって、上官に見つからないように小さく溜息をついた。


 ロタセイの王太子ナタレ――自国が反乱を起こしたとかで、処分が決まるまでここに軟禁されている。

 国王侍従見習いを務めていた彼と直接言葉を交わしたことはなかったが、王宮でちょくちょく姿を見かけていた。凛と背筋が伸びていて賢そうで、なるほど辺境の小国とはいえ王族とはこういうものかと、ハトウは感心したものだ。

 あの少年が一夜にして囚われの身となってここに閉じ込められていると思うと、人質である以上仕方のないことだと分かってはいても、やるせない気持ちになる。それが王族の責任だというなら、自分は平民で本当によかった。


 ハトウがあくびを噛み殺し、空いた腹を撫でた時、バサバサバサと何かを叩きつけるような音が聞こえた。

 思わず腰の剣に手を伸ばした彼の目に映ったのは、王宮の中央の方角から大挙して迫ってくる、小さく鮮やかな色彩たちだった。

 それは小鳥の群れだった。

 赤や青や緑や黄色や橙や、様々な色合いの小さな翼が、まとまって大きな羽音を立ててこちらへ飛んで来ている。


「な、何だよ……うわっ!」


 同じように驚く衛兵たちの肩や頭を掠めて、それらは低い位置を飛び回った。狭い場所からいきなり開放されて、混乱しているような飛び方だった。

 さらにやって来たのは小鳥だけではなかった。

 群れの後を追うように、今度は地上を駆ける小動物、犬や猫や猿や栗鼠が押しかけて来たのである。どれも皆小さくすばしっこい。あっという間に衛兵たちの足元を駆け抜けた。


 唖然とするハトウらの前に、四人の若い女官が息を切らして走ってきた。


「な、何事ですかこれは!?」


 入口を守っていた分隊長が血相を変えて問う。

 女官たちは揃って頭を下げて、


「申し訳ございません! お役目の邪魔をしてしまって」

「リリンス様がお買い求めになった動物なのですが、目を離した隙に檻から逃げ出してしまいましたの」

「猿です! あの猿が檻を破って」

「傷つけぬよう捕獲しなければならないのです。お力をお貸し頂けませんか?」


 と、早口に捲し立てる。

 四人とも王女付きの侍女としてハトウは見覚えがあった。

 なるほど、あの好奇心の強い王女であればこれだけの動物を買い集めても不思議ではない。今日は外国の商人も多く訪れていることだし。

 分隊長は困惑気味に腕を組む。


「そう言われましても、困りましたなあ。我々も勤務中ですから」

「何とかお願い致します。一匹でも逃がしてしまったら姫様に叱られます」


 女官は縋るような上目遣いで、まだ若い分隊長に哀願する。分隊長は言葉に詰まった。

 これは落ちるな、とハトウは思った。彼の上官は仕事には厳しいが、ガチガチに頭の固い人間ではない。そして女性には若干甘いところがあった。


「……全部で何匹いるのですか?」


 彼は庭の木々を眺めて言った。

 小鳥をはじめほとんどの小動物は、アカシアやオリーブの高い枝に登り、ちょろちょろと姿を見せている。小犬はまだ彼らの足元でじゃれあっていた。


「小鳥が全部で二十七羽、犬が三匹、猫が四匹、猿が二匹、栗鼠が四匹、それから孔雀が一羽います」


 答える女官の脇を、長い尾羽を引き摺った雄孔雀が悠然と歩いて行く。

 分隊長は大きく溜息をついた。


 ――結局、衛兵のうち約半数が捕獲に協力することになった。

 離れの警備は要所のみに絞られ、ハトウは一人で王太子の部屋の入口の守りを任された。

 鳥を捕まえる方がよかった、そうしたらあの女官たちと仲良くなれたのに、などと不届きなことを考えて、彼は舌打ちをした。


 離れの最も奥に位置する部屋だ。入口は分厚い間仕切り布で閉じられ、中の様子は分からないが、王太子は大人しくしているようだった。

 脱出を試みるようには見えなかったし、こんな所誰も来やしないよ――空腹と眠気であくびが出た時に、離れの入口からの通路を二つの人影がやって来るのが見えた。

 逆光になって顔がよく分からないが、裾の長い衣装の形から女と知れた。さきほどの女官たちかと思い、ハトウは思わず笑顔になった――だが全然違っていた。


 小走りに近づいてきた二人の女の顔を認識して、彼は腰を抜かしそうになった。

 リリンス王女と、その侍女キーエである。

 王女のことはもちろん一介の兵士であるハトウも知っている。そしてキーエは、彼と同時期に王宮に勤め始めた女友達だった。


「こ、これは王女様」


 慌ててその場に膝をつこうとする彼を、リリンスは押しとどめた。


「そのままそのまま。ちょっとだけ中に入れてもらえない?」

「は?」

「ナタレと話したいの。すぐに済むから」


 王女は両手に紙を巻いた筒を抱えていた。切羽詰った表情をしている。

 ハトウはピンときて、付き添ってきたキーエを睨んだ。


「そうか、キーエ、外の騒ぎは陽動だな?」

「姫様、私が話しますから、少々離れていて下さいませ」


 キーエはリリンスを通路の中ほどまで戻らせると、ふっくらした顔をハトウに近づけた。


「お願いよ、ほんの少しだけナタレ様に会わせてあげて」

「無理に決まってるだろ! 見逃してやるからさっさと帰れ。こんなことがバレたら……」

「ハトウ、あなた上官がいない時を見計らって、よく女を兵舎に連れ込んでるわよね」


 目の据わったキーエに低い声で言われ、ハトウはぎょっとした。


「な、何を……」

「それも毎回違う女で、みんな王宮の女官。これ、分隊長かもっと上にバレたら、どうなるかしらね?」


 キーエはフンと鼻を鳴らした。ぽっちゃりと可愛らしい作りの顔だけに、物凄く憎々しい感じがする。


「言いがかりだっ……そんな、何の証拠が」

「しらばっくれるなら直接本人たちに聞いてやるわよ。カルナ、ティマリ、シドッタ……」


 ハトウはみるみる真っ青になって、額から噴き出す汗を拭った。もう自白してしまったようなものだ。


「このくらいの情報収集能力がなければ、王女付の侍女は務まらないの。でもここを通してくれたら全部忘れるわ。お願い、あなたに迷惑はかけないから」


 主人に忠実で優秀な女官は、最後は真摯な口調になって、深々と頭を下げた。





 ナタレは昨夜から身じろぎもほとんどせず、ガランとした広い部屋の隅で膝を抱えていた。

 身体のあちこちがズキズキしていた。昨日の試合の怪我が痛むのか、あるいは一晩中同じ姿勢でじっとしていたせいなのか、もうよく分からなかった。


 昨夜訳も分からず衛兵に連行されて、一時はアノルトによって留置牢に入れられそうになったのだが、国王の判断が下るまでは罪人ではないというシャルナグ将軍の進言で、ここで軟禁状態に置かれることになった。

 体の自由を奪う縄も鎖もない。だが、ナタレは動くことができなかった。

 当初の混乱は去り、一晩ゆっくりと考える時間が与えられた。

 冷静になるにつれ、あまりの事態に脳だけが凄まじく活動し、代償に身体が言うことを聞かなくなった。初めての経験である。


 明け方頃にシャルナグ将軍が訪れた。

 将軍はロタセイの状況について届いている情報を丁寧に説明し、一睡もしていないナタレを気遣ったが、彼は受け答えもできずに蹲ったままだった。


 入口だけでなく窓にも布が掛けられていて、直射日光は差し込んでこない。ただ湿度を含んだ生ぬるい風で、もう正午に近いのだと分かった。

 少し外が騒がしいようだった。特に何の感慨も湧かない。


 俺はこんなところで何をしているのだろう、とナタレは重い頭で思った。身体だけでなく、今は頭も痛い。瞼の裏がジンジンと痺れる。

 父が死んで、兄が反乱を起こし、ロタセイは真っ向からオドナスに刃向かっている。

 王太子である自分をオドナスの真っ只中に取り残して……。

 祖国はおまえを見捨てたようだな――アノルトの冷ややかな声が耳の奥に甦る。


 そうか俺は見捨てられたのか。


 一晩考え続けて、ようやくそれを思い知った。

 自分はロタセイに必要ないと、そう切り捨てられたのだ。兄がそう判断した。必要ないと……。

 頭が痛い。


 ナタレは軋みを上げそうな首を回して、部屋の中を見回した。

 結局使わなかった寝台の向こうに小さな机があり、水差しとグラスが置かれている。朝食と一緒に運び込まれたもので、食事の方はナタレが手とつけなかったので片付けられてしまったが、飲み水だけは残された。

 あの水差しを割れば、破片は鋭いだろうか。喉を切り裂けるくらいに。


 俺がここで死ねば、兄上は心置きなく戦える――父上は俺を誉めてくれるだろうか。


 霞のかかった頭でそんなことを考えると、少し気持ちが楽になった。

 本当はもっと深いところが麻痺してしまっているのだが、彼は気づかない。国のためにも自分のためにも最もよい選択に思えた。


 ナタレは水差しを凝視して、行動に移すきっかけをただ待っていた。


 ひときわ強い風が吹き込み、窓に掛けられた布がいっせいに膨らんだ。

 室内を守っていたはずの布はあまりにも脆弱だ。強い力を受けるとたやすく外界からの侵食を許す。薄い緑色の麻布は、陽射しを孕んで生き物のように蠢いた。


 風が収まり、布が静かになると、ナタレは立ち上がった。

 水差しを見詰める彼の視線が、ふと上がる。

 その先に、リリンスが立っていた。

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