第52話 いつか、僕らはこの世界を去るだろうけれど
僕も異世界から消滅した。
かといって、すぐに現実世界に戻ったわけではなかった。
目を開くと、ぼやけた明るい視界にクリアな声だけが響く。
「おめでとうございます、伏野松栄」
女性の声。年上のおねえさんっぽい声だった。
姿は見えない。どんなに目を凝らしてみても、ぎりぎりシルエットが確認できるくらいのものだ。まぶしいくらいの光の中で、赤い髪をして赤い服を着ているということくらいしかわからない。
「あなたは?」
「私はエリザマリー」
「エリザマリーさん……。あの異世界の女王になる予定の人で、ティエラさんのお母さんですよね」
「女王、なんて言われると、なんだかとっても畏れ多い気もするのですが、そうですね。この声も、きいたことがあるはずです」
言われてみれば確かに。
魔王との決戦直前の宮殿で、一度だけ彼女の声らしきものを耳にした。あの時はたしか、親子の問題に無責任に口を挟んでるんじゃないのよ、みたいなことを言われた気がする。
「ひょっとして、これがエリザマリーさんがいつも寝ている理由なんですか? クリアした転生者を元の世界に送り帰すっていう……」
「それだけではないですけど、たしかにこういう挨拶をしている時には眠りに落ちていますね。それから、実をいうと、私がこうして介入しなくても、魔王を倒した転生者は勝手に現実に帰っていきますからね、それでも私が最後に言葉を掛けに来るのは、感謝の思いを伝えたいからです」
「儀式、みたいなものですか?」
「そんな大層なものではありませんよ。さっきも言ったように、ここは、ただ私が、帰りゆく人々に心からの感謝を伝えたいという、そういうワガママな願いから生み出された本当に小さな泡のような小部屋です」
「はあ、なるほど」
そして彼女は、ゴホンとひとつ咳払いをして区切りを入れ、優しく語り掛けてきた。
「伏野松栄さん。あなたは、世界を救ってくれました」
「そう、なんですかね。僕は、たくさんいる転生者の一人に過ぎず、たくさん生まれてくるであろう大魔王の中の一柱を倒しただけです。ということは、これからも危機は続いていくんじゃないかと思います。僕は現実に帰りますが、これからの異世界も少し心配です」
「優しいのですね、フシノは。あなたが望むのなら、契約を交わして、ずっとこの異世界マリーノーツに居てくれても良いのですよ?」
異世界で戦い続ける。そういう選択肢も用意されているらしい。
だけど、もう僕の決意は揺るがない。
ここでのやるべき事はやり切った。あとは、僕の世界で生き抜くだけだ。
「決意は固いようですね。でも、一応、これを渡しておきます」
ぼやけた視界の中、彼女は僕の胸に手を伸ばしてきた。
胸に触れられた感触があった。
「今のは?」
「ただのプレゼントですよ。この世界に再び来ることのできるチケットのようなものだと思ってもらえれば良いです。ただし、何も無い時には入ってくることはできません」
「裏を返すと、何かがあるときなら入れるということでしょうけど、『何か』って何ですか?」
「この世界が、悪しき魔王などによって支配されかけるとか、そういう、あってはならないほどの危機的な状況に陥る時には、魔王討伐の経験者に呼び出しが掛かります。そのサインを見逃さないでもらえたら、ありがたいなと思います」
「普通に遊びに来ることは……」
「それは難しいでしょう。考えられません。何もない平和な時には、非常に難解な暗号の鍵がかかっています。人間や人間の生み出したものではまず解錠が不可能なレベルの堅牢なそれを解くことができるなら話は別ですがね」
「機械に詳しくないと無理そうですね」
「いいえ。どんなに詳しくても無理なレベルの暗号です。気持ちでどうにかなるようなものでもありません。なので、あの異世界での出来事は、ちょっとイタい夢だったとでも思って、すっきりさっぱり生まれ変わった気持ちで、もとの世界で楽しく生きるといいです」
エリザマリーさんは、突き放すように言ってくれた。
それが限りない優しさから来るものだと伝わってきて、僕はとても安心した。
僕に優しくしてくれたティエラさんの母親が、優しい人でとても良かった。
「エリザマリーさん、この世界は、あなたが作ってくれたんですか?」
「いいえ、違いますよ。もともと無数にある世界の一部で、私は、そのうち一つの小世界に、小さな国を作ろうとしたまでです。皆が仲良くできる世界。人も、エルフも……いつかは獣人も、あわよくばモンスターや魔族たちも。現実では絶対に考えられないような、夢の世界を」
「いくら夢の世界のなかだからって、それはさすがに夢見すぎではないかと思います」
「そうかもしれません。でも、そうじゃないかもしれません。いつか、色んな世界のどこかで、そんな素敵な日々が実現することを信じて、私はいろんな世界のあちこちに願いのかけらたちを遺しました。うまくいくかどうかは、賭けみたいな……いえ、ちがいますね、賭けそのものです。でも私、自信はあるんですよ。根拠はないんですけどね」
根拠はない、か。
「僕の幼馴染も、よく似たようなこと言ってました」
「ええ、根萌浦衣渡さんですよね。さっき、あなたが来る前に意気投合しました」
「彼女も、ちゃんと帰ったんですよね?」
「ええ、彼女は、もとの世界であなたを待っています。あなたの力が必要です。はやく行ってあげてください」
「そうですね。言われなくても」
「大変なことになっているので、覚悟してくださいね」
「それってどういう……」
エリザマリーさんは、そんな僕の戸惑いだらけの問いに答えてくれることはなかった。
ただ、「さようなら」と優しい声だけを耳元で囁いてくれた。
そして僕は、長いようでとても短く、短いようでとても長い夢から目覚めていく。
★
「ゴホッ、ゴホンッ」
エリザマリーさんの真似をして咳ばらいをしたわけではない。
僕の身体が、口の中に変な味が流れ込んでくるのを感じて、急いで吐き出したのだ。
ここはどこで、今はどうなっているのか。
だんだんクリアになってきた視界で、茶色い水しぶきが跳ねた。
僕の身体は、どうやら立ち泳ぎをしているらしかった。
でも、強い力が腕や脚や胴体を引きちぎろうとするかのように暴れ狂っていて、全くコントロールできない。
とんでもない水圧だ。
流されている?
ああ、そうだ。流されている。
ここは濁流の中だ。
異世界での旅をするうちに忘れていた。僕は中州に取り残されていただけではなかった。濁流に呑まれてしまっていたのだ。
「フシノっ、フシノぉ!」
僕の目の前を、手を伸ばしながら流れていく人が見えた。
体操服姿の、僕の幼馴染だった。
長い黒髪がべったりと顔に貼りついていて顔なんか見えないけれど、たしかに根萌浦衣渡だ。
じたばたと流れに抗うように暴れている。
なんで流されてるんだ。
逃げ遅れたのは僕だけじゃなくて、彼女もまた、僕が取り残された中洲にいたのだろうか?
いやそんな疑問はどうでもいい。
いまはただ、彼女を助けるんだ。
今度は絶対に遅れない。
水を吸った服のせいだろうか、身体がうまく動かない。異様に重たく感じた。あるいは、強靭な転生者としての動きに慣れ切ってしまった僕の脳や心が、現実での非力さに悲鳴をあげているのかもしれない。
でも、無理だとか、もうやめようだとか、ありえない。
いつの日か、僕もこの現実世界を去るのだろう。けれど、それは今じゃない。
こんなところで終わったら、後悔しかない旅路のままだ。
あの異世界で、これでもかってくらいに僕を助けてくれた彼女を、今度は僕が救う番だ!
自分も全然助かってはいないけれど、とにかく助けるんだ。
僕は全身全霊で水をかき、彼女に近付いていく。
いやな予感を感じて横を向くと、上流から、根っこ付きの大木が猛スピードで迫ってくるのが見えた。
やばい、と思った。
反射的に身体が動いた。
もしかしたらこれは、神速の動きだったかもしれなかった。
僕は濁流の中に勇敢に潜りこみ、強烈な水流をかいくぐり、手さぐりで彼女の腕を探し、ついに掴んだ。
息継ぎとともに水面に顔を出すと、すぐそばに、あの異世界で見慣れた顔があった。
ミクミさんだ。
髪の色こそ地味だけれど、それは確かに僕の恩人の顔だった。
僕と触れ合った時、それまで暴れていたのが嘘のように静かになった。
「落ち着いてください、って、言うまでもないですね」
「うん」
そして僕は、まだ掴んでいなかったほうの手を絡ませる。ほどけないように、しっかりと、強く握った。




