8.エンドロールには、まだ早い。
夕方。
尽紫が香椎駅前から香椎宮の方へ向けて香椎参道を歩いていると、街路樹からガサリと何かが飛び降りてきた。反射的に避けると、影はくるりと回って行く手を阻む。
華奢な雄の猫又が、ふうふうと毛を逆立てて尽紫に威嚇していた。
「俺の主人に何をした」
「楓のこと?」
尽紫は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「普通の暮らしをさせてあげるだけよ。危険のない、人間としてのただの暮らし」
猫の方だって数百年、人間と共に暮らしてきたのだから、あやかしに関わらない今の現代人の『此方』の事情だってわかるだろうに。
「ああ、安心して頂戴。貴方の記憶は封印しないわよ。だって貴方、楓ちゃんがいないと霊力が安定しないほど弱っているものね? 流石にそこで縁を切らせて、貴方が逝ってしまったら気分が悪いもの」
尽紫は黒猫の脇を通り抜け、振り返らずに先に進む。
背中に向かって何か、怒りに満ちた鳴き声がにゃあにゃあと聞こえた気がするが、すぐに尽紫の意識の外へと消えていった。
猫なんかに構っている暇はない。
今、住処にはお楽しみがいるのだから。
ーーー
尽紫は立花山の近くで立ち止まると、木々の生い茂る森に向けて手をかざす。
真っ白な手のひらから正方形の面がクルクルと広がり、暗闇の結界が開かれる。
その暗闇の真中には一軒の武家屋敷が、仄かに光を帯びて浮かび上がっていた。
尽紫は結界に入り、武家屋敷の門をくぐって屋敷に入ると、長い板張りの廊下を奥へと進む。
無人の屋敷の中心には、真四角に開かれた広間が広がっていた。
敷き詰められた畳の上には、赤い荒縄に吊るされた雄狐の姿があった。
「……尽紫か」
尽紫に気付くと彼は、疲れ果てた昏い眼差しで姉を睨んだ。
「ただいま、紫野ちゃん。いい子にしてた?」
「縛り上げて吊るして放置して、俺は干し柿じゃねえんだぞ」
「……あら、思ったより元気そうだこと」
「お陰様でなあ」
尽紫は縛り上げた縄を通じて、傷ついた紫野に霊力を与えていた。お陰様、とはそういう事だ。
紫乃はスーツを脱がされ、身を清められたのちに袴の和装姿に整えられて吊るされていた。尽紫としても早く解放してやりたいが、今はまだ楓と契約を切りたてで霊力が乱れている。
「楓に余計な手は出してないだろうな」
唸るように低く問いかける紫野に尽紫は正直に頷く。
「ええ。彼女が関係したあやかしの記憶を封印していて、楓の記憶の整合性を取っているだけ。何かとすぐに何かを思い出そうとするものだから、狐雨を降らせてばかりよ」
「……毎度毎度通り雨か。さぞ天神地区の皆さんは迷惑だろうな」
「でしょうね。天気予報が晴れでも、傘を携帯する人が多いみたい」
「他人事みたいにいうなよ」
「そうね。紫野ちゃんが楓ちゃんと出会っちゃった責任ね」
「……」
紫野は黙り込み、尽紫から目を逸らす。まるで心を閉ざすかのようだ。弟はまだ、楓の未練を捨てきれないでいるらしい。
「紫野ちゃん」
尽紫は弟の顎を取り、弟の端正な顔を手のひらで包む。
弟。体こそは立派な雄に育ったけれど、二匹の小さな毛玉として二人ぼっちで生きていた時代から、弟が愛しくて可愛らしいのは何も変わらない。
「大丈夫よ。貴方の『此方』での仕事が全部片付くまではちゃんとこっちにいるし。楓の記憶の封印が安定すれば、貴方も解放してあげる」
は、と紫野は鼻で笑う。
「早く解放して欲しいものだな。仕事をすっかり羽犬塚さんに預けっぱなしだ」
「羽犬姫、ねえ」
尽紫は昼間会った女の意味深な笑みを思い出す。
もやもやとした気持ちを振り払うように、尽紫は紫野に笑んでみせる。
「私も春として、しばらくは『此方』にいる予定だから。……80年くらい、短い間だけど姉弟水入らずね」
黙り込んだ弟を抱きしめ、尽紫は愛おしさを込めて額に口付ける。
無表情の弟に小さく「らい」と呼べば、ぎらりと睨まれた。
「旧い名で呼ぶな」
「もう契約を切ったから、紫野ちゃんじゃないのに?」
「……」
不意に、弟は何かに気づいたかのように目を見開く。
「姉さんはまだ、尽紫なんだな?」
「……そうよ。何が悪いの」
ーーー
私ーー菊井楓は今日も絶不調。
あまりに顔色が悪いため、ついに上長より早退を命じられてしまった。
「申し訳ない……」
ふらふらになりながら天神地下街を通って帰路に着く。昼過ぎの天神地下街は買い物客や観光客だけで、朝夕より幾分か人出がまばらだ。病院の予約を入れなくちゃ、と思うのだけど、人にぶつからないように歩くので精一杯だ。
「最近、体調が悪すぎるなあ……」
たびたび雨に降られ、頻繁に頭痛に襲われているせいかすっかりグロッキーだ。
しっかり早寝早起きを意識して、ご飯をきちんと食べたり運動したり、何かと気をつけてはいるのだけれど。
「……だめだ。少し薬局によって栄養剤買って帰ろう」
帰宅する気力すら湧かない気分に活を入れるため、私は地下街のドラッグストアを一路目指す。
ちょうどソラリアステージの真下を通っている時だろうか。
急に、スマホが着信音を鳴らした。
「会社かな」
スマホのディスプレイを覗くと、そこにはゴシック体で端的に名前が表示されていた。
「え、『高橋様』……?」
家族や友人は呼び名、仕事の知り合いはフルネームと関係まで入力しておく癖がある私は、「高橋様」だけで入力することは殆どない。
非通知でないのだから、知り合いではあるのだろう。
「……もしもし、菊井ですが」
訝しみながら電話を取った私に、明るく弾んだ男性の声が聞こえてきた。
「おお、楓殿か!」
ーーかえで、どの?
私は混乱する。菊井ではなく下の名前で、しかも『殿』付きで呼ばれるなんて初めてだ。
「え、ええと……」
言葉をなくした私に構わず、通話相手の男性は嬉しそうだった。
「いやあ、電話さえ繋がらなかったらと案じていたぞ。いや、よかった」
柔らかな紳士の声が弾むのを聴きながら、私は強烈な違和感を覚え、地下街の片隅にしゃがみ込む。
二日酔いみたいに頭がガンガンする。
けれど、この痛みから逃げてはならないと『勘』が告げている。
春ちゃん紹介の主治医から貰った薬で抑えてはダメだ。
「貴方様は、高橋様……」
目を閉じて額を抑え、私は必死に痛みを乗り越えた先に辿り着こうとする。
「確か、太宰府で……以前太宰府でお会いした、お武家様、ですか?」
その瞬間、電話の向こうの紳士が笑った気配がした。
「ふむ。やはり私の記憶には手が回っておらぬのだな」




