最終話 濁流に手を繋ぐ
僕は濁流の中、ミクミさんの手を握った。彼女も握り返してくれた。
繋いだ手はそのままに、彼女の腕を掴んでいた逆の手を離してやる。
僕らは二人で並んで、力を抜いて、シンクロした動きで下流に足を向けた。流れにほとんど身を任せることにした。きっと互いに信じていなければできないことだ。
どこか流れの弱い比較的安全な場所はないかと、流れを緩やかにする大きな岩なんかを探してみたけれど、見つからなかった。
高所から滑り落ちる滝なんかに辿り着いてしまったら、終わってしまうかもしれない。
強敵との戦いのような、緊迫した展開が続く。
迫りくる小さめの岩を二人で蹴飛ばして避けたり、上から流れてくる木の枝や草などを互いに払いのけ合ったりしているうちに、比較的緩やかな開けた場所に出た。
ミクミさんは叫ぶような大声で、
「フシノ、みて、右側に岸がある!」
「わかりましたぁ!」
僕も大声で返した。
僕らは身体を少しだけ傾けて、岸のほうへとゆっくり進路を変えることに成功した。
僕と彼女は手を繋いだまま、膝をついても流されない場所まで到達した。泥まみれになりながら這っていき、やがて乾いた土の上に、彼女が仰向けに寝転がった。
僕はその勢いに引っ張られ、彼女に四つん這いで覆いかぶさるような姿勢になった。
驚いた彼女の顔が近くにあらわれ、ドキっとした。
でも一瞬で、繋いだ手を支点に、ぐるんと仰向けに転がされた。
空は美しく晴れているのに、濁流の水の音だけが、おそろしく激しい。水しぶきの音だとか、バキバキと樹木の枝が折れる音などが響き続けている。
しばらく立てそうにない。身体が重たい。
スキルでも使い過ぎただろうか。
僕は仰向けになったまま、何十秒もかけてやっと息を整えると、僕と同じ姿勢で荒い呼吸をしている彼女に語り掛ける。
「ミクミさん、無事ですか?」
「ん……うん、ありがと、フシノ」
しばし沈黙。
そして、せっかく呼吸が整ってこようかという時に、二人して大笑いしてしまった。
「あっはは、はぁ……おかし。『ミクミさん』って、何それ」
「ええ、すみません。でも、ミクミさんはミクミさんでしょ」
「うん、正直、そう呼ばれてしっくりきたし。ショウちゃん、あたしと同じ夢を見たんだね」
「きっと、夢じゃないんだと思います」
「そうだね。こっちの世界のショウちゃんが今みたいに笑ったの、久々に見たよ」
「僕も、金髪じゃないイトちゃんが笑ったの、久々に見た気がします」
「それはさ、顔を上げてなかった証拠だよね」
「ああ……なるほど」
そこで会話は途切れたけれど、決して悪い雰囲気ではなかった。
「青いね、空が」
彼女は自由なほうの手を天にかざして、感慨深げだった。
★
しばらく休んだ後で、僕らは服を脱ぎ、下着姿になった。
いや別に、何らやましい話でもない。濡れた服を着続けていたら風邪を引く危険度が高まるからだ。
僕は当然のように、彼女に背中を向けるポジションを保っていて、白い乗用車を隔てて向こう側にいる女の子の姿など目には入れないようにしていたのだが、
「ねえ、みてフシノ! シャツ絞ったら泥水こんな出たし!」
「いやっ、見ませんよ。そっち行ったら見えちゃうでしょ」
「うへー、ビショビショだー。はやく乾かないかな」
新緑がまぶしい季節で、気温は決して低くなかった。待てば乾くだろう。
とはいえ、完全に乾くまでは時間がかかるから、水気が少なくなるまで絞ったら、気持ち悪くてもなんでも、もう一度着てもらって、泊まる予定だった民宿を目指すことにしよう。
彼女を説得し、体操服を着なおして、僕らは並んで歩いて行く。
異世界の思い出話を交わしながら。
★
僕と彼女は、身体のあちこちに切り傷ができていたものの、奇跡的に大きな怪我はなく、無事に生還した。
親切な地元の人が、車から歩道を行く僕らを発見して、民宿の近くまで乗せてくれた。
身体にいくつか切り傷があったから、病院に行くことを勧められたが、まずは友達や先生たちを安心させたいというミクミさんの希望で、民宿に連れて行ってもらうことを優先した。
「ここでいいのかい? 気を付けてね」
僕らは、ありがとうございましたと深く頭を下げた。
宿の入口が見えた時、皆が玄関のところで待っていて、僕らの姿を見るや数人が猛ダッシュで駆け寄ってきた。
イベントごととなるとやる気を出す熱血な担任の先生には、よかったよかったと抱きしめられた。
周りのみんなも、ホッとした顔をしていたり、心から喜んでいるようだったり……。
この時、みんなの表情を、どこかで見たなと思った。
「ああ、ホクキオの……」
僕が壁の近くに迫った魔物を倒した時の、喝采の雰囲気に近いものを感じた。
やっぱり、僕が高く堅牢な壁を築いていただけで、最初からみんな、僕を嫌っていたわけじゃないんだ。そのことに、僕は異世界の旅を通して気付くことができたのだ。
クラスのみんなと足並みが揃えられなかったことだとか、運動会の朝練に一人だけ遅れていく大失態だとか、それによって他のクラスに勝てなかったことだとか、次々に行われるイベントで僕だけ団結できなかったことだとか、そんなこと、思ったほど皆は気にしていなかったんだ。
女子たちはミクミさん――じゃないか。根萌浦衣渡のところに集まっている。
「よかったァ、ネモちゃん。どうなることかと思ったよ、伏野くんを追っかけて飛び込むなんて……」
「ちがうし、足を滑らせただけだし」
「いやいやネモちゃん、飛び込む直前に思いっきり上着脱いどったじゃん、その言い訳は通らんよ」
どうやらイトちゃんは、仲の良い友達からネモちゃんと呼ばれているようだ。
というか、僕を助けるために飛び込んでくれたんだな。
だったら命の恩人ってやつだ。
ここは一つ、海より深い感謝の気持ちを心から述べておこう。
「――ネモちゃん、ありがとうございました」
僕が歩み寄って言った時、彼女は恥ずかしかったのだろう、顔を真っ赤にして、怒ったような口調で、
「あ、あんたはネモちゃんて呼ぶなし!」
そう言われて、つい僕の口から慣れた謝罪が出てきてしまった。
「あっ、ごめんなさい、ミクミさん」
「ちょっ、そっ、それもだめ!」
彼女はあわてて声を裏返した。
「あっ、あーそうか、わかった。ごめん悪かった、イトちゃん」
「まったくもう」
そのやりとりを見ていた隣のクラスの女子は、腕を交差させて、僕らをそれぞれの手で指差した。
「ねえ、妙に親しいけど、二人って、付き合ってたりするのかな?」
「べ、別に付き合ってないし? 仲良しな幼馴染なだけだし?」
あわてて否定する彼女と、
「そうです。ただの幼馴染です」
冷静に返す僕。
でも、僕の返答の直後、幼馴染から非常に陰の者らしい暗黒のオーラが発せられた気がした。何か間違ったことを言っただろうか。
お友達は、なぜだか嬉しそうに、「ふぅん」と喉を鳴らした。
★
生還から数日過ぎての登校日。
病院に連れていかれた後に、それぞれの家に帰らされた僕と彼女にとっては、久々の登校日となる。
僕は廊下で、さっそく幼馴染と再会した。
ばったり鉢合わせた形だ。
彼女は、髪を金色に染めていて、長かった前髪が切られ、後ろ髪も持ち上げて縛っており、その姿はまるで、僕が憧れた快活な女剣士ミクミさんのそれだった。とても見慣れた姿を見れて、心の底から嬉しすぎる。
僕から「おはよう!」と声を掛けると、彼女は陽の者らしく明るい声で、「おはよ!」と返してきた。
そうして声に出して笑い合い、互いの右手を強く叩き合う。
けっこう痛い、けど、その痛みに見合うくらい、とても良い音が響いた。
新たな始まりを告げるハイタッチである。
僕はその勢いのままに、ざわざわと雑談が飛び交う僕の教室に足を踏み入れた。近くの席に、かつて仲の良かった男子グループが集まっているのが見えた。僕は、「おはよう」と挨拶をした。
「おう」とか「ああ」とか戸惑いながらの挨拶が返って来た。
陰の者だった頃の僕だったら、そういう微妙な空気がすごく気になってしまって、焦って自分の席の机に伏すくらいのことはやっていたけれど、今の僕はもう違う。
強くなったのだ。
堂々と、悠然と、自分の席に向かう。
僕が自分の机に鞄を置いた時、一人の男子生徒が僕の席まで駆け寄って来た。
とても陽の者で、僕のクラスの中心的存在だ。イベントごとになると、担任の女教師と同じくらいアツくなって皆を引っ張っていく、眩しくて格好いい、憧れざるをえない男子生徒だ。
そんな彼が、僕に何の用だろう。
「おい伏野ォ、さっきのなんだ?」
「え? さっきの?」
「ていうか、さっきの誰だよ」
「だから、さっきのっていうのは……」
「はぐらかすなよこの野郎。見たこともない金髪美女と廊下でハイタッチなんかしてただろ」
「ああ、あれは隣のクラスの幼馴染との、ただの挨拶です」
「名前は? なんてーの?」
「僕はフシノですけど」
「バッカ、そうじゃねえよ、あの子の!」
「イトちゃん、ですかね。この世界だと」
「イトちゃん……イトちゃんってーと……イト、イト……? はぁ? まじかよ、根萌浦衣渡か! あの陰キャオブ陰キャの!」
「あんな可愛かったんですよ、知らなかったでしょう?」
「ああ、まじウラヤマだわ」
「ですよね。僕も誇らしいです」
「ところでよ、伏野。俺さ、どうしてもお前に言っときたいことがあるんだよ」
「えっ、なんですか急に。あらたまって」
そして、彼は少し間を置いてから、真剣な表情のまま口を開いた。
「ごめんな、流されるまで、気付いてやれなかった」
しまったと思った。僕から先に、ずいぶん昔の失敗を今さら謝ろうと思っていたのに、先を越された。でも、先を越されたから何だって言うんだ。僕も、僕の伝えたいことを、ちゃんと言葉にして伝えたい。
「僕のほうこそ、これまで、ごめん」
まるで相手の「ごめん」に便乗するような形になってしまったけれど、ようやく言えた。ずっと言えなかったことを。
それこそが、僕の心の空を晴れ渡らせる究極にして最強の神技だったのだ。
「あ? ごめん? 何がだよ」
「何だろうね」
僕の級友は、「わけわかんねー」と言って笑った。僕には、わけはわかっていたけれど、彼が笑ったのが嬉しくて僕も笑った。
そこでチャイムの音が流れた。
教室にあふれる、さまざまな声を包み込むように。
僕の冒険は、始まったばかりだ。
【終わり】




